第17話 心のシャッターが降りない相手かも
時田あおいは、これまでの26年間の人生の中で恋愛経験がないわけではない。
小学生の時、クラスメイトの大人しい女の子にほのかな恋心を抱いて以来、ぼうっと見惚れてしまうような憧れの女性は何人かいた。
遠くから見ているのが好きなタイプで、自分から告白したりはしない。
どちらかというと、むしろ告白をされる側になることのほうが多かった。
茶色くてやわらかい髪の毛。色白の肌に、切れ長の伏し目がちな瞳。あまり伸びなかった身長。きゃしゃな身体。
あおいの外見は、ときおり熱心に好まれることがあり、後輩女子に熱狂的に追いかけられた経験もあった。
仲よくしていたひじきは、あおいよりも身長が7cm低く、そのことがひじきをとても個性的な存在に見せ、ファンクラブができるほどの人気ぶりだったから、あおい自身の個性はあまり目立たなかったが、決してもてないわけではなかった。
積極的に近づいてきた後輩女子と、ある初夏から半年ほど交際したこともある。
交際といっても帰り一緒に帰るか、週末に近所の店でジュースを飲んだり、夏休みに地元の花火大会に一緒に行ったり、お互いの誕生日にプレゼントを贈ったり、他愛もないものだった。
つきあっているという事実を作り上げるイベントや約束事を後輩女子の提案に従って実行した半年間だった。
ただ、周りから冷やかされるためにそれらをやっているようにあおいには感じられた。
事実、二人の会話の中には、実となるようなものはあまり感じられなかった。
少年の熱情を向けてこない、自分を必要としていないあおいに後輩女子はゆっくりそして確実に失望していき、クリスマスに他の男子との予定を入れることで、その交際はあっさり終了した。
その半年間の経験は、あおいに嫌な感覚を植え付けた。
それは、自分の自由意志を奪われたように外堀を埋められる息苦しさだったり、他者に自分の内側の言葉にならないあいまいな中心核を説明したくないうっとうしさだったり、自分にはない感情の振り幅をもつ人物に対する恐怖がごちゃまぜになった「うざい」という感情だった。
他者がうざい、という気持ちはそれ以来あおいの通常モードの感情として根深く浸透していった。
しかし今、目の前に突如あらわれた天女のような人物は、そういったあおいのもやもやした「他者がうざい」という心理的シャッターを、シャッターという存在ごとどこかへ飛ばした。
あおいは自分にずっと欠如していた欲求を、今ものすごい強さで内側いっぱいに感じていた。この人には、心のシャッターが降りない……。というよりむしろ……。
――話しかけたい!
あおいはまっすぐその女性に向かって話し始めた。
「すいません、こちらの方ですか」
三角巾をかぶった女性は、弁当を並べる白魚のような手を止めて「えっ」とあおいのほうを見た。
間近に見た彼女の顔はまるで夏の高山に咲く白い花エーデルワイスのようだとあおいは感じた。
陽射しを拒絶したような白い肌。媚びていない透明な瞳。いぶかしそうに眉がひそめられていた。
「あー、お休みなのにすみませんね」
そこへ大きな声を出して店長の春田が現われた。
「ちょっと買い物行ってまして。書類ですよね、これを待っていたんです。マリアさんひさしぶりだね。それからえっと?」
「春ちゃんひさしぶりー。この人は総務課の時田あおいくんだよ。あおいくんが書類届けるって言ってくれて、私はなんとなくついてきちゃっただけ」
年齢は離れているが、同期入社の春田に対してマリアの言葉づかいは友達口調だ。
「あ、時田です」
「おつかれさまです、春田です。時田さん、電話では何度かお話してますよね。お会いするのは初めてですね」
「すいません」
「いやいや、こちらこそ。あー、これで手続きできるな」
「何かあったの? 春ちゃん」
「ちょっと急に親が入院して、いろいろ入り用でねー」
「そっかあ。いろいろあるね。がんばって! 娘ちゃん、もうすぐ高校受験じゃない?」
「そうなんだよ、もうピリピリして大変だよ」
春田とマリアの会話に、あおいが割って入った。
「ところで春田さん、そちらの方は?」
話に割り込んできたあおいに、マリアが珍しいものでも見るように眼を見開いてびっくりしている。
「ああ、今月からアルバイトに入った本田美咲さん。美咲さん、こちら中央センターの清野マリアさんと時田さん」
美咲は、目深にかぶった三角巾の下から表情のない眼でこちらを見て、少しだけ会釈をする。
「美咲さん、仕事が正確で助かってるんだ。5月はいろいろばたついていてメンバーも交替して、一時はどうなることかと思ったけど。なんとか、落ち着きつつある感じ」
「がんばって!」
ナナカマド商店街に、午前11時を知らせるチャイムが鳴った。
「さあ、もう行きましょう、あおいくん」
あおいはぐずぐずと店内を見渡し、店先の弁当を見つくろいはじめる。
「ああ、これがトマト煮込み弁当か。コロッケができるのは何時でしたっけ」
美咲が小さい声で「12時と17時半です」と答えると、あおいが「12時をめがけて、またあとで来ます」と直立不動でまっすぐ美咲を見て言う。
マリアがきょとんして、「あおいくん、そんなにコロッケ好きだったっけ?」と首を傾げた。
イースト店を出て、地下鉄駅の方に戻りながらマリアが「あそこでサクお茶しよう」と誘ったのは、ケーキ専門店の喫茶スペースだった。
カントリー調のインテリアに、フリルのついたエプロンの女性店員、リボンがあしらわれたメニュー表。あおい以外、店内には女性しかいない。
普段なら絶対に入りたくない雰囲気の店だが、今日のあおいは違った。もしかしたら美咲が来たことのある店かもしれない、と思うだけで、ショーケースのどのケーキにも興味をもつのだった。
ケーキセットが運ばれてきた。あおいはショートケーキとアイスティー、マリアはさくらんぼタルトとハーブティだ。
「ごめんね、あおいくん。お友だちのとこ行くんでしょ」
「そうなんですけど、連絡つかなくて」
「え、そうなの?」
「今朝メールしたけど既読にならなくて。忙しいのかもしれないから、今日はやめとこうかと」
「ふうん」
「そいつ、高校時代の友達なんですけど。仕事辞めて演劇やるとか言ってるから、今何かと忙しいのかも……」
「へえ……。ねえ、あおいくん。じゃあ端的に相談していい?」
「端的じゃなくていいっすよ。どうせ、12時にコロッケ弁当取りに行くまで時間あるし」
「コロッケねえ……。ここのさくらんぼタルト、今だけなんだよね。今日来れてよかったー」
「ここ有名な店なんですか」
「知らないの!?」
「知りません」
「あおいくんさ、美味しいケーキ屋さんを知っておくのも広義の教養だよ」
「広義の教養」
「ま、いいけど。でさ、相談って言うのはね、男ごころについてなの」
「男ごころ……。いや、それ、適任じゃないかも」
「まあ、いいから。あのね、あおいくん、好きじゃない女の子に、写真だけメールすることってあると思う?」
「え、わからない」
「じゃあさ、好きじゃない女の子に、函館にくるみパン買っておいでよっていうと思う?」
「それは前後がわからないとわからない」
「じゃあさ、好きじゃない女の子に、仲間とのご飯へのお誘いすると思う?」
「それも状況がわからないとわからない」
マリアは、「うわ」と言ってからさくらんぼタルトを大きく切り、口の中に放り込んだ。
「なんかずいぶんな返答!」
「いや、だって、そうでしょ」
「気になっているからじゃないかとか、ほんとは好きだからじゃないかとか、そういうのないの!?」
「ないですよ! マリアさん、好きな人がいて、その人から写真のメール来て、その人函館にいて、マリアさんくるみパン買って会いに行ったんですね。そしたらその人のお仲間と一緒で、ご飯に誘われたんですね」
「ばっ」
「ば?」
「ばかみたいでしょ、私」
マリアは涙を一粒流してしばらくうつむいた。そしてうつむいたままタルトを食べ続けたので、あおいもショートケーキを無言で食べ続けた。
しばらくして二人とも完食すると、マリアは「あーあ」と大きく伸びをした。
「うじうじしててもしかたないかあ!」
そしてあおいを見て雨が晴れ上がったような明るい表情になってにっこり笑うのだった。
「やっぱり、ケーキは神だね。元気出た、かも」
「よかったです……」
あおいは自分のことをものすごく役立たずのように感じたが、「一緒にケーキ食べてくれてありがとう」と続けて言われ、ふわりと心が軽くなった。
「よかったです……」
今度は暖かい気持ちでもう一度言う。
マリアは微笑んで頷くと、不穏なことを口にした。
「明日、人事会議の日だね。私、今回はひと騒動あると思ってるよ」
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