悲しみの代償は

ねむたいよ姉

悲しみの代償は


「悲しみ、請け負います。080-××××-××××」


たまたま目に入った電柱広告は、胡散臭いイラストが書いてあった。大抵こう言うのは、宗教とかマルチとか詐欺とか、ろくなもんじゃない。誰に教わったわけではないけれど、瞬時に脳が「くだらないもの」フォルダにその景色を仕分けしようとしている中、須賀は電話をかけていた。

「もしもし」

若い女性の声だった。可愛らしい声で、彼は面を食らってしまった。

「もしもーし」

やべっ。

「あ、もしもし、あの、なんかあれ、なんかあの、悲しみ?請け負いのやつ見て……」

「……」

あれ、番号間違えたかな?やばいな、これ俺が怪しい奴になっちゃうじゃん、切らなきゃ、と思った途端、

「あ!はい!ありがとうございます!こちら悲しみ代行業者の涙堂でございます!ご依頼でしょうか?」

「あ、はい。電柱の広告をみて、、、」


気付けば須賀は指定された喫茶店に向かっていた。

すぐ行かないとだめな気がして、大学の授業以来行っていなかった高田馬場に降り立った。コロナ禍で大学に行く事も無くなっていた。

裏口から現れたのは小柄な女だった。派手でも地味でもない、大学生?いやそんな事もないのかもしれない。とにかく須賀と同じくらいだった。

「すみません、まだ名刺が出来ていなくて。

涙堂の加西と申します。よろしくお願いいたします。」

礼儀正しくお辞儀をされてたじろいでしまった。あぁ、そうか、俺もあと半年で社会に出たらこうして取引先とやらに頭を下げなきゃいけないのか。と思いつつ慌てて須賀もお辞儀をする。

「あ、こちらこそよろしくお願いします……。」


女は、自分には特殊能力があって人の悲しみを消せるとか言って、手を握ってきた。

うわ、やられた。真希のことをずっと考えていたとは言え、こんな初歩的な詐欺に引っかかるなんて、母親が聞いたら鬱にでもなってしまいそうだ。当分実家に帰るのはやめておこう。須賀はそう思った。

「弊社ですねプランが3つありまして〜、1つは最大悲しみプラン、もう1つは中度悲しみプラン、最後は軽度悲しみプランです。プランによって代行のご提案やご料金、お受けする日数も変わってくるのですが、今回はどのような悲しみで?」

来てしまった後悔を噛み締める間もなく女が早口に喋り出したものだから、須賀は反射的に声を聞こうと耳を傾けてしまった。

「あ、えっと、悲しみ……彼女に振られまして。」

「なるほどそれでしたら中度か軽度のプランはいかがでしょうか?」

いや、こっちは四年間付き合った初恋の相手にこっぴどく振られて三日間ほぼ飲まず食わずで歩き続けてるんだぞ!軽度なわけないだろ!と須賀に怒りが沸いてきた。中度でもない!最上級の悲しみだ。

「いや、最大悲しみプランで。」

「あー、となりますと、ご料金の方こちらになりますがご予算内でしょうか?」

ラミネート加工された料金表を渡されてびっくりした。バイトしかしていない学生の須賀には到底払える額ではない。軽度プランでも正直厳しい。

「あ、すみません、、、やっぱり中度にします。」

先程威勢よく最大プランと言った手前、軽度にしてなめられたら悔しいな、と要らぬプライドを持つ悪い癖が出て、須賀は二十万、ATMにおろしに行く事になった。

何をしているんだ俺は?そもそもこんなの詐欺だろう?素直に先払いに応じた俺は良いカモで、本物の馬鹿だと思われるだろう。でももうどうでも良いんだ。二十万だって、真希と卒業旅行に行くためのお金だったし、何にもやることもないし、友達もいないからどうせお金があっても使わないし。須賀はそうボヤく。

「ありがとうございます。それでは、明日以降の須賀様の悲しみ代行スケジュールを今晩中には送られていただきます。それまでにこのお店を出たらすぐ、まずは一年以上連絡を取っていない昔の親友に連絡を取ってください。その後、角のラーメン屋さんで食事を取ってください。食欲がなくても絶対ですよ。オススメは、塩ラーメンの味玉トッピングです。替え玉も無料ですので是非。その後、駅前のコーヒー屋でこのブレントでコーヒーを挽いて貰ってください。実は紅茶も美味しいのでハーブティーも買ってください。その後家に帰り、本棚の右から3番目の本を半分だけ読み、入浴してストレッチをしたあと、ハーブティーを入れて眠ってください。あ、これで買ってください。特別サービスですよ。」

またもや早口で言われた後、コーヒーの種類が書かれた紙と、千円札を渡された。

あ、この女、初めて笑った。怖い人だと思っていたけれど、笑った顔は何だか安心したし、訳の分からないサービスとやらをつけられて不覚にも嬉しかったので、そのまま店を出て、須賀は昔の親友の記憶を引っ張り出す作業に入った。






泣けなかった。

新幹線の中で呑気に駅弁を食べているし、あれ、こんなはずじゃ。

一時間半もあればこの電車は東京に着いてしまうし、明日の飲み会の待ち合わせ場所ってどこだっけ。

これからの事を考えると、頭が痛い。仕事を辞めたことを親に言っていないし、学生時代から引き続き生活費を親の口座から引いていた事がついにバレ、生きていくだけでもっとお金がかかるようになるし、ルームメイトは結婚するとか言って地元に帰ってしまって家賃をフルで払わなきゃだし。

あーあ、なんで泣けなかったんだろう。おばあちゃんのことは大好きだし、死んだら泣いてしまうと思っていたのに、全てが画面の中のことのようで、気付いたらお葬式も何もかも終わっていた。

悲しみってなんだっけ。

私には涙が足りない。まだちゃんと悲しんだり出来るのだろうか。



毎日朝から晩まで分刻みのスケジュールが加西から送られてくる。

須賀はそれをただこなしていた。

本を読んだり勉強させられたり、夜は誰に電話するかまで決められている。

暇よりいい。そう言えば忙しくて真希の事を考えていないことに気付く。

真希は今、何しているんだろうか。今頃他の男と……。

須賀は怒りが湧いてきたと同時にとてつもなく悲しくなってきた。


河西から着信だ。

「はい。」

と言う間もなく、

「今何してますか?スケジュール通り動いていれば、今は資格の勉強してますね?今から出かけましょう!美味しいカフェを見つけたので!では、三十分後中目黒駅で。」

そう言うと、こちらが答える間も無く電話が切られた。

一方的な女だなあ。真希とは大違いだと思った。

まあいい。どうせ暇だし、適当に身支度を整えて須賀はそそくさと家を出た。中目黒なんて普段行かないから電車の中でなんだか須賀は緊張してきた。





暇だ。失業中というのはとてつもなく暇だ。友達は恋愛や仕事や趣味に明け暮れ、恋人の達也は四六時中仕事中で、私はなんでもある東京で、なんだか一人になった気分でいた。

ヘラ男。悲しみ代行に申し込んできた男をそう呼ぶことにした。メンヘラのヘラ男。彼女に振られたくらいでメソメソして馬鹿馬鹿しい。ヘラ男の人生は楽でいいなあ。もっと絶望するくらい辛い事を味わってほしい。時々、何の悪意もない様な純粋な人を見ると、地の底まで突き落として、涙も出ないくらい絶望させて、もう一生純粋ではいられなくさせて、その無垢な笑顔を塗り潰したいな、なんて最低に意地悪な事を考えてしまう。純粋さや潔白は時にそうじゃない人たちを傷付けることを彼らは知らない。


電話に出る声も、なんだか呑気に聞こえてムカついた。だから捲し立てる様に行きたかったカフェに呼び出した。コーヒーでも奢ってもらおう。

これは人助けだ。



中目黒の駅は、やたらと丈の長いスプリングコートを着た人達が交差して行き交い、花束を抱えるOL風の女の人や、何とも言えない色のサングラスをかけて薄いクラッチバッグを抱えた三十歳くらいの男の人なんかが居て、学生とサラリーマンしかいない高田馬場とは大違いだった。

駅前の花屋にいる人達は今から誰かに花を買うのだろうか。花なんて須賀は、贈った事ももらった事もない。

ぼんやり見ていた花屋から出てきたのは川西だった。色とりどりの薔薇やチューリップをかかえて須賀に向かってくる。

「すみません〜!早く着いちゃったから買い物してました!チューリップ、超可愛くないですか?買っちゃった!」

「あ、こちらこそすみません。お花素敵ですね。どなたかにあげるんですか?」

「いやいや、そんな人いませんよ!部屋に飾ろうと思って。え〜めっちゃ可愛い。」

女の子ってこういう話し方するよなあ、と思いながら、この人は可愛い人なのかもしれないと須賀は思った。

そして自分の為に花を買える人なんだ。それがなんだか本当に尊いことのように思えた。






花は好きだ。

綺麗だけどすぐ枯れるから飽きない。怖くない。たまにこうして花を買う。綺麗なものの傍にいていいような気がして嬉しい。

ヘラ男、相変わらず童貞大学生のような服を着ていて可愛いな。

カフェでケーキセットを食べて、暫くして満足して店を出た。

ヘラ男の話は面白くないけど、誰も傷つけなくて良い。盛り上げようと思ってすぐに人の悪口を言ってしまう私とは真逆だ。

こういう人と結婚したら、穏やかな暮らしが出来るのだろう。

達也とは大違いだな。私は達也の、私と似て性格が悪くて厭世的なところが好きだ。時にそれが私に向けられていると感じて悲しくなるけれども。多分達也は、私を含めた世界全部が薄ら嫌いで、そこにいる馬鹿にならないために勉強しているのだろう。私は勉強が嫌いな馬鹿だ。


「今日は付き合ってくれてありがとうございました!コーヒーご馳走になっちゃって、すみません。あ、帰ってからは先日お送りしたスケジュール通りに過ごしてくださいね。夜は冷えるみたいですよ。気をつけて、あ、これ一本あげます。チューリップ、可愛いですよね。おやすみなさい。」



なんだか、須賀は河西と色んなところに行った。

いつも急に電話がかかってきて三十分後だの一時間後だのに集合して、公園や水族館に行き、カフェでお茶をしたり、回転寿司に行って彼女が生のイカを食べられない事を知ったりした。

須賀は、いつも加西の言う通りに動いた。急に立ち止まって買い物をしたり、予定が出来たからと急に帰られたりするが、予測できない彼女の行動を逆に楽しいと思っている。もうすぐ春休みが終わる。桜が咲く。すっかり気に入った中目黒のカフェはいつしか店内は花見客で賑わい、雑踏が色んな不安をかき消してくれている。気分がいつしか穏やかになる。






ヘラ男が元カノのことを忘れかけている。元カノの真希の名前を出さなくなっている。優柔不断で情けないところはあるけれど、心の底から優しい奴だし、彼には次の良い彼女が見つかるだろう。

そう、真希はもう既に新しい彼氏を見つけていた。一緒に旅行も行ったらしい。人間関係って呆気ない。四年も付き合ったヘラ男との思い出は全てインスタグラムから消して、新しい彼氏との満面の笑みを沢山載せていた。

すぐに彼女のアカウントは見つかった。親しい友達も、出身校も、今のゼミも、全てすぐに分かった。だいたいどんな人間なのかも想像がつく。

「美男美女!」「結婚するの?」「羨ましい〜。」そんなコメントが、投稿の下に続いていた。どこからどう見ても、キラキラ女子大生。正直ヘラ男とは釣り合わない。ヘラ男から見せてもらった高校の頃の無垢な真希はもういない。ジャージを着た無造作なショートカットにぱっちりとした目元が不釣り合いで可愛かった。今は、ブランド物のバッグを持ち、美容室の壁で撮った写真をアイコンにして、イケメンな彼氏と旅行に行く。

ヘラ男から聞いた真希は、高校ではバレー部の部長や生徒会をやっていて、大学に入ってからはカフェでバイトをして、もう今では年下の子に業務を教える立場になっているんだそう。遅刻をしたことがなく、料理も上手くて友達も沢山いる。人気のゼミに入って大手企業からいち早く内定をもらったそうだ。高校の頃から憧れていた真希とやっと大学に入ってから付き合えたヘラ男は本当に嬉しかったんだろう。今でも高校の体育祭で撮ったツーショットを持っていた。

二人の思い出を聞いたり、デートに行った場所を訪れて悲しみ代行をした。私の胸に残ったそれは悲しみではなく、ぼんやりと、人間関係が終わっていく寂しさと呆気なさだった。



達也といつもの居酒屋で軽く飲んだ後、彼の明日の仕事を気遣って、駅で解散した。本当はなんだか朝まで一緒にいる気分では無かったのだ。同い年で同じサークル出身の彼は、小難しい英語のコンサル会社に入社した。二年目にして既に沢山の仕事を任されていて、いつも「きついけどやりがいがあるよ。」

と歯を見せて笑った。私は彼のそういう所が嫌いだし、好きだった。私が持ち得ない向上心を輝かせて無垢に努力できる彼は、私にとって時に眩しすぎて邪悪な太陽だった。






人が疎な終電間際のホームで、遠くの看板を眺めながら歩いていると、何かを踏んだ。とっさに謝ると、しゃがんだ女がいた。女というよりは少女だ。あどけなさの残る彼女の足は寒そうな素肌で、適度に脂肪のついた背中を丸めて地面に座っていた。踏んでしまったスマホを拾い、手渡すと泣いていた。なんだか彼女を見たら私も泣いてしまいそうになり、

「大丈夫ですか?お水とかいりますか?」

と言って、隣の自販機で水を買って渡した。女は泣き止んだかと思えば、

「すみません、お礼します、すみません、すみません。」

とまた泣き出してしまった。困った。泣いてる人を見るのは得意ではない。小学校時代、つまらない事で泣く女が嫌いだったし、その隣で我が物顔で、手柄をとったかのように宥める女はもっと嫌いだった。

「電車、乗れますか?どこで降りますか?」

「次の次の駅、くらいで。」

仕方ないので一緒に電車に乗って、少女が降りる駅で、項垂れている彼女に声をかけた。

「あ、本当にありがとうございます。優しさに触れると私、すぐ泣いてしまうんです。すみません。あ、お礼したいんですけど、ライン教えてもらえますか?」

そう言ってまだ泣いている彼女に仕方が無いので咄嗟に名刺を手渡した。

「ここに連絡してくれたら、出るから、気を付けて帰ってね。」

言い終わらないくらいの時に電車のドアが閉まった。


あぁ、なんだか悪い事をした気分だ。最後に名刺なんか渡して。結局私の優しさは商売目当てか。私は優しくない人間なのだろうか。

私も彼女のように泣けたらよかった。

泣いているあの子は美しかったな。


それからは簡単だった。

あの時の少女はくるみと言うらしい。十八歳の風俗嬢。通っていたホストに冷たくされて、時々泣きじゃくる。

弱いな、と思う。弱くて可愛い。守ってあげたい。しっかりお金はいただくけれど。

連絡が来たら新宿歌舞伎町に迎えに行って彼女の話を聞いて、写真でしか見た事がないホストの悪口を一緒になって言う。最後にはでも二人はお似合いだよね。彼にはくるみしか居ないと思う。とお決まりの台詞。宿が必要ならホテルをとって送り届けるし、家に帰りたいと喚けばタクシーを呼ぶ。大抵は深夜で私も終電が無くなっているけれど、稼いでいるらしいくるみから十分すぎるお金を貰っているので、都内の自室にタクシーで帰る。こういう時に達也は寝ているか、業務に必要だとか言っていた小難しい勉強をしている。


悲しみ代行とか言って理由をつけて人の悲しみに寄り添った気になって搾取している自分にとっくに気が付いている。


十一


加西のことを考えている。

須賀に毎日来ていた連絡は最近じゃ三日に一回で、分刻みだったスケジュールも、箇条書きでその日にやることを送られるだけだ。

内定先に、就職前に資格を取れと言われて勉強をする時間が増えた。加西に言われて連絡を取り始めた昔の友人達ともたまに居酒屋に行くようになった。花を買って家に飾った。コーヒーを入れて読書をする。


加西から連絡があった。

「あー、やっと出た!悲しみ代行の加西です。

真希さんの件で一通り悲しみ代行したんですけど彼女の現在って聞いておきたいでしょうか?悲しまないのなら言います。悲しんでしまったら代行の意味がありませんからね!」

彼女は相変わらず早口で笑いながら話す。

正直真希のことは気になったが、調べてくれた加西に悪いような気がして須賀はそれを断った。


真希ではなく加西のことを考えていた。


十二


時々、考えられない程荒んだ考えで脳内がいっぱいになる。

新たな顧客の佐藤さんは、一言で言えば人が良すぎるおじさんだ。

友人の借金を肩代わりして逃げられて闇金に追われて会社をクビになっても尚、不倫されて離婚した妻子に毎月多額の送金をしている。

馬鹿だなと思う。優しさではなく愚かさがこの人の全身を覆っている。情けない背中は蹴りたくなるし、笑顔を見せられるとイラついてしまう。優しさが全ての人を救う事はない。優しさが悪意を生むことを知らない無知さが、鈍感な背中が、世界の邪悪さを加速させている。

でもなんだか、自分からは連絡してこないこの情けないおじさんは時に愛おしい。イラつきながらも私は、妻に裏切られた悲しみを消せるように綿密なスケジュールを送る。借金返済がスムーズにいく為の方法もいくつか調べて教えた。

若者と行くには格好がつかないような、行きたかったレストランに付き合ってもらうのが好きだ。美味しそうに、ありがたそうに食べる姿が大袈裟でなんだか恥ずかしくて私まで情けなくて腹が立つこと以外は完璧だった。


十三


松子さんは、虐待されて育ったせいで、異常な愛情を注ぐ陰で暴力を振るうような男しか愛せず、振られ、また付き合い、その度に妊娠して出来た子供を愛せずにいた。人生が辛いのだという。生まれてきた悲しみを代行してくれと言われた。親の遺産がたっぷりあるから、憎い人のお金なんて早く無くしたいからと言って、一番高いコースで申し込んでくれた。

この人は、精神年齢が少女で止まっている。お茶をすると、男の話ばかりだし、手を握って聞いてあげるとすぐに涙を流す。

片っ端から美術館や展示会、映画やコンサートのチケットを取って私が雇った男の子と行ってもらう。親友の彼氏もこのバイトにのってきた。彼らのあくどさが嫌になるけれどそんな人たちを雇う私が一番最低だ。

若くて見た目が良くて、自分の言うことをなんでも聞いてくれる男の子。こう育つはずだった自分の子供。自分に原因があるとも知らずに金で雇われた男を愛す。哀れなおば様。

でも分かるな。私もこうなるのだろうか。愛されずにはいられない時が来るのだろうか。達也はもう私を愛していない。立ち止まったままの私は、歩み続ける達也が振り返っても見えない程遠くで何もしないでいる。


十四


OLだった頃の給料では買えなかったような沢山のブランド物を買って、鈴木さんと美味しいものを食べて、ヘラ男と出掛けて、顧客一人一人の身辺調査やスケジュール管理をして、もしかして私は充実している?

まだ涙は出てこない。

日に日に眠る時間は減って行った。

煙草の量が増えた。

この人達と比べると私はまだマシだと思えた。

本当は一番自分がくだらない事に気付いている。

人の不幸ばかり追いかけて、疲弊して乾ききった感情だけがエネルギー源となって日々動き回っていた。





十五


珍しく達也から誘いがあった。

最近話せていないから話したいらしい。

以前なら買えなかった高いワンピースを着たら、自分がこの世界に許されている気分になる。ハイヒールを履いて、背筋を伸ばして視線を高めて世界を見渡すと、都会のすき間の空が堪らなく綺麗だった。上ばかり見ていると足元のゴミには気づかない。


達也は相変わらず皺のないスーツを着て、前髪をきっちりと上げて、仕事が終わらないからと言って遅れて来た。こういう、私が出来なかった事を当たり前に毎日しているところが好きだ。


「お前はおかしい。お前のやってる事はただの自己満、人助けではない。搾取だ。愚かだ。優しいお前が好きだったのにもう居ない。」


浮かれたワンピースで一人だけシャンパンを飲んでご機嫌になった私は、どうやってそんな服を買ったのか聞かれて悲しみ代行の事を話した。


達也が席を立った後、私はどうしても彼の希望に満ちた大きな背中を追いかけることが出来なかった。


十六


例えば水を飲むのが辛い。呑気に生きている事が辛い。涙は出ない。薄らとした悲しみが毎日首を絞めてくる。世界に絶望を肯定されている。


十七


何日か経って、唯一の親友から連絡があった。

達也のことでも話そうと思い、いつもの居酒屋へ向かう。


「お前私の男取った上にあんな終わってるおばさんに紹介?最低だね。しかもあんたがパパ活やってんの知ってるよ。急に派手になったしブランド物ばっか買うし、おっさんと歩いてるところ見ちゃったんだよね。」

「いや、男取ってないし、佐藤さんとはご飯食べてただけだし……。」

「は?それをパパ活っていうんだよ(笑) あんた馬鹿なの?」

「いや違う!これには深い理由があって!!話すとややこしいんだけど、」

バチン!

え?ぶたれた?急に頬が痛い。熱を帯びてジンジンとする。すると今度は急に冷たくなった。え?嘘でしょ?まさかこいつが男に頭から水をぶっかけた話を笑っていた私が同じことをされるなんて。

「一生関わんなこのビッチが!」

飲み会も佳境に入り、少し全員が疲れていて静かになっていた深夜の居酒屋には十分すぎるくらいの五月蝿さとエンターテインメントとずぶ濡れの私を残して親友は去っていった。

どこまでも自分が主人公の女だなあいつは。と思いながら私は残された気力で周りに申し訳なさそうにテーブルと体を拭いて、会計を済ませてそそくさと店を出た。


あ、もう駄目だ。


風で秋を感じ始めた新宿は冷たかったし、駅には改札前でイチャつくカップル、うずくまって泣いている女、ホームレス、無駄にうるさい学生グループがいた。いつもの光景。うずくまっているあの女に話しかけて悲しみ代行でもしようかな。どうせ男に振り向いもらえない、といったところだろう。


大音量でスマホが鳴き震えた。

「もしもし〜みかさぁぁぁん、またいつものしてください、、、りゅうせいがぁぁ、他の女とホテル行くとこ見ちゃってぇ、、、

私耐えられなくてぇ、りゅうせいに電話しちゃったんですよぉ、そしたらりゅうせいがぁ、あれ?みかさぁん、聞いてますぅ?」

くるみが泣いている。


ああ、もう疲れたな。


「うん、わかった。辛かったね。よく頑張った。いつものね。じゃああとで。」

そう言って電話を切った。

温かいパジャマとお菓子とあとなんだっけ、くるみが好きなジャニーズのグッズを家に取りに帰って、新宿のホテルを予約して、、、


ああ、もう疲れた。私の方が悲しい。労って欲しい。優しくされたい。頑張ったねって抱きしめて欲しい。いや、私が間違っていたのか。達也に言われたみたいに人の弱みに漬け込んで搾取して、最低な人間だ。最低だ。

またスマホがけたたましく鳴り響いた。

「美香、いい加減にしなさいよ。あんた会社辞めたこと、なんで黙ってたの?どこにいるの今。パパも家で待って一緒に話をするから、すぐに帰ってきなさい。」


あ、もう限界だ。


私は電話を切って濡れた髪を揺らしたまま、ATMでおろせるだけのお金をおろした。その場で顧客一人一人に今後の代行プランを送った。

最後に、

「私に悲しみを吸い取る力なんてありません。あなたがここまで立ち直れたのはあなた自身の力です。だから、私がいなくても大丈夫です。力を貰っていたのは私でした。悲しみと同時に生きる力をくれてありがとう。」

と書いて、貰っていた代金も封筒に入れてポストに押し込んだ。残りのお金は全て駅前の胡散臭い募金箱を持ってる外国人の青年に渡したものだから、その金額に驚かれたあと、しっかりとお礼を言われて、ちゃんと貰われた。

無我夢中で階段を登った。もういい。風が気持ち良い。最後に煙草を吸おうと思ってビルの端っこに座ってタバコに火をつけた。


「泣いてるよ?なんだ、プライベートでも泣けるんですね、ちゃんと。」

聞き覚えのある、こもった声。今日は何だか透き通って聞こえる。あいつだ、ヘラ男。なんであいつがいるのだろう。

「違う、これは人のための涙じゃないの、自分のための涙。私は他人の悲しみを背負いますとか言って、エゴの塊だったの。本当はずっとそれに気付いてた。だから綺麗じゃない。私はずっと、綺麗な涙が流したかった。そして尚もちゃんと生きたいと願ってしまっているから泣いているの。」

あれ、泣いていたんだ私。自覚した途端に涙と嗚咽が止まらなくなった。

「そっか。自分のために泣けるようになって良かったです。僕心配してたんですよ。ねえ、焼き芋あげるから、帰りましょ。」

焼き芋なんていらねーよ、と思いながら、私はヘラ男の情けない腕からそれを奪い取って、あまじょっぱい焼き芋を食べ続けた。


いつの間にか、髪が乾いていた。

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悲しみの代償は ねむたいよ姉 @nemutaiyonee

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