2222
紀 聡似
1 殺人犯の来庁
「で・・・その、つまり、君が神原(かんばら)教授を殺害した、ということで良いのかね?」
「はい。私が教授を殺しました」
それを聞いて、困ったような表情で、パイプ椅子の背もたれに身体を預けたのは、警視庁の捜査一課に勤務しているベテラン刑事、盾ノ内(たてのうち)警部、その人だった。
盾ノ内刑事、彼は今朝まで夜通しで、とある殺人事件の捜査資料を調べていた。
もう警視庁に二日間も泊まり掛けであり、眠気覚ましのコーヒーの飲み過ぎで胃がキリキリと痛むのもあって、あまり食欲も湧かないでいた。さらに真夏ということもあったので身体中がベタついていて、一度帰宅してからシャワーを浴びて、爽快に着替えをしたい心持ちもあった。それに伸びていた無精髭も、キレイサッパリと剃りたいという、ちょっとした不快感も持っていた。
とりあえず仕事も一段落がつき、今このタイミングしかないと、彼は一旦帰宅することにしたのは、もう窓の外がピンク色に薄ら明るくなった頃だった。
一階でエレベーターを降りたとき警部は思い出した。後輩の榊(さかき)巡査のデスクに、捜査資料の一部を置いてくるのを失念していたのだ。
また戻るか・・・いや面倒だなぁ。
まぁ、あいつはだらしのない奴だから、どうせ今日も遅刻して来るだろう。それにきっと、俺は奴が出勤して来る前に戻って来ているはずだから、やっぱりこのまま帰ろうか。
しかし生真面目なところがある盾ノ内は、数分後には、とっ散らかっている後輩のデスクの前に立っていた。
バサッと資料を叩き置くと、細かいホコリが舞い上がったのと、榊巡査の飲みかけらしい缶コーヒーが目に留まった。
缶コーヒーの飲み口には、乾いて茶色い染みになった唇の跡があり、それが盾ノ内刑事には、何とも言えない汚らしい嫌悪感を抱かせた。と同時に、ますます胃痛が酷くなって、やっぱりあのまま帰っておけば良かったと、後悔を噛みしめていた。
胃痛が酷くなると脂汗がじっとりと額からしみ出て来る。顔に油の膜でも張っているかのようだった。ただでさえ身体中がベタついていたので、少しでも紛らわすために、ヨレヨレになったYシャツの胸の辺りをつまんで、バタバタと風を吹かしてみた。革靴の中もサウナみたいに蒸れていて、蹴り脱いで裸足になりたいほど不快の頂点だった。
警部が再び一階に降りたころ、ロビーには早朝に登庁して来た職員の姿もチラホラ見られたが、徹夜明けで疲労困憊の警部からすれば、そんな職員たちがお気楽なご身分の輩に思えて、顔を見たくもないくらい気分が腐っていた。
ポケットに右手を突っ込んで、二日分の油汗を吸ってボサボサになっている髪の毛を左手で掻きながら、ふてくされた感じでガニ股でドカドカ歩いていると、そんな時だった。
「少し宜しいでしょうか」
と、いきなり横から声をかけられたのだった。
「ん?お、俺か?」と盾ノ内警部。
まず真っ白な薄手の生地で仕立て上げられただろう、鮮やかなワンピースに警部は目が奪われた。
次に百七十センチの自分と同じくらいの身長。
いや、やや踵が高いサンダル風な靴を履いているので、実際は百六十五センチくらいだろうか。
早朝とはいえ、夏場の高湿度にも負けていない、真っ直ぐで黒々とした、絹糸のような艶やかな髪をサラサラとなびかせて、それは立っていた。
「私、人を殺しました」
「え?・・・はい?・・・ちょ、ちょっと待って」
盾ノ内は近くにいる警備係の職員を呼ぼうとした。それは、まず自分は帰りたい一心であったので、いささか面倒くさい感情が働いたからだ。しかし自分は捜査一課の刑事であるため、万が一、あとで怠慢だとか文句を言われても困るので、それは思い留めることにした。
「あー、まぁそう言うけど、そんな・・・君は人を殺してきたようにも見えないけどね」
「いえ、私は明応大学の理工学部に勤務している、神原栄教授を殺してしまいました」
「本当に?・・・う~ん、この暑さだからね。・・・どこか調子が悪いとか?」
まるで信じていない盾ノ内刑事だが、人を殺したと言っているものを、警察がおいそれとは追い帰す訳にもいかない。
「う~ん。じゃあ、とりあえずこっちへ来て下さい」と言った盾ノ内だったが、いきなり取調室に連れ込むのも何なので、事件などの関係者を通す一室へ案内した。
そこは、だだっ広い部屋に長机が数脚あるだけの所だったが、事情を聞くには問題のない場所である。
それでは、話を冒頭に戻します。
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