第7話 細川道場
面倒くさい事になった。
最初に思ったのはそれだった。
俺は部活休みの日に、岬さんを寮の裏庭で、普段の練習を見せてもらっていた。
しかもこれが岬さんに指導をする初日だ。
嫌な予感はしていた。
蜻蛉のおかげで、いやでも奴が俺の視界に入る。
奴とは塚原の事だ。
あれだけ脅したはずなのに、今度は何を企んでいるのか、まだ俺を監視し、何かを伺っているように見えた。
それが二日三日続き、今日だ。
岬さんに指導を付けるそのまさに。
塚原が俺の前に現れたかと思ったら、俺に顔を貸せと言うのだ。
会わせたい人がいると塚原が言う。
岬さんも目が点になっていて、この俺も理由が分からず塚原の顔を覗く。
冗談で言っているような表情でもない。
という事は別にこの間の仕返しとか、そういうくだらない理由ではなさそうだと察した。
しかし、岬さんの指導があるから断ろうとすると「私も一緒にいいですか?」というものだから断る以前の問題になり、仕方なく塚原の言う、会わせたい人とやらに会いに行く事となった。
そして現在の状況。
『細川剣道道場』という場所に連れてこられて、俺の目の前には、ニヤニヤ笑っているジジイが座っている。
このジジイが、俺に会わせたいという人なのか?
人の事をジロジロ見ながら、ニヤニヤして気持ち悪い。
ボケ老人ではなさそうだが……。
俺の隣で正座している岬さんは、道場の中をチラチラ見て全く落ち着きがない。
おそらく岬はこういう道場に入った事が無いから、興味津々なのだろう。
塚原はジジイの横に正座で座っていて、ジジイを挟む様にしてもう一人、女が座っている。
ジジイもその女も、道着に袴ときたもんだ。
俺とやる気満々と見える。
「こちら、僕の師匠である、細川先生とそのお孫さんにあたる知代子さん」
塚原が勝手に紹介し始める。
「おい、塚原」
「な、何だ?」
「このジジイがお前の言う、会わせたい人か?」
「何ですって! 言葉に気を付けなさい!」
「と、ヒステリー女ってところか」
「言わせておけば! それにあなた、正座も出来ないのですか! ここは私たちの神聖な道場ですよ! 礼儀作法も知らないのですか!」
知代子と呼ばれた女が吠える。
確かに俺は正座なんかせず、
「そんな事知るか。こっちはいきなり呼ばれた身だぞ? 茶の一杯ぐらい寄こしてもいいんじゃないか?」
「こいつ…!」
これだから女は嫌いだ。
礼儀作法だのなんだの知った事か。
第一、俺は
するとジジイが高らかに笑い、
「なるほど、これは威勢がいい。尖っとる尖っとる。ワシは嫌いじゃないぞ、安居院貴久」
やっぱりな、本命はこのジジイだ。
塚原から俺の事を聞いたんだな。
考えずともそれは分かっていた。
「ジイさん、俺は回りくどい事は嫌いなんだ。本来ならこんな所じゃなく、ここにいる女子に剣道を教えるはずだったんだよ。だから要件をさっさと言ってくれ」
俺は隣にいる岬を差しながら、いつもの調子で言い放った。
だが、
「そうか、そこの女子に剣道をね。しかしお前さん、剣道などではなく、剣術じゃろう? しかもワシが知っている、剣術の流派の
へぇ。
どういう理由で知ったのか分からないが、ただのジジイじゃない事は確かだ。
「剣術…なんですか?」
岬さんが俺を見る。
剣術が何かなんて、岬には知る由もないだろう。
だがこれからそれが、
それで引いてしまう様であれば、それまでの事。
「だったら何だっていうんだ?」
俺はジジイに聞き返す。
「お前さんの流派は何だ? そして何を企んでいる?」
「企む? 俺は普通の高校生ですが?」
ふんっ、と鼻で笑いすっとぼける。
俺の目論みを、ここで知られるわけにはいかない。これだけはまだ早すぎる。
「それでは流派は何だ? ワシはそれを知りたい。十五、六の小僧の強さとは思えん」
のらりくらりと避けるつもりだったが……。
逃がしてくれそうにもない、か。
別に流派を言ったところで、俺の計画に差し支える事はない。
「
「何!」
急にジジイの表情が強張る。
何だ?
何か知っているのか?
「お爺ちゃん、何か知っているの?」
「先生、どうしたんですか?」
このジジイの驚きよう、やっぱり何か知っているな?
しかし妙だな。
日輪無神流は口外法度のはず。
歴史の影に隠れてきた、一子相伝の流派だ。
それがこのジジイの動揺を察するに、何かを知っているとしか思えない。
「お前さんの父親、まさか
平田久徳。
俺の父さんの名前だ。
「おい、ジジイ。何で親父の名前を知っている?」
「平田久徳さんは、剣道で知らぬものはいない。全国剣道連盟では、功労者として有名だぞ? 惜しい事に事故で亡くなられたが」
「全国剣道連盟だの、功労者だの、何だか知らないが親父が何をしていたかなんて知らんよ。それと何が関係あるんだよ?」
俺はひとつ、過ちを犯した。
回りくどい言い回しのジジイのおかげで、日輪無神流がどの様に知られていったか、ここで気付くべきだった。
「生前にな、交流があったんだよ。あれは十五年前になるか。ウチにやってきた時には、いつも宴会だった。剣道仲間も交えてな。その時にワシと久徳さんの会話の中に出てきたのが……」
『私、実は婿養子でしてな、自分の一族から逃げ出したんですよ。だから細川さんも気を付けてください。日輪無神流という流派が現れたら、決して相手にしてはならない。あれは私の一族です。絶対に立ち合ってはいけない』
「……とな。頑なに旧姓は言わなかった。よほど嫌だったのだろうよ。だからそれ以上は、首を突っ込まんかったがな」
平田久徳。旧姓、安居院久徳。
俺の父さん。
日輪無神流の後継者であるはずなのに、死んだ母さんと駆け落ち同然でジジイから逃げ出した男。
「その時にワシは日輪無神流という流派を知ったが、いくらどの文献を調べてもそんな流派の名は出てこなかった。それから暫くして久徳さんの訃報を知った。これで日輪無神流という謎の流派は、ワシの中でお蔵入りとなった」
目の前にいる細川というジジイは、父さんから流派を聞いたという事か。
黙って聞いていたが、俺の父さんが剣道連盟に尽力していた、功労者とは知らなかった。
死んだジジイから逃げ出したのも、分かりきっている。
俺の身体に、心にもそれは刻まれている。
『息子である俺に、日輪無神流という、呪われた流派を断ち切る為に、ジジイの前から消え去った』
だが。
今は、過去を振り返っても仕方がない。
「細川さん……だっけか? そんな前置きはいいんだよ。平田久徳。確かに俺の親父だよ。だから何だっていうんだ? そんな事を聞きたい訳じゃないだろ? それとも何か? もう
「口を慎みなさい!」
うるさいヒステリー女、知代子が怒鳴る。
「まぁ、待ちなさい。すまんな、歳をとると話が長くなりがちでな。それじゃあ、ワシの
このジジイ、それだけの為に、俺をここに呼びだしたのか?
ふざけるな!
興味本位で語れるような、そんな流派じゃないんだよ。
確かに流派までは言った。
だが、それ以上語るつもりは
「ジジイ…ふざけてんのか?」
「いや、極めて真面目だ」
俺の中で何かが切れた。
岬の竹刀袋を手に取り、立ち上がって竹刀を取り出して剣先を細川のジジイに向ける。
「
「あなた、何を考えているの! 相手は年寄りなのよ? 正気?」
知代子が前に出てくるが、
「外野はだまってろ」
俺は知代子を押し退けた。
「これは
すると細川のジジイは、声高らかに笑い始める。
笑い終えると目つきが変わった。
「ワシの挑発によく乗ってくれた。感謝するぞ」
「何?」
「ワシはな、日輪無神流という流派に、取り憑かれた老いぼれじゃ。この日を待っとった。剣道と剣術、一度交えてみたかった。それが叶う日が来るとは」
細川のジジイが、面を付ける用意を始める。
「お爺ちゃん!」
「知代子、黙っておれ」
一喝するジジイ。
なるほど、そういう事か。
細川のジジイは、何かしらの手段で俺の試合を見た。
まぁ、おおかた塚原が映像でも何でも拾ってきて、このジジイに観せたのだろう。
そしてその太刀筋が
様々な剣術の流派に長けているジジイだから、見抜く事なんて簡単に違いない。
いや、もしかすると剣術を使う奴らに自分から赴くか、この道場に来てもらうかによって、その度に流派を聞いていた可能性も高い。
ひたすら、父さんから聞いた『日輪無神流』を探し続けていた。
そして、出会ってしまった。
この俺に。
このジジイは一枚も二枚も
只々、このジジイは
立ち合ってみたかった。
ただそれだけだったという事だ。
そう考えると、とんでもなく変態で喰えないジジイだ。
もしかしたら俺と同じように、頭のネジが二、三本、ぶっ飛んでいるんじゃないか? と思わせるほどだ。
細川のジジイの支度は整った。
「先生! 安居院は危険です! 考え直して下さい!」
塚原が立ち上がり、細川のジジイの前に立ちはだかる。
「塚原、見ていなさい。安居院、いや、この悪童はワシには勝てん」
何だと?
俺が負けるとでも思っているのか?
正気か?
このジジイは。
「安居院が負けるというのですか? 何をするか分からない奴ですよ?」
「まぁ、見てなさい」
細川のジジイはそう言って、塚原を押しのけて、俺の目の前に立った。
「塚原の話によると、剣道部部長を防具も着けずにしかもかすりもせずに、一本取ったと聞くが?」
「あぁ、防具着けようが着けなかろうが、俺には関係ないからな。老いぼれてんだから、手を抜いてやってもいいぜ?」
「いや、結構。本気で来なさい」
お互い
「これは試合でも何でもない、ただの立ち合いだ。その代わり約束は守ってもらうぞ」
どうやら本気で知りたい様だ。
「勝手に要求してきているのはそっちだろう? まぁ、いい。ただし、条件がある。もし俺が一本取られたら、ここにいる全員に、日輪無神流という名が知られている。そこまでならいいが、それ以上の内容は、
日輪無神流を言ったのは俺だ。
だが、それ自体に問題はない。
問題なのは日輪無神流の内容、つまり歴史だ。
これだけは闇が深く、そしておぞましくもある。
これだけは簡単に語る事など出来ない。
「どうだ? 約束出来るか?」
塚原、知代子は動こうとしない。
この二人は信用しても良いだろう。
問題は岬さんだ。
まだ会って間もないし、信用に足りるかどうか、正直分かりかねない。
蜻蛉で岬さんを視野に入れる。
動こうとしない。
俺は思わず、岬さんに近づいて膝をつき耳打ちをした。
「岬さん、アンタは関係ないだろう? 巻き込んでしまったのは悪いと思っている。だから今のうちにここから…」
そう言いかけると岬さんは、俺を真っ直ぐ見て、
「いいえ。私は成り行き上、この様に関わってしまいましたが、安居院さんの本当の強さをこの目で確かめたいです。剣道だとか剣術だとか関係ありません。私はこの目で確かめたいんです! もし安居院さんが一本取っても取らなくても、そんな事は全然関係ありません。その強さがどこから来ているのか、やっぱり私は知りたいんです!」
俺は呆気に取られた。
この円城寺岬は、意外に芯の通った女子だと。
俺は女が嫌いだが、一本筋の通った女はまた別だ。
千葉は天然だが、天然が故に、良い女子を紹介してくれた。
これほどまでに真っ直ぐと俺を見つめ、俺を信じているというのであれば岬さんを信じる他ない。
「どうする? まだ始めないのか?」
細川のジジイが
俺は立ち上がって、再び開始線に戻った。
「あの娘はお前のアレか?」
「うるせえ、エロジジイ」
俺とジジイの立ち合いが始まる。
「約束は守れるか? エロジジイ」
「こういう時は
お互いの剣先が、パシン、と鳴った。
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