第16話 あおいは胸をわしづかみにされた
「週末は空いていますか? あなたと美味しいものでも食べに行きたいと思いまして。お連れしたいイタリア料理屋さんがあるんですよ。アクアパッツアが美味しくて。あ、ドルチェも揃っていますよ。いやいや、それは気にしないで。ボーナスが出たものですから」
夕陽の射しこむみどり食品二階の給湯室横の廊下で、氷川主任が携帯で私用の連絡をしている。まじめな彼までがどことなくうきうきしている口調だ。
6月中旬の金曜日。今日はみどり食品のボーナス支給日だ。
誰もがこの週末は何をしようかと浮足立っている。
「黒沢課長は週末何するんですか?」
函館から帰ってきて以来、どことなく元気がなかった清野マリアも今日は少し明るい表情だ。
黒沢課長は開いていた資料ファイルをどかっと机に置くと、「そうだなあ」と宙を仰いだ。
「いま悩んでるものがあってさ。ゴルフのクラブなんだけど、この間、試打したらなかなかよくて。けど高いんだよなー。たまにしか行かないから最新モデルじゃなくてもいいんだけどさー」
そこへ天野碧社長が通りかかった。今日の碧社長は真っ白なジャケットに紺色のタイトなワンピース。いつものように書類やメモを挟んでふくらんでいる真っ赤なシステム手帳を抱えている。足元にはピカピカに磨かれた赤の9センチヒールだ。
総務課の横をカツカツと音を立てて忙しそうに通り抜けようとして、「あ、黒さん」と、黒沢課長の席で何かを思い出したように立ち止まる。
「再来月の同窓会ゴルフ、黒さんも出ます?」
碧社長と黒沢課長は学年は違うが、同じ高校の卒業生である。札幌に帰ってきて以来、社外の人脈作りのために碧社長は地元企業の社長が多い高校の同窓会イベントに出席するようにしている。黒沢も同じ高校ということで、最近は共に参加することもあった。
「いやあ、どうしようかなあと思ってるとこで……。社長が行くなら、お供しましょうかねえ」
「私は出るつもりです。夏のゴルフは先輩の大御所軍団がお目見えしますもの。チャンスだわ。正直、一人じゃちょっと不安ですけれど……」
すでに、お近づきになりたいキーマンには「夏のゴルフでお会いできるのを楽しみにしております」と書いた初夏の便りを和紙の便せんにしたためて送ってある。碧社長にとって夏の同窓会ゴルフは大切な人脈構築のチャンスだ。
「じゃあ、ボディガード兼ねて行きますか」
黒沢課長が言うと、「そう来なくっちゃ!」と碧社長は大きく頷いて、またカツカツと9センチヒールの足音を鳴らして去っていった。
清野マリアがくすっと笑う。
「やっぱり、最新モデルのゴルフクラブ、買ったほうがいいんじゃありません?」
黒沢課長も照れたように笑った。
「そうだなー。これ、買う流れだよなー」
そこへ廊下での私用電話を終えた氷川主任が帰ってきた。
「すみません、失礼しました。昼休みに家内にかけた電話の折り返しが、こんな時間に来てしまったものですから……」
マリアが氷川主任を冷やかす。
「氷川主任って奥様と仲いいですよね」
氷川主任の銀縁眼鏡の中のまなざしが優しくなった。
「世話をかけていますから……、罪滅ぼしに食事に連れて行こうと思いまして、予約の電話とかしていました。すみません。満席になるのが心配で……」
黒沢課長が大きな声で笑った。
「氷川くんみたいなのが、結構亭主関白なんだよ。うちなんてボーナスに合わせてもうレストランもメニューも決められてるからな」
三人が声を合わせて笑った。
総務課には週末を迎える穏やかな空気が流れていた。
「きたきつねラジオ、金曜日の夕方はリスナーの皆さんからのリクエスト曲をご紹介しております」
窓際に置かれたシャーベットグリーンのラジカセから、地元コミュニティFMの夕方のラジオ番組が聞こえていた。
「東区にお住まいのみつばちまやこさんからのリクエストです。いつもありがとうございます。映画『カサブランカ』のテーマ曲、『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』、お聞きください。時刻はまもなく16時45分です」
古い映画のラブストーリーの高まりを感じさせる旋律に、マリアの胸はときめいた。先週の函館で会った風見透のことが想われ、ときめきが旋律のままに膨らんだ。
そして実際には函館に行っても何の進展もなかったどころか、風見の存在を一層遠くに感じてしまった悲しみによってそのときめきの膨らみはあっさりしぼんだ。
――こんなにロマンチックな曲を風見先輩と一緒に聴けたら幸せだろうなあ。私って、どうして女として見てもらえないんだろう。どこが足りないんだろう。男の人の意見を、誰かに聞いてみたいな。
「『カサブランカ』なあ……。懐かしいなあ……」
黒沢課長が椅子にどっかり背もたれて宙を見つめた。
「いいですよね」、と氷川主任が相槌を打つ。
「いいよな。学生の頃の友達がこれ好きでなあ。そいつ東区に住んでて……、あっ! 東区といえば! 忘れてた!」
突然、黒沢課長の声が大きくなった。
「どうしたんですか?」
思わずマリアが聞いた。
「あー、やっちゃった。イースト店の春田に渡す書類、今週持っていくはずだったの忘れてたよ。土日に持っていかなきゃ……。週末バタバタなのになあ」
黒沢課長は顔を大げさにしかめて、茶碗のコーヒーをぐびりと飲んだ。
「……行きましょうか?」
蚊の鳴くような声がした。
声の主は、さっきからずっと沈黙を保ってパソコンに向き合っていた時田あおいだった。
「えっ、時田行ってくれるの?」
「えー! あおいくん、珍しい!」
「いや……、あの……、どうせ暇だし、皆さんみたいにボーナス入ったから発生する予定というのもないし……。イースト店って実は友達の家の近くで」
あおいの友人であるひじきはイースト店の近くに住んでいる。いつもあおいの家に来てもらっているが、イースト店で総菜を買ってひじきのところへ行くのも悪くないと思った。銀行を辞める件がどうなったのか聞きたい。
「サンキュ、助かる。じゃあ、頼む。この封筒を渡してもらえるか。俺から春田に連絡しておくから」
「はい、わかりました」
それをなんとなく見ていたマリアがあおいの肩をトントンと叩いて話しかけた。
「ね、私も行っていい?」
「えっ」
「春ちゃんにも会いたいし」
「あ、じゃあ清野さんが行きますか?」
「そうじゃなくて、道中あおいくんと話ができるでしょ。相談に乗ってほしいことがあるの」
「うぐ」
「うぐって声に出さないでよ」
「はあ」
かくしてあおいとマリアは日曜日の午前にイースト店の最寄り駅で待ち合わせをした。
ピンクのフリルのワンピースに身を包んだマリアが、ぶんぶんと手を振って「あおいくん、おはよー!」と現われた。「イースト店は地下鉄駅から近くていいよね」
あおいは、徒歩5分の道中で、マリアは自分にどんな相談をするのだろうといぶかしんだ。
「あの、清野さん」
「なあに」
「ご相談というのは何でしょうか」
「あー、もう着いちゃうからさ。あとでお茶しながら聞いてくれる?」
「お茶あ?」
「うん。帰りにお茶飲も」
「いや、これから友達んとこ行くんですよ」
「じゃあ、サクお茶にしよう」
「サクお茶?」
「さくっと15分くらい」
「はあ、わかりました」
なんとなく納得がいかない気分であおいはイースト店への道を歩き始めた。
古い物件だが一戸建ての建物にイースト店だけが入居している。ファサードには緑色のひさしが鮮やかな目印になっている。
店頭に客はいない。
あおいは奥に「すいません」と声を掛けた。
そして次の瞬間、胸をわしづかみにされた。
現れたのは、背中まで伸びた黒髪を一本に結んだ二十代の女性だ。
真っ白な三角巾をかぶっている。
その三角巾のやや青ざめた白が、彼女を天上の存在のように神々しく見せている。
白魚のような細い指が、美しいしぐさで弁当の容器を掴み、次々と並べている。
あおいはその美しい指が触れた弁当のすべてを買い占めたいような気持ちになった。
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