第3話 二度あることは?三度ある

 その日は、講義後、テラス席で昼食を食べることになった。


 4月も下旬になったというのに、冷気のような肌寒い風が頬へと当たる。何もこんな肌寒い中、外のテラス席で飯を食べることなどないかもしれない。


 しかし、周囲に人がいないため、俺と高校からの腐れ縁である西森聡が、ダラダラと近況を報告しあうには誰にも邪魔されない絶好の場所だった。


 聡はチャラチャラとした金髪をガシガシとかいてから、面白そうに笑った。


「ほーそれは、お前、誘われたってことじゃないか?」


「そうなのか?」


「ああ、間違いないな。俺の勘がそう言っている」と聡は切長の瞳を明後日の方に向けた。まるで悟っているかのようだった。


「さすが伊達に生徒に手を出しているだけはあるな」


「おい、言い方!?」


「でも今、付き合っている相手は元生徒さんなんだろ?」


「俺たちの場合はちゃんと高校卒業してからだからな?」


「まあ、なんでもいいよ」


「相談にのってやっているのにその反応酷くないか!?」


「すまん。つい」


「つい、じゃねーよ。まったく……」と言ってから、聡は冷めかけのコーヒーへと口をつけた。それから「で、本題に戻るが、わざと挑発するような言動を終始、繰り返すって言うのはやっぱりお前にその気があるんじゃないか?」と言った。


 聡にはこれまでの出来事をほぼ全て伝えた。

 浅葱さんとはこれまで数回の講義をしていたこと。

 その時に決まって露出の高い部屋着で俺を待ち構えていたこと。

 そして講義が終わった後に必ず一緒に食事をしようと誘われること。

 

 長いまつ毛とうるうるとした瞳で、『お父さんもお母さんも全然帰ってこないから、寂しいかも……』と言ったこと。

 

 桜色の下唇を少し噛む仕草、こくんと首を傾げる仕草、長い茶色の髪をかき上げて、色白いうなじを見せる仕草––––––––

 

 カタンと風によって何かがぶつかる音がして、厄介な情景から解放された。


「まあ、あるいはお前を試しているだけか」

「いや、試すって……何を?」

「それは知らん。ただ、もしも––––」

「なんだよ」

「わざとやっていないんだとしたら、相当天然な小悪魔だろうよ、そいつ」

「……」


 天然の小悪魔か。

 あれか。世の男性をその気にさせておいて、いざ男性が迫ると『私、そんな気なかったのっ!』と言うあの傍迷惑は人種のことか。


 浅葱さんは果たしてその小悪魔とやらなのだろうか。


 いや、授業中は真面目に勉強に取り組んでいる。

 それに課題もしっかりとこなしてくれていた。


 だとすると、俺の気のせいなのか?

 たまたまあの日は日中も暑くて薄着で過ごし、そのまま着替えるのが億劫でただ自室でくつろいでいただけだった。


 そして、その日はたまたま家庭教師に講義を受ける日という偶然が重なっただけ……?


 もしもそうなのだとしたら、本当にそれだけのことなのかもしれない。浅葱さんの格好に深い意味なんてないのかもしれない。


 そうだよな……。

 うん、俺が単に自意識過剰なだけだったのだろう。


「相談しておいてなんだけど、気のせいかもしれない」


「なんだ、急に?」


「いや、よく思い返すと薄着だったのは偶々その日、暑かっただけかもしれないしな」


「ははは」と馬鹿にするように、聡はガシガシと俺の肩を叩いた。


「おい、なんだ」


「女が自室で男の前でわざわざ薄着のままでいると思うか」


「だから、その日はーー」


「いやいや、滑稽だ。まあ、せいぜい彼女ーー美穂ちゃんにはバレないことを祈るぜ」


 どこか突き放すように、聡は言った。




 店内では知らないジャズが流れている。

 古めかしい置き時計が店内の隅に鎮座するように配置されている。店には俺たち以外にお客さんの気配はない。


 彼女––––山下美穂は、冷めたような視線をチラッと俺へと向けた。


「ふーん、それで新しいバイト先は受験生だったんだ」

「ああ」

「だから、これから受験生の相手をしないといけないから、私と会わないってわけ?」

「いや『会わない』とかそんなんじゃなくて……単価も高いし、今更別のバイトはちょっと」

「あっそ。で、その受験生は、女?」

「まあ」


 美穂は足を組み直して、長く黒い髪をかきあげた。

 この仕草をする時は決まって、機嫌が悪い証拠だ。

 

 きっと毎週欠かさずに会っていた金曜日にブッキングしたことに腹を立てているんだ。


 俺は誤魔化すように言葉を捻り出した。


「毎週1回の頻度になるだけだから、別の日であればいつでも会おうと思えば会えるから」

「それだと、まるで私から会いたがっているようじゃない」

「ごめん……俺が会いたいんだ」


 選択する語彙を間違えた。

 美穂はじーっと俺を凝視してから「まあいいわ」と呟いた。それから、アイスティーへとちょこんと口をつけた。


「美穂の方は通訳のバイトどうなの?」

「別に何もないわ」

「そうか」


 アイスティーはまだ半分ほど残っていたが、美穂は突然立ち上がった。


「そろそろいきましょ?」

「わかった。会計しておくから先に行ってくれ」

「ありがと」


 そう言って、黒い日傘を持って入り口へと向かった。

 

 今でも思う。

 よく、美穂と付き合うことができものだと。



 俺が山下美穂と出会ったのは、高校生の時だった。


 まだ夏の暑さが残る初秋に、俺たちの高校では毎年文化祭が開催されていた。


 その文化祭で、聡や他の男子たちとゲームをしていた。どのようなゲームで競っていたか、もう忘れてしまった。


 確か何処かのクラスのビンゴ大会に参加している時だったかもしれない。


 最後まで残った人が、上級生の一番可愛い子に告白するという、なんとも馬鹿らしい罰ゲームだったことだけは記憶している。


 結局、ゲームに負けたのが俺だった。

 まあ、不運というか、幸運だったのか今ではなんと言えばいいのかわからない。

 文化祭、最終日の後夜祭前に、山下美穂を呼び出した。


 それまで、図書委員として何度か当番の同じ日があり、顔を合わせたことがあった。しかし、もちろん、何か個人的な話をすることなんてなかった。そもそも共通の話題なんてなかった。それに俺は図書室の静まり返った空間が好きじゃなかった。


 だから、ただ本を書棚に戻すだとか、整理整頓するだとか、そういったことを黙々とこなしたことくらいしか記憶にない。


 もちろん、上級生で一番可愛い子と一緒にいることができたのだから、少しは優越感みたいなものはあったかもしれない。


 でもそれだけだった。


 いずれにしても、罰ゲームに負けた俺は、聡や他の奴らからの『とりあえず告白しろ』という謎の圧力と文化祭特有のノリというやつに飲み込まれていた。


 どうせ振られるのは明白だったから、馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、後夜祭が始まる前に図書室へと呼び出していた。


 そして陳腐な言葉で俺は告白した。


『ずっと好きでした。付き合ってください』

『仕方ないわね……いいわ、付き合ってあげる』


 少し赤く染められた頬をプイッと俺から逸らして言った。


 きっと、この時、俺は美穂のことを好きになったんだ。


  


 ゴールデンウィークが過ぎて、梅雨の季節へと流れた。


 最近まで暑い日々が続いていたが、ここ最近はどんよりとする雲ばかりだった。それに伴って、じめじめとする空気が支配していた。


 浅葱さんの自室に入ってすぐさま『冷房をつけてほしい』と一方的に言って、それからできるだけ距離をおいて座った。


 心地よいクーラーからの冷気が室内をひんやりとさせ、PCからたまに大きくなるファンの音が静かに室内を支配していた。


 だから、初めは気が付かなかった。

 ノートPCで次に出す課題を作成していると、いつの間にか視線を感じた。 


 浅葱さんはフグのように頬を膨らまして甘えるような声で言った。


「藍人先生、気がつくのおそーいです」

「ごめん、えっと––––」とできるだけ冷静さを保ちながら、テキストへと身体を近づけ、「ああ、ここは倒置でその後に修飾語が––––––」と解説をしようとした。


 しかし、思考を邪魔するように囁くようなしっとりとした声が耳元で聞こえた。


「ねえ、先生。どうして避けるの?」

「––––!?」


 咄嗟だったが、なんとか身体を離すことができた。


 この女の子は、距離感がバグっているんだった。

 あまりに自然とパーソナルスペースへと入り込んでくるから、こっちはヒヤヒヤしてしまう。もしも誰かにみつかりでもしたら、俺の人生は終わってしまうだろう。


 若干乱れてしまった呼吸を整えてから、俺は浅葱さんを冷静に見ることができた。


「避けてはいない。むしろ浅葱さんの方は、少し距離感の取り方を気にした方がいい」


「ねえ、藍人先生?私が誰にでもこんなに無防備に近づくと思いますか?」

 

 ちょこんと首を傾げて、カールした茶色の髪がゆらゆらと揺れた。

 今にでも吸い込まれてしまいそうな大きな瞳が俺を捉えた。


「どういう意味かわからないが、この際だからはっきりと言っておく。前任者がお前のことを好きになったとかいう話だが、少しは浅葱さんにも異性を勘違いさせるような態度をとっていた節があるんじゃないのか?」


「えっと……」と僅かに考える素振りをして、浅葱さんはやっぱり心当たりはないと言いたげに「私、今まで異性の先生にお願いしたことありませんよ?藍人先生が初めてですよ?」


「は?」


「だから、異性の先生にカテキョをお願いしたのは、今回が初めてですって!」


 プクッと頬を膨らませた。


「いやいや、初日に『私のことを好きになっちゃったみたいなので、辞めてもらったんです』とかなんとか言っていただろ?」


「ええ、言いましたよ?でも男性とは言ってませんよ?」


「え、それじゃ、同性の女の先生から告白されて気まずくなったから、俺に変更になったということなの?」


「うーん、気まずくなったと言いますか、襲われそうになったと言いますか……」


 浅葱さんは困ったように視線を逸らした。

 

 きっと、今以上に同性だと思って距離感がバグって接していたのだろう。


 だからその前任者も勘違いしたのは仕方のないことなのかもしれない。


 そう思えば若干の同情の余地はありそうだが、いや、何にしても生徒に手を出したらダメだろう。

 

「とりあえず、前任者の話については置いておくとしても、俺への距離感の取り方は少し考えてほしい」


「え、なんでですか?」

「何でって、本気で言っているのか?」


「うん」とキョトンとした表情で浅葱は言った。


「俺は家庭教師で、浅葱さんは生徒だろ?」

「だから?」


「だから、むやみやたらと近づいたら面倒なことになるだろ」


「え、面倒って何?」

「それは––––」


 俺の口からそれを言わせるのか。

 この女、やっぱり天然が入っているのか。


「あーわかりました」と、スッと目を細めて「もしかして、藍人先生、私のこと襲いたくなっちゃうんだー?」と浅葱は口元を僅かに歪めて言った。


「お前––––」


「ふふふ、私、藍人先生ならいいんだよ?だって––––好きなんだもん」

 サディスティックに俺を見下すように言った。


 この女は、何を言っているんだ。

 浅葱さんはクルクルとカールした髪を指先でなぞったあとで、桜色の唇に人差し指を置いた。それから、ゆっくりと言った。


「ねえ、知っていましたか?私たち三度も出会っているんですよ?これって奇跡じゃありませんか?一度目は本屋さんの帰りに二人だけエレベーターに閉じ込められて、二度目は先生と生徒として、三度目は––––まだ内緒ですけど、これって本当にすごいことだと思うんです」


「……」


「それに藍人さん、私が何度誘ってもなびかないですし、彼女さん一筋でいるところもすっごく良いです。ああ、この人はどんなことがあっても絶対に裏切らないんだろうなーてわかったから、もっと、もっと好きになっちゃいました」


「ごめん、浅葱さん。からかっているならやめてくれないか?」


「え?まだ本気じゃないと思っているんですか?」


 そう言うと、浅葱さんは一歩近づいてきた。それに呼応するように、俺は一歩下がった。浅葱さんは「ふふ」と口元に笑みを浮かべている。

 だから、俺は浅葱さんが近づいてくるたびに、後退り一定の距離感を保とうとした。

 しかし、いくら高層マンションの一室でそれなりに広い部屋であっても、端は存在する。


 とうとう背中は壁に当たった。

 

 浅葱さんはゆっくりと俺の胸元に顔を埋めた。


「離れてくれ」

「いやです」

「俺は……何も聞かなかったことにする」

「ねえ、先生。藍人先生、私、本当に好きなんです。だから、からかっているわけじゃないんですよ……?」

 

 上目遣いで俺を見る瞳には、すでにうっすらと涙が浮かんでいた。小さな唇からはわずかに乱れた息が漏れている。


 しっとりとする体温が伝わってくる。

 心臓がバクバクとしていることも伝わってくる。


 そして何もよりも柔らかな––––

 

 ダメだ。このままでは、どうにかなってしまいそうだった。


 逃げるようにして、俺は浅葱さんの部屋を後にした。

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