第11話 追って沙汰をする
月初の会議が終わった。
参加していた営業販売課の面々は、ぱらぱらと席から立ち上がり退室していった。
書記をしていた時田あおいは、手元のメモを仕上げてしまってからと思い、まだ座ったままノートに向かっていた。
そのあおいをじっと見ている静かな目があった。
みどり食品三代目社長の天野碧である。
碧社長の目線に気づいた黒沢課長が、「ほら、早くしろ」とあおいを促す。
「あ、はい」とあおいはノートに最後のメモをし終わって立ち上がる。
立ち上がった正面に碧社長の静かな視線があった。
まさか碧社長が自分を見つめるとは、とあおいはうろたえて「あ、えと、お、おつかれさまです」と言う。
「ねえ」、碧社長はあおいをまっすぐ見つめて訊いた。「あなた、お名前は?」
あおいは端正な瞳の肉食動物にロックオンされた小動物のような気持ちになった。それと同時に、自分がなさけなくなった。この会社の在籍人数は確か100人にも満たない。よりどりぐりーんやアルバイトを入れてもせいぜい120名というところだろう。それなのに入社四年目になる自分は、まだ社長から名前を憶えられていなかったのか。
変な緊張で汗をかく。「と、と、と、時田です」。緊張のため、苗字の発声が苦手な癖が出てしまい、なおさら焦る。
それを見ていた黒沢課長が、あおいを守るかのようにすかさずフォローする。
「こいつは総務課の時田あおいです。社長、時田は四年目です。ずっと総務でがんばってくれています。確かに、目立たないやつですけれど、仕事は正確でして……、それで今日も書記を……」
碧社長は、ラベンダー色のグラデーションのジェルネイルが施された白魚のようなきゃしゃな指で、あおいの肩をがしっと掴んだ。意外と力が強い。
「目立たない……?」
――あの、肩、痛いんですけどっ。あの、これって、何らかのハラスメントでは!?
あおいはそう思うが声に出すことはできず、つばを飲み込むのが精いっぱいだ。
碧社長は掴んでいたあおいの肩をトントントンと3回叩いた。
「あなた、めちゃめちゃ目立っているわよ」
「へっ」、あおいは驚きのあまり気の抜けた声を出した。
「ふえ?」、黒沢課長も同様に驚いた反応をする。
営業販売課のメンバーが忙しそうに出て行って、会議室には3人だけが残っていた。
会議室の窓からは裏の公園が見える。
ちょうど総務課と廊下を挟んで向かい側にこの会議室があるので、あおいの席の横の窓と同じ面に、この会議室の窓もあるのだ。
碧社長はその窓から裏の公園を見おろす。
あおいと黒沢課長がつられるように窓の外を見ると、そこには近くの幼稚園の子どもたちが砂場遊びに来ていた。わあわあと大きな声をあげて叫んでいる子、その子の周りに集まって一緒に叫ぶ子、さらにその周りに座り込み、何人組かを形成しておしゃべりをする複数のグループ、そして、その砂場の環から一人離れて立ち尽くし、全然違う方向をぼんやり眺めている子。幼稚園の先生はその一人離れて立ち尽くしている子のところへ行って、手を取っておしゃべりを始める。
「ああいう光景を見てもそうだけど、一番大きい声を出して騒いでいる子が一番目立つわけじゃないのよ。そして大人しい子は目立たないわけじゃないのよ。時田くん、あなた、めちゃめちゃ目立っていたわ、さっきの会議で」
あおいは碧社長の言うことが理解できなくて混乱する。
「どうして、ぼ、僕が……」
碧社長は、ふっと笑って黒沢課長を見た。
黒沢課長も目線を返して、頭をかいた。
「あなたが、参加していないからよ」
「さ、参加?」
「あなたは、作業はしているけれど参加はしていない。さっきの会議には、誰もが参加していたわ。内容うんぬんではなく、5月の数字がどうだったか、これからどうしていったらいいのかについて、みんな自分のこととして捉えて会議の趣旨を理解してそれぞれの立場で参加していた。でもあなたは違った」
碧社長はそう言ってあおいをじっと見つめた。碧社長の黒目がちの大きな瞳が少しさびしそうな表情であおいを見ている。
「あなたは、確かに正確にメモは取ってくれていたかもしれない。でもあなたは会議の内容自体にはなんの能動的参加意欲も持ち合わせていないことが全身からだだ洩れていたわ」
あおいは黙って聞いていた。
「ねえ、仕事は作業じゃないのよ。ロボットとは違って、人が働いている以上、心をお仕事に乗せてもらいたいのよ」
碧社長の言うことは、あおいの胸の深いところに小石のようにコツンと当たった。
「……すみません」
謝罪の気持ちしか出てこなかった。図星だ。言い訳できない。
「あら」、碧社長はにっこり笑った。「謝らなくていいのよ。正確なメモを取るという作業自体のクオリティは信頼しています。あなたはここのところ毎回メモをしてくれているけれど、毎回高いクオリティ。誠実さがあるからこそできることと、私はあなたを評価しているの」
思いがけず評価されていることを知ることができて、落ち込んでいたあおいの心になんか温かいものが、まるでお湯を注がれたようにじわじわ広がっていった。
「ありがとう……ございます……。そんな……、嬉しいです……」
黒沢課長はにこにこしていた。
「よかったな、時田」
「はい、課長。嬉しいです」
そんな二人の会話を遮るように碧社長が続けた。
「それでね、あなたの能動的参加意欲をもう少し会社に向けて持ってほしいなと思うわけ」
「はあ、あの、どうすれば」
なんとなくあおいが聞くと、碧社長は得たりというようににっこり笑って言った。
「7月
碧社長はそう言って手首のプラチナのジュエリーウォッチを見ると、「行かなきゃ」と言って、颯爽と歩きだした。
あおいはその背中に、まるで時代劇の姫様に「追って沙汰をする」と言われてひれ伏す者のように「はっ」と答えるのだった
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