人間の王子様と精霊達

 俺がクエール伯爵領に赴いて3日目。一日準備に費やしてしまったが、チトセ夫人から単身でソフィアのいる聖域へ向かうのだから万が一に備えるべきだと進言されたのだから仕方ない。

 寝不足の昨日に比べれば体も軽いので良いが、もう一週間近くもソフィアを待たせているのが気がかりだ。


「王子様、もう行くのかい」


 装備を整え出る支度をしていると、夫人から声をかけられた。

 俺は内心驚きつつも彼女へ向き直り、投げかけられたその問いに応える。


「はい。これ以上は彼女を待たせられない」

「そうかい。なら、これを」


 そうして手渡されたのは、花だった。


「現伯爵夫人──娘のアメリアに荷物を届けさせるついでに確認してもらったんだ。ソフィアの居場所を。そうしたら池の近くの石碑が聖域への扉になっていたというから驚いたさね。確かに、神聖なあの森に魔物は入れないから聖域へ続く道が出来ても問題ないかもしれないが、不用心と言うべきかこちらと考えが違うとするべきか」


 池の近くの石碑。それは、兄上やキャロラインと共にソフィアの案内で訪れたあそこなのだろうか。

 ソフィアがまるで御伽噺の姫のように見えた、あの時の。


「アンからその石碑までは一度アンタも行っていると聞いているよ。その石碑は先代精霊姫の墓でね、ソフィアには精霊とクエール伯爵家の大事な石碑と伝えてあるがその下に眠るお姫様は……こんな事にならなければあの子は知らずにいられると思っていたが。ああ、話が脱線したね」


 悲しげに目を伏せていたチトセ夫人と再び目が合い、思わず手渡された花に目を落とした。花びらの色が違えども、ひとつの花の中心に黄色い小さな花が輪郭のように咲いている、何だか不思議な花の束。


「この花を石碑に供えれば、ソフィアの居る場所までの道が開くのですか」

「アンタの誠意とソフィアに会いたいという思いがあれば、きっと。その百日草ジニアはアタシの思いだがね。ただ、聖域へ入れば精霊長様に会うだろう。何があってもいいよう

「はい。しかし俺は戦わない方向でいられたら、と考えています」


 そう言うと、チトセ夫人はほっと息をつくように口元に笑みをたたえた。


「その言葉をアタシは信じるよ、王子様。だが前提条件はソフィアとしっかり話をした上で帰って来る事さ。アンタがここまで乗ってきた子も、アンタの家族も、良い知らせと帰りを待っているんだからね」

「──はい、ありがとうございます」


 俺は己の手に馴染んだ剣を腰に下げて、夫人に笑い返した。




「では、ウィリアム殿下。ご武運を」

「すまない、ありがとう執事殿。森の手前まで」


 あの時と同じような馬車から降りた俺は、御者台の執事に頭を下げた。


「いえ。この国に生きる者として当然のもてなしをさせていただいたまでにございます。それに執事殿ではなく、ケン、とお呼びを」

「──名を呼んで良いのか。俺としては貴方には恩を感じているが、あの件から推察するに貴方も本来なら俺に良い思いは、」

「ありませんとも。しかし貴方様はソフィアお嬢様の大切な方、それにこの老いぼれにも叶わぬ思いというのはありました。今の殿下は昔の自分と似た心地なのだと、勝手ながら思っているのですよ」

「そう、か……では、ケン殿と。必ずソフィアに会い、話をつけ、ここに帰る。夫人と、あの侍女にもそう伝えてくれ」


 あの日、ソフィアの隣で甲斐甲斐しくも姉妹のように仲睦まじく会話していた女性。ソフィアが兄上に呼ばれ城へ向かう馬車に乗る前も会話していた彼女も、俺達について何か思うところはあるだろう。

 予測でしかなかったが、ケン殿の反応から見るに合っていたようだ。


「かしこまりました、アンにも伝えます。ソフィアお嬢様はウィリアム殿下とお話をして帰って来る、と」


 そう微笑むケン殿に見守られながら、鬱蒼と茂る森へと入っていく。

 ──ここからは、ひとりの戦いだ。




「──だそうだぞ、アン。隠れてないで出て来たらどうだね」


 一人の老執事が空いた馬車の中にそう声をかける。と、屈折した空間から徐々に黒いメイド服の女性が現れた。


「……ケン様は、奥様一筋と聞いておりましたが。懸想するお相手がいらっしゃったのですね」

「そんな事はどうでも良かろう。して、如何する? このままおひとりで殿下を森に迷わせても構わんが。そも、お前は勝手について来ただけだがね」

「本当、貴方様も奥様もお人が悪い。アメリア様に同行させて下さらなかったのは私が独断でこうすると分かった上でしょう」

「はは。そう言うでないわ。ひぃ様は言わずにお前さんにご指示なさったというだけの話よ。何はともあれ──ソフィアお嬢様とウィリアム殿下の事、頼むぞ」


 するりと音もなく降り立つメイドは、その長いスカートの留め具を外しスリットを露わにしながら老執事に向き直った。


「はい、今一時いっときこの身は、ウィリアム殿下のために尽くします。それがお嬢様の為であるのなら」

「……ブレぬなぁ、アン」

「どうとでもおっしゃって構いません、それでは」


 タッと足を一歩踏み出したかと思えば幻だったかのように姿が消える彼女を見守り、老執事は空を見上げた。


「旦那様、アイリーン様……どうか、ソフィアお嬢様とウィリアム殿下をお守りください。ひぃ様が祖国を出た時にも先々代の御当主に願うしかなかったが、今回も願うだけの卑劣だと思われるだろうな……としては正しい事なのかもしれんが、口惜しいというものよ」


 遠く異国の地。遥か昔の時を思いながら、老執事は彼らの安全を願うのだった。

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