今日ぐらいは、好きに生きよう

時雨逅太郎

今日ぐらいは、好きに生きよう

 三日三晩、ろくに眠れていない。それだけで人間の心はここまで壊れてしまうものか。現状を冷静なふりして鑑みて、狂わないように努めていた。今日も仕事が何個も溜まっている。今日が納期のものだってある。明日も明後日もそれは続くし、そうしないと名誉ある生は獲得出来やしない。

 他にあった予定を確認するためにスマホを手に取って――投げつけたくなる衝動を押さえながら、震えることすら出来ない指でカレンダーを開いた。ああ、眩暈がしそうだ。いっそのことぶっ倒れることが出来たらどんなに心が休まることだろう。

 本日の予定に歯医者があった。今日は遅めに出勤する代わりに歯医者に行く。それ以外に予定はなかったが、日々繰り返している歯磨きですら、そして睡眠までもがタスクとして僕の精神を圧迫している。それが非常に心苦しくて、むしゃくしゃした。

 破壊衝動というのは確かにここにあるものだった。ベッドで寝転がってどうにか眠ろうとする僕の中に、壁に拳を叩きつけて、もしくは自分の指に包丁を振り下ろして――そういう衝撃を求めて、身体は疼いていた。当然許されはしない行為だというのに、諦めがつかなかった。

 誰かを殺してしまいたい。自分を殺してしまいたい。

 別にその先に何かがあるわけではない。他人にも自分にも恨みはない。ただ、すっきりするだろうなと、それだけの理由で何かを殺したかった。手応えのある何かを。

 枕に預けていた頭を起こす。身体も起こす。痛めた覚えのない背中が鈍痛を訴え、胃腸は訳も分からずに吐き気を催していた。最悪な身体――最悪な脳――それらすべてを電源から切ってしまいたかった。

「思えば――」

 何かを口にすれば楽になる気がした。

「どうしようもない、友愛も親愛もろくに育たない人生だったな」

 言った後で、無関心な生き方をしてきたくせにそれはないだろ、とほくそ笑んだ。

「じゃあ――」

 僕は自分とそこに居ない誰かを気遣おうとして、やめた。

 こういうのが鬱陶しく、嫌なのだ。たまらなく暴れたくなるのだ。

 独り言は結局のところ何も解決しなかった。考えれば考えるほど息苦しくなっていく気がした。例えば誰かを殺したいなどと。だがそれは犯罪で、自分の人生、ひいては他人の幸福を奪う結果になりかねない。例えば性差などを無視してしまえればいいと。だがそれをしてしまっては回り回って差別に加担しているのだから、結局のところ無視はできないから、綱渡りのように注意深く歩かなければいけない。例えば自分の意見を主張したいなどと。だが主張は当然、他の主張を潰す形になるし配慮に欠けてしまい、だから全てを考慮した発言をしなければなどと。

 髪の毛を引き抜きかけた拳の力を緩め、ゆっくりと下ろした。

 僕はずっと緊張しているのかもしれない。誰かを傷つけることに。また、誰かを殺してしまうかもしれないことに。それでどれだけ苦しんでいる人が――頭を過るフレーズに少し嗤ってやりたくなった。それでどれだけ僕が苦しんでいることか。君らの頭では思いつかないようなことだろうけれども。

「イライラしてるんだろうな」

 眠れないのもそうだし、吐き気があるものだから飯も全く食えていない状態だった。極限の合間をこんな田舎とも都会とも取れないベッドタウンで彷徨っていることが一番笑えない。きっと僕は神経質なのだろう。

「なにか、食うか」

 ベッドから下りて、冷蔵庫を開ける。体中に鳥肌が立ち、追うように悪寒が体中を這った。気色が悪い。やはり風邪でも引いたのだろうか。いや、これが分かりやすい病気ならどれだけ僕は楽なのだろう。姿を隠した何かに脅かされていることほど不安で苛立ちを覚えることはなかった。

「うどんとか――」

 消化にいいだろう。嘔吐を繰り返すこの身体でも食べられるかもしれない。

「いや、そもそもさ」

 消化の問題とかなんだろうか。限界を迎えた身体というのは一体何が食えるのだ。もしかしてこの身体は、死ぬまでずっと食物を拒否し続けるのだろうか。そんな不毛な――。

「でも、食ったら案外行けるんじゃないか」

 そう思わないとやってられなかったが、そう思いきれないのもまた事実だ。僕はしばらくの間、あてどなくガスコンロと冷蔵庫の間を彷徨い続けた。彷徨った後、おもむろに長ねぎを手に取って、包丁で斜めに切った。

 指をガツン、と――。

 そんな衝動を抱えながら、切っていた。自分の指にこだわっていた。包丁を手にしてみて分かるが、僕が行いたいのは破壊ではなく、動的な虚を収めることだった。そのために何か強い衝撃が――刺激が必要だった。快楽に耽れば――とも思ったがやはり食傷気味だった。僕の生殖機能はもう働かないかもしれない。元より興味もないが――。

 なら切り落としてしまおうか。

 そこまでやったら、寄り添いに限界のある女性という存在に寄り添い切れるのか。性への執着を肉体的に捨ててしまえば、きっとどうにか――。

「ダメだろうな」

 男だから、どこまで言っても無理解とされるだろうな。分かっている。

 どれだけ示そうとも――男女の間だけではない。人の間は無理解だ。

「くだらな」

 じゃあ何の意味もない行為なのだろう。僕の命を賭ける行動は。ジャックポットもなにも起きやしない。オールインのくたびれもうけだろう。

 クソ――苦しいな。息苦しい――。

「肉――肉も食っとくか」

 冷蔵庫を開ける。ほぼ空っぽの、しかし何だか分からないべたつきとてかりがある。恐らく肉から垂れた血――というか水分――あの透明な生臭いものの名称をどうすればいいか分からない。ただ、汚いとだけ、それだけは分かるのだが。

 いつ買ったか覚えてない豚肉のパックがあった。冷蔵庫はこの一つのパックのためだけにあったような、そんな気がした。消費期限は過ぎている、いよいよ腐りかけの肉だが。

「まあ食えるだろう」

 倒れでも出来ればそれはそれでラッキーだ。この息苦しさから逃れられる。数日経ったら、きっと何事もなかったかのように仕事もできるし、友人とも気楽に話せる。

 きっと。

 適当に沸かした水の中にねぎと肉を入れ、冷凍のうどんもいれた。

きっと、肉から出る――よく分からない液体が、湯をだんだんと白く濁らせている。

どうしようもない。

調味料を加えて、うどんを器に移すと自然と食欲が湧いてきた気がした。流石に身体も限界だったのだろう。胡椒を振ると、腹が減ってたまらない気持ちになった。だが、がっつくのを制すかのように熱気を纏ったうどんに多少の面倒さは感じていた。

 いきなり食い過ぎたら胃腸を悪くしそうだし、まあ――。

 考えたくないな、そういうこと。

「あ――」

 うん、うまい――気がする。ただ身体がこの味を望んでいるかは微妙だった。

「水、水――」

 立ち上がって、ペットボトルの水を取り出す。肉の他に唯一入っていたものだ。

 あ、ねぎもか。

 水を口に含んだ瞬間、これはいけないのではないか、と考えが過った。全く飲み食いのできてなかった胃腸に、冷水を注ぐなんてとても――。

 知るかよ。

「は――っ、うまいな」

 散々避けてきた水を飲むのは心地がよかった。罪悪感がないと言えば嘘になるが、喉を通る気持ちのよい冷たさには敵いもしなかった。なんて気楽なんだろう。なんて――愚かしいことが気楽なんだろう。

愚かしいとも言い切れない癖に、あまりに愚かしくなってしまった行為がなんでこんなに――。気持ちがいいのだろうか。

「あ、そうだ」

 俺はうどんを食いながら予約していた歯科医院に電話をかけた。

「あ、今日の十時から予約していたものですけど――ええ、そうです。申し訳ないんですけれども体調が悪くて――はい、キャンセルでお願いします。申し訳ないです――いえちょっと予定が分からないので――はい、後日改めて――はい、お願いします」

 電話を切ると、力ない声とため息が漏れた。うどんの具はなくなったのにスープは熱くて未だ飲みづらかったので面倒になった捨てた。

 ペットボトルの水を飲み干して、会社に電話をかけながら、ぼんやりと思った。


 今日ぐらいは、好きに生きよう。

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