第1話心よ・八木重吉:短い言葉で心に響く表現

八木重吉の「心よ」を読みました。

『定本 八木重吉詩集』(弥生書房・刊)に収録されている一篇です。

詩集「秋の瞳」の中には心をうたった詩がいくつかあって、その中のひとつです。


二九歳という若さで、結核でこの世を去ってしまった八木重吉の詩は、私が高校生の頃、学校の図書館でみつけて魅了されました。


短い言葉で心に響く表現が、まだ感受性が豊かで感傷的でだった、文学少女の心をとらえたのでした。


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心よ

            八木重吉


こころよ

では いっておいで


しかし


また もどっておいでね


やっぱり

ここが いいのだに


こころよ

では 行っておいで


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 八木重吉の詩は二行、三行など短い作品もあって、詩と言って良いのかという意見もあるそうですが、短かろうが長かろうが、それを読んだ人の心を動かすことができるのなら、それは詩であるのではないかと勝手に思っています。


  十代後半の頃の私は、かなり影響されていたこともあって二~三行の短い詩を書いていたこともあります。


 理論整然と説明がつかなくてもいい、心が感じたことを描き出して、あとは読者にゆだねるのも良いのではないかと思うのです。


 「心よ」の詩で、私がハッとしたのは、自分の心を客観視しているところ。

普通、心についての詩を書くのなら「自分の心」を主観的に書くように思うのです。


 でも、この詩は「では いっておいで」と、他人事のように突き放しています。


 心を自分でコントロールしようとしないで、心のままに自由に飛び立ちなさいと解き放っているのが、私の中でとても新鮮で、当時、こんな表現があるのだなぁと感心したものでした。


  重吉氏はキリスト教徒だったそうなので、神の御心に任せてという意味もあるのかもしれませんね。


「やっぱり ここがいいのだに」のところも気に入っています。

方言なのかよくわかりませんが、「いいのだ」と断定するのではないのですね。


「いいのだに」。私自身は使うことの無いだろう表現ですけれど、「に」が加わることで表現がやわらかくなって、奥に何かニュアンスを含んでいるような印象です。

(記:2016-07-03)

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