第19話 黒井姫子の後悔


「……」


 黒井姫子は挨拶もせず、自宅の扉を開いた。


 廊下の向こうから珍しくテレビの音が聞こえてきている。


「ちっ……マジかよ……最悪……」


珍しくアイツがこんな時間に帰ってきているらしい。

黒井姫子はやや緊張した面持ちで歩を進めてゆく。


「姫子。こっちへ来い」


 ガラス戸の向こうから、父親の命令口調が聞こえてきた。

無視をしたい気持ちは山々。

しかしそうすると、余計ないざこざが生まれると判断し、扉を開く。


「何? なんか用?」


「帰ったのならきちんとただいまと言え。お前はもう大学生なんだぞ? きちんと大人の自覚をもたないか」


 父親の相変わらずの物言いに、黒井姫子は内心呆れかえる。


(自分は帰ってきても、ただいますら言わないくせに……てか、ろくに家にも帰ってこないくせに……他人に厳しくて、自分に甘い奴ってマジ腹たつ)


「ひ、姫ちゃん、ダメよ? お父さんのいうことはちゃんと聞かないと……」


 母親は父親が差し出しているグラスへビールを注ぎながら、同じ注意を促してきた。

しかしこれは母親自身の意見ではない。あくまで父親の言葉の後を追っているだけだ。


 大昔の家庭は、これで良かったかのかもしれない。

だが今は時代が違う。

男尊女卑なんて時代錯誤も良いところだ。

 家に帰っても、常務取締役気分でいられては、家族としても迷惑千万である。


「母さんから聞いたぞ。最近、お前は毎晩遊んでばかりいるみたいじゃないか。何をしているんだ」


「大学の友達とちょっと……」


「あまり良くない友達のようだな。さっさと、そんな連中と関わるのはやめなさい」


「別にあたしが誰と付き合おうと良いじゃん……」


「そんな答えは聞いていない!」


 突然父親はそう叫びながらグラスを叩き置いた。

 場の空気が一瞬で凍りつき、母親はこぼれたビールを慌てて拭きだす。


「はい、と素直に返事をしないか! 一体誰のおかげで大学へも行けていると思っているんだ!」


「……」


「姫子!」


「うっさいなぁ! ちゃんとこうして帰ってきてるし、学校にも行ってるから良いじゃん! だいたい、アンタだって……」


 黒井姫子は途中で口を噤んだ。

うっかり、とんでもない事実をこの場で叫びそうになったからだった。


「アンタだと? 父親に向かってなんて口を……」


「とにかく放っておいてよ! ろくに帰ってこないくせに、いる時ばっか偉ぶって、勝手に怒鳴りだして! 会社でのストレスを家庭に持ち込むなっつーの! イライラすんならそんな仕事辞めちまえ!」


「お、おい! 姫子っ!」


 黒井姫子は一方的にそう叫び、二階の自室へ飛び込む。

さすがの父親も、事実を突きつけられたので、言い返せないのだろう。

追ってくる気配はなかった。


 だが、今父親へ叫んだことは、黒井姫子が知っている真実の半分にも満たない。


「マジ最悪……あんなのが父親だなんて……」


 父親がなかなか家へ帰ってこないないのは、数年来付き合っている別の女性の影があるからだった。

その事実を知ったのは、今から数年前の黒井姫子が中学生の時。

白昼堂々、父親が若い女性と、ホテルへ入って行くの見たのが始まりだった。


 母親も、薄々そのことに気が付いてはいるのだろう。

だがなかなか離れられないのは、やはりこの家庭が金銭面では恵まれているのに他ならない。

今どき、母親が専業主婦をできるだなんて、珍しい。

だからこそ、父親は調子に乗っているに違いない。


 黒井姫子自身も、この家庭は問題があろうとも、経済的に豊かなのはわかっている。

奨学金の借り入れもせずに、私立大学へ通えているのは、父親の稼ぎがあるからこそだ。

だからこそ、知りうる限りの父親の悪行を暴露し、家庭を崩壊させるのは得策ではない。

せめて大学を卒業し、就職するその日までは……この半ば崩壊しかかった家庭で過ごすしかない。


「やばっ……また来た……ううっ……」


 いつにも増して、今日は副作用の吐き気が強いように感じた。

未だにアフターピルの副作用には慣れていない。

それに鬼村とその仲間たちとやり合ってまだ2時間が経過していないので、吐くわけには行かない。


「苦しい……やだよ……なんであたしばっか、こんな……」


 外では出せない弱音が溢れでた。


 もう既に大学に居場所はない。頼れるのは鬼村だけ。しかし彼と、その仲間との連日の渡る乱れた生活と、薬の服用は肉体的にも精神的にも彼女を荒廃させている。


「上手くやれてたはずなのにどうして……」


 疑問の言葉が、真っ暗な部屋へ溶けて消えてゆく。


 傍若無人な父親、そして奴隷のように従う母親。

だからこそ、女として強く生きねばならないと思った。

だからこそ容姿を整えた。男に支配されるのではなく、支配する側へ回ろうと思い、これまで努力をしてきた。

高校の時までは、上手くできていた。だが大学へ入った途端、全てが崩れてしまった。


 どうしてこうなった? 何を間違えたのか?

黒井姫子は真実が見出せず、ベッドの上で泣きながら、膝を抱える。



●●●



……不意に、頭が柔らかい感覚に包まれた気がした。


 枕よりも柔らかく、ぽよんぽよんとした膝が心地よい。

 後頭部は、膝よりも柔らかい腹で支えられているような。


『黒井さん、泣かないで……お、俺が側にいるから。ずっと一緒にいるから……』


 彼の優しい言葉が心地よかった。

 やがて彼は、おっかなびっくりな様子だったけれども、黒井姫子の髪をそっと撫で始めた。


 それが嬉しくて、心地よくて……デブで陰キャのくせにと心の中で悪態をつくも、起き上がる気にはなれなくて。

たまにはこういうのも悪くはないと、黒井姫子は思う。

デブで陰キャだけど、癒してくれる"染谷 武雄"とはもう少し付き合ってやっても良いと考える、黒井姫子だった……



●●●



「ーーっ!? 今のって……」


黒井姫子は朝居眠りから覚め、ベッドから飛び起きた。

枕には溶け出したマスカラの跡がうっすら残っている。

その時初めて、自分が泣いていることに気がつく。


「なんであたし、アイツのことなんかを夢で……」


 訳がわからなかった。どうして今更と思った。

だがそれでも、胸の奥に、染谷武雄の存在を確かに感じ取った。


 たしか今見た夢は……高校時代に今日と同じようなことがあって、辛くて、誰かに会いたくて。

その時唯一会えたのが染谷 武雄だけだった。

その時の彼は、嬉々として会ってくれて。

公園のベンチで膝枕をしてくれて……今の夢は彼に癒してもらった時の記憶そのものだった。


 アイツと付き合ったのは、単に騙しやそうだったから。

騙して財布代わりにできれば良いと思ったからだった。


 しかし、黒井姫子は今更ながら気が付いてしまった。


 彼は黒井姫子が付き合った男の中でも、群を抜いて優しかったと。

彼の優しさがあったからこそ、これまでなんとか立ち続けていられたのだと。


「なんであたしは、武雄のことなんかを…………なんでっ……!」


 強い後悔が沸き起こる。

できればもう一度、真剣に染谷武雄とやり直したい。

昔みたいに慰めて欲しい。優しい言葉をかけて貰いたい。

救って欲しい。抱きしめて欲しい。


 黒井姫子は必死な思いで、スマホに縋りつく。


 しかしすぐさま、武雄の携帯番号を削除してしまったのだと思い出した。

メッセージアプリからも完全に消し去ってしまっている。

もはや、彼と連絡を取るのは直接会うくらいしか方法がない。

だが、彼が今どこで、何をしているのか。

一人暮らしでどこに住んでいるのか変さえ分からない。


「バカっ……あたしのバカって! なんで、あたしは、あたしは、武雄をっ……!」


後悔をすればするほど、武雄への想いが募って行く。



「あああああーーっ! あああああーーっ!! ああああああああーーーーっ!!」


 黒井姫子は布団をかぶり、枕へ顔を押し付けて、獣のように叫んだ。

 馬鹿な自分への後悔。

一番、自分が必要としていた人をあっさり手放してしまった、自分への怒りの声だった。




 ーーだが、もう遅い。なにもかもが手遅れだ。


 何故ならば染谷武雄の中には既にカノジョとして、魅力的な女の子としての黒井姫子は全く存在していないのだから……

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