食うか食われるか

 ――九六八年 実季二節



 デリック・ギルモアは、『獣のはらわた』の案内人を自称する『ヤドリギ』が名前を把握している、数少ない地上の人間である。要するに「常連」というやつだ。

『はらわた』を何度も訪れる人間はそう多くない。そもそも『獣のはらわた』への無断での立ち入りは首都の法律で禁じられている。もちろん『ヤドリギ』や『はらわた』で暮らす家なしたちの存在は法律に反しているから、時折首都警察が行う摘発から逃げ回る羽目になる。

 そして、法律に反すると理解してあえて『はらわた』に踏み込んでくる人間は、九割方がろくでなしだ。それも、ほとんどが凶悪な類の。そういう人間を懇切丁寧に案内してやるほど『ヤドリギ』は優しくない。きっぱりと断るか、それでも脅してくるような相手は脅しに屈したように見せかけて『はらわた』の奥深くに置き去りにする。その後のことは『ヤドリギ』の知ったことではない。

 故に「常連」というのは、『ヤドリギ』からしても稀有な存在だ。有り体に言ってしまえばろくでなしなのかもしれないが、それでも『ヤドリギ』から見て悪意を感じられない存在。デリックはまさしくそういう男だといえた。

 今日もデリックは見慣れた重装備――これでも最初に見た時よりは随分軽装になったとは思うが――で、ひらひらと『ヤドリギ』に手を振ってみせる。

「お、いたいた。探したよ」

「そうか、手間をかけさせたな。……というか、ここまで一人で来たのか」

 何度か来てるからなぁ、とデリックは朗らかに笑う。凹凸が少なくさっぱりとした、東方の血が混ざっていると一目でわかる顔立ちはどうにも年齢が判じづらいが、おそらくは『ヤドリギ』とそう変わらないか、もしかすると少し上かもしれないと踏んでいる。実際に聞いてみたことはないし、これから聞くつもりもないが。

「何度か来てるからといって、過信は禁物だ。また、言葉通りにはらわたを食い破られたくはないだろう?」

「そりゃそうだ。精々気をつけるとするよ」

 と、デリックはにっと笑って大げさに肩を竦めてみせる。その様子を見る限り、特に体に問題はなさそうで『ヤドリギ』はデリックの顔を見るたびにほっとするのだ。

 何せ、初対面があまりにも壮絶だったものだから。

 

 

『獣のはらわた』の上層のうち、比較的安全と判明している場所は、ほとんどが家なしたちの住処となっている。いくつかの集団が、肩を寄せ合って、かろうじて日々の糧を得て暮らしている場所。『ヤドリギ』も『はらわた』の住人のひとりとして、彼らのために自分に出来る限りのことをしようと常々努力しているつもりだ。

 飲み水の供給に、食用となる植物の判別と採取、それにいつしか『ヤドリギ』に求められていたのは、医療に関する領域だった。

『ヤドリギ』はもちろん医者ではないから、あくまで素人の応急処置にすぎない。とはいえ、『ヤドリギ』の「植物を正確に見分け、その性質を分析する」能力は、こと『はらわた』においては十二分に役に立つ。十分な治療を受けられない『はらわた』の住人にとっては『ヤドリギ』が『はらわた』の奥から採取してくる薬草が命を繋ぐことも往々にしてあるのだ。

 ――ただ、『はらわた』の奥に怪我や病に効く薬草がある、という情報だけが独り歩きしてしまったのはよくなかった。『ヤドリギ』は今もこれについては深く後悔している。もう少し『ヤドリギ』が慎重になっていれば、起こるはずのない事件であったから。

 その日の『ヤドリギ』は、『獣のはらわた』のかなり深くまで潜り込んでいた。現在に至るまで『はらわた』の上層以外はほとんどが未踏の区域であり、『ヤドリギ』は案内をはじめとした用事がない限り、『はらわた』の調査を進めるのが日課となっていた。前に挙げた通り、『はらわた』には未だ地上では確認されていないような食用の植物や薬草が生えていることがある。……それと同時に、未知の毒草や、奇怪な生物なども確認できるわけだが。それらを確認し、記録しておくことは決して無駄ではないだろうと『ヤドリギ』は思っている。今この瞬間には役立たなくとも、自分の記録がいつか誰かの役に立てばいい、という程度の考えではあったが。

 そして、今まで到達したことのなかった区域に足を踏みいれ、上層まで帰ってきた頃にはかなり遅い刻限になっていた、らしい。何せ『はらわた』に昼夜の別はない。上層の住人達の何人かが手にしている時計か、時折外から漏れてくる霧明かりでかろうじて判断できる程度に過ぎない。

 しかし、戻ってきた『ヤドリギ』に知らされたのは、思わぬ報であった。『はらわた』で暮らす幼い娘が一人、『はらわた』の奥に潜り込んで戻ってこないのだという。彼女の母は先日からあまり体調がよくないことは『ヤドリギ』も把握していたが、おそらく、母のために薬を探しに行ったのだろうということはすぐにわかった。

「……誰か。最後に彼女を見かけた者はいるだろうか」

 内心の焦りを押し殺し、かろうじて言葉を吐き出す。既に周知はされていたのだろう、すぐに手が挙がり、娘が最後に目撃された場所まで案内された。ここまでは『はらわた』の住民も行き来する場所、ではあるが――『ヤドリギ』はその奥を見つめて苦い顔をする。

 この先には確かに咳や熱といった症状に効く薬草が生えている。『ヤドリギ』は何度もその奥に潜っては薬草を採って帰ってきた。娘はそれを記憶していたのだろう。ただ、それはあくまで『はらわた』の探検に慣れていて、かつ人外の能力を持つ『ヤドリギ』だからできることだ。特にこの先は危険であるから入るな、とこの近辺の住人には厳命していたのだが……、病に苦しむ母を思う娘の気持ちもわからなくはないだけに、何ともいえない気持ちになる。

 とにかく、急いで探しに行かねばならない。手遅れになる前に。火を入れたランタンを持ち上げた蔦に引っ掛けると、あえて狭くしてある穴を潜る。その先は、ランタンの灯りと、発光植物の柔らかな灯りだけが支配する薄闇の領域。『ヤドリギ』にとっては慣れたものだが、単なる人間の子供でしかない娘にとっては先もわからないそこは、どれだけ心細いものであろう。……それでも、彼女は足を止めなかったに違いない。岩肌の光る苔に、小さな手の痕が残っている。おそらくは、壁を伝うようにしてゆっくりとこの先に進んでいったに違いない。

『ヤドリギ』は足を早めてそちらに向かう。どうか追いつけるようにと願って。階段状になっている滑りやすい石の段を降り、一つ、二つと穴を潜って。

 その時。

 片耳の聴力を失っている『ヤドリギ』の耳にもはっきりと届く、娘のものとわかる絹を裂くような悲鳴。それから――何かが破裂する、激しい音が響いた。

 いんいんと左耳の奥で破裂音の余韻が響いているのを感じながら、『ヤドリギ』はさらに足を速めてそちらに進む。何かが起こったのだ。それも、おそらく『ヤドリギ』も想定していなかったような何かが。

 もう一つの穴を潜ったところで、視界が開けた。……いや、そのほとんどは発光植物すらない闇に包まれていたが、『ヤドリギ』の人のものでない感覚は、それが今まで通ってきた、ほとんど人一人がぎりぎり通れる程度の空間よりもはるかに広い空間であるということを告げている。

 そして『ヤドリギ』は知っていた。

 この空間が、『はらわた』の中でも特に凶暴な獣といえる八つ目狼が徘徊する縄張りであることも。

 そして、一拍遅れて認識されたものは、生臭い血の臭いと、それから、これはもしかすると硝煙の臭い、だろうか。普段嗅ぎなれていないものを知覚して混乱していると、聞きなれた声が響いた。

「『ヤドリギ』! 助けて、この人が、死んじゃう……!」

 言われて、やっと『ヤドリギ』から数歩先に娘と、そして見覚えのない男がいることに気付いた。そちらに駆け寄りながらも、視線を上げて片目に意識を向ける。

 まず、イメージするのは「赤」。そこから連想される熱と、光。魂魄に言葉通りに「焼きついた」記憶を呼び起こし、走らせる。

 それらの記憶から導かれるものは一つ、「火」だ。

 全てを焼きつくすもの。かつてこの半身を焼いたもの。

 そして、今まさに娘と男に飛び掛らんとしていた獣の頭を包んだもの、だ。

「去れ! さもなくばこのまま焼き尽くすぞ!」

 もちろん獣に言葉など通じない。ついでに『ヤドリギ』にはこの場にいる獣を焼き尽くすだけの力もない。だが、実際に「見せた」炎と『ヤドリギ』が持つランタンの効果は絶大だった。目の前まで近寄ってきていた獣が火に巻かれて悲鳴を上げて去る気配と同時に、血の臭いを嗅ぎつけてだろう、ざわりざわりと近寄ってきていた気配が一気に引くのがわかる。

 それを確認してから、娘と男の状態を改めて確かめる。娘は途中で転んだりしたのだろうか、擦り傷こそあるがほとんど無傷。だが、問題はその場に倒れる見知らぬ男の方だった。

「これは……」

 男は脇腹の辺りに深い傷を負っており、出血が止まる様子はない。意識も失っているようで、かろうじて、細い呼吸だけが聞こえてくる。

 だが、それと同時に、男の横には八つ目狼の死体が奇妙な色の液体――それが正確な名もつけられていないこの獣の体液であることは『ヤドリギ』も知っている――に覆われて転がっていることに気付いた。それも、胴体が完全に吹き飛ばされた形で。

 獣に死をもたらしたものは、すぐに特定できた。男が片手で握ったままの散弾銃だ。実弾銃は跳弾の危険性が高いため『はらわた』では目にすることは珍しい。『ヤドリギ』が知識として知るそれよりも銃身が詰められている。確かこの手の銃は、命中率が下がる代わりに破壊力を重視したものであり、主に構造物――特に閉ざされた扉などの破壊に使われる、所謂『万能鍵マスターキー』と呼ばれるものだと判断する。

 おそらく、男は噛み付かれた、と判断した時点で銃の引き金を引いたのだろう。八つ目狼は類似種の六つ目犬よりはるかに凶暴ですばしこく、動いているところを狙うのは『ヤドリギ』でも難しいが、狙いが定まってしまえばどうということはない。

「この人、わたしを、庇って……、それで、あの化け物に、噛まれて」

「わかった。少し移動しよう」

 男をこの状態から動かすのは得策ではなかったが、ここに残っていれば『ヤドリギ』が脅した連中がいつ戻ってくるかもわからない。とにかく、この近くの『ヤドリギ』が普段ねぐらの一つにしている場所にまで連れて行くしかない。

『ヤドリギ』は蔦を伸ばして男を包み込むようにして背負い、左手で支える。それから、真っ青な顔をした娘に語りかける。

「ついてきてくれるな?」

「う、うん」

『ヤドリギ』の落ち着いた声に、娘も少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。何も『ヤドリギ』も全く落ち着いているわけではないが、取り乱しても何も始まらない。それだけの話ではあったのだが。

 探索用に迷宮の内にいくつか用意しているねぐらの一つに男を運び込み、獣がこれ以上入り込まないように扉を簡単に閉ざす。側に生えている植物の力を少しばかり借りて、入り口に張り巡らせるだけだが、大概はこれで十分だ。臭いで嗅ぎつけられても、時間を稼ぐことさえできればいくらでも対策のしようはある。

 ともあれ、落ち着いたところで、男が背負っていた荷物――これが妙に大きかった――を外して横たえ、容態を確認する。……このままでは間違いなく失血死であろう。しかし、この場に医者がいないのは『ヤドリギ』が一番よく知っている。そもそも『ヤドリギ』がここまで娘を探しに来たのも、娘が母のために薬草を採りに来たのがきっかけなのだから。

 顔から生気を失いつつある男を見やる。本来なら、見捨ててもよい案件であった。『ヤドリギ』が己に課しているのは、『獣のはらわた』に住まわざるを得ない人々に出来る限りの手を貸すこと、そして時折『ヤドリギ』の『はらわた』に関する知識を借りにきた物好きの相手をすること、だ。この男は身なりや荷物から判断するに、地上に居場所も立場もある人間だろうに、危険を知りながら『はらわた』に潜り込み、致命傷を負うような馬鹿を助ける義理は『ヤドリギ』にはない。

 ただ――。

「『ヤドリギ』、勝手に奥に潜ってごめんね、あたしのせいで、この人が」

「起こってしまったものは仕方ない。事情を説明してもらってもいいか」

 男の傷口周りに張り付いた服を剥がしながら、怯える娘に、できる限り穏やかな声をかける。このような事態を引き起こした以上は『ヤドリギ』に叱責されると思ったのだろう、娘の顔は極度の緊張と恐怖とで強張っていた。事実、『ヤドリギ』が娘に対して苦言を呈したことは何度かあるから、娘から見たら相当厳しい人物に見えている、のかもしれない。

 しかし、今は叱責よりも先に、状況を確認しなければいけない。

「君のせいで……、と言ったが、彼は一体どこから出てきたんだ?」

「あ、あたしも知らない。でも、多分、別の道から、同じ場所についたんだと思う」

 確かに八つ目狼の縄張りである広間は、いくつかの通路で繋がっている。そのうち娘が辿ったのとは別の道から来たのは間違いないだろう。『ヤドリギ』もここに至るまでにそれらしい痕跡を見つけられなかったから。

「それで、何かが飛び掛ってくるのがわかって、思わず、悲鳴を上げたら……、その人が、あたしのこと、庇ってくれて、それで……」

「自ら怪我を負いながら、狼を撃ち殺した、ということか」

 庇った以上は逃げようはない。つまり、こうなることを覚悟して、一歩を踏み込んだということだ。

 少しでも自己保身が優先されれば――そしてそれが一般的な感覚というものだ――咄嗟に娘を庇うことなどできなかっただろう。だが、彼女を庇うのが「当たり前」だと、この男はごく自然に動いた。それだけは語られるまでもなく『ヤドリギ』にもはっきりとわかった。

 倒れた男は何も語らない。その代わりに、娘が、ぽつりと言った。

「気を失う前に、一言だけ、聞こえたの。『無事でよかった』って」

「そうか」

 それ以上の言葉は必要なかった。『ヤドリギ』は男の手当てを決意する。難しく考えることはない、『はらわた』の住人を守ってくれた相手に出来る限りの手を尽くすのは『ヤドリギ』の役目の一つ。それだけの話。

 とはいえ『ヤドリギ』に己の傷を修復する能力はあっても、人を癒す力はない。そんな奇跡のような能力があればそもそもこんな事態にはならないのだ。

 特にここまで深い傷を負ってしまった相手への治療法など『ヤドリギ』にも皆目検討がつかない。『ヤドリギ』自身は、いくら深い傷を負ってもそれが致命傷にならない限りは回復するのだから――、と思いかけて、何かが引っかかるような思いがした。

「すまない、火を熾すから、湯を沸かしてくれないだろうか。鍋はそこ、水場はこの奥にある」

 不安げに男を見守っていた娘に指示を飛ばし、簡易に組んでおいた竈に薪を投げ込んで、瞬き一つで火を入れる。連続で「火」の記憶を覗き込んだせいで鈍い頭痛がするが、構ってなどいられない。

 溢れる血を止めることはできないが、娘の手を借りながら湯を含ませた布で患部を拭う。それから、傷の深さを改めて確認する。おそらく牙は内臓には届いていない。これならばもしかすると、という可能性に賭けてみることにする。

 娘に背を向いているように指示する。ついでに、男の荷物を改めておいてほしい、ということも。武器の散弾銃は『ヤドリギ』の側にあるが、何を持ち込んでいるのかわからない以上、もし危険なものを持ち込まれていたら困る。何か判別できないものには手を触れないように、と言い置いて『ヤドリギ』は改めて男に向き直る。

 それから、自分の鞄から取り出すのは傷を負った際に、傷口を消毒し治癒力をほんの少しだけ増進させる薬草。今は乾いており、これを濡らして患部に貼ることで簡単な傷なら数日で塞ぐことができる。……もちろん、ここまでの傷の止血の役に立つようなものでないことは『ヤドリギ』もよく知っている。

 ただ、これひとつではどうにもならないとしても、『ヤドリギ』自身の能力をここに乗せることはできないか、と思ったのだ。植物に働きかけ、通常ではありえないような現象を起こす力を。

 今まで、『ヤドリギ』は自らに宿る「植物」に由来する力を人に向かって振るったことはなかった。自らの能力が植物に対してどう働くのかも、この数年共に生きていてまだはっきりしていないのだ、成功するかどうかもわからない人体実験に踏み切るわけにもいかない。

 しかし、今は一刻を争う。『ヤドリギ』は試しに男の傷口に薬草を貼り巡らせて、その植物に意識を巡らせてみる。ただ、それは既に摘み取られて息吹を失った植物だ。微かに蠢くような反応は返ってきたが、傷を癒すには至らない。

 それでも、ここまでは想定の範囲内だ。ここからが、試したことのない領域。『ヤドリギ』は一旦薬草を剥がし、普段からベルトから下げているナイフを右の蔦の一本で引き抜き、迷わず己の左の手首に刃を走らせる。

「……っ」

 声を出さなかったのは上出来だ。流石にこんなところを背後の娘には見られたくなかったから。

 激痛、と共に血――にしては微かに粘り気を帯びた、赤い液体が噴き出す。だが、それはそう長く続かないことを『ヤドリギ』は知っている。『ヤドリギ』の体は致死に至る前に傷を塞ごうとする。肉体、それに血液は即座に止血と修復を始める。実際に『ヤドリギ』の傷はたちどころに植物の根のようなものに覆われて、実際に傷をつけたとき以上の痛みをもって修復を始めている。

 ……ならば。

 左手を傷つけてしまったため、どうしようもない痛みを何とか堪えながら、右の蔦を使って男の腹部の傷全体にに己の血を塗りつける。そして、「どのように傷が修復されていくのか」、そのイメージを男の傷口に伝えようと試みる。『ヤドリギ』の血は己の損傷箇所を修復しようという力を持っている。『ヤドリギ』自身の意志とは無関係に働く強制力。ならば、その力を血を通して伝えることはできないか。そう、思ったのだ。

 そして、その想定は決して見当違いではなかった。『ヤドリギ』自身のそれよりは遥かに鈍い動きではあったが、男の傷口がゆっくりとほつれ、植物の根のような形状となって傷口を塞ぎ始めたのだ。やがて、あれだけ深く穿たれていた傷が、引きつるような痕や、僅かな隙間などを残しながらもほとんど埋まっていく。

 それを見て、『ヤドリギ』は再びその上に薬草を貼り付ける。『ヤドリギ』の場合は傷痕も残らないくらい完璧に回復するが、どうやら他者に対してはそこまでの治癒能力は発揮しないらしい。いつ、傷口が再びほつれるかもわからない。

『ヤドリギ』の血に触れたからか、薬草も先ほどより生気を取り戻したかのように男の傷口をしっかりと覆ってくれた。男の傷から溢れていた血は止まっていて、男の顔色は酷く青ざめてはいたが、それでも、まだ呼吸はある。

 これで、ひとまず失血死の危機からは脱したことになる。『ヤドリギ』は深く深く息をついて、まだ激痛を訴える左の手首を右の蔦の一本で押さえながら、背後で『ヤドリギ』の言いつけをしっかり守って男の荷物を改めていた娘に視線を移した……、が。

「……何だ、それ?」

「料理が作れそう……」

「いや、作れそうというか、どう見ても調理道具、だよな……」

 男のやたらでかい背負い袋から出てきたものは、まさしく「調理道具」としか言いようがなかった。包丁にまな板、鍋にフライパン。計量カップにスプーン、二本一組の棒――これは極東で使われている食器「箸」ではなかろうか――などなど。怪しい瓶には手を触れていない、とのことだが、この様子だと九割方調味料ではないか、と思う。蔦の一本で鞄を探って取り出してみたところ、「カレー粉」と書いてあったことからも、間違いないと確信する。

 つまり、この男は。

 こんな地下迷宮の奥底に、命の危険を冒してまでやってきて。

「料理、しようとしてたのかなあ……」

 娘の言葉に、『ヤドリギ』は全く否定する材料を持ち合わせていなかった。否定できればもう少し心安らかだったというのに。

 しかも、鞄の中に調味料はあっても食材はなかったところを見るに、どうやら「ここで採れたもので料理をする」つもりであったと考えるしかなさそうだ。この『はらわた』に生息する動植物は確かに地上のそれとは大きく異なるが、まさか、それを「食べる」ためだけにここに来たというのか。

 その時、ずっと浅い呼吸をしていた男が呻いて、痛みを感じたのか僅かに身じろぎする。未だ意識は朦朧としているようで、瞼は閉ざされたままだったが……、それでも、唇がうっすらと開かれ、こう言った。

「……ああ……それを捨てるなんてとんでもない……、もったいない……、俺が食うからよこせ、その皿全部だ……」

 目が覚めたら一発小突いてやろう。『ヤドリギ』は心に誓ったのであった。

 

 

 ともあれ、それ以来男――デリックは、傷が完治してからも、懲りることなく『ヤドリギ』の案内を頼って『獣のはらわた』にやってくる。

 一発小突いた後に、東方に代々伝わるという軽度の拷問形式たる正座で小一時間ほど説教をしたことで、一人で探索することはやめてくれらしい。まあ、岩場に小一時間正座させられれば誰でも嫌になるだろうなと『ヤドリギ』もしみじみ思う。後半のデリックが涙目だったのを『ヤドリギ』は忘れていない。話の内容より膝の無事にしか気が行っていなかっただろうなとも思っている。

 ただ、デリックは『ヤドリギ』の異形にもさほど驚くことはなかったし――ただし「その蔦食えるのか?」とは言われた――、『ヤドリギ』の少々乱暴に過ぎた治療にも文句ひとつ言わずに素直に感謝の言葉を述べ、それどころか『ヤドリギ』を含めた『はらわた』の住人に「騒がせたお詫び」として、『はらわた』の食材を使った見事な料理を振舞ってみせたものだった。自らの命を顧みず咄嗟に娘を守ろうとしたことからしても、決してその態度から悪意を感じられなかったから、『ヤドリギ』は今もデリックの『はらわた』散策に付き合っている。

 それに『ヤドリギ』がデリックを気にかけている理由はもうひとつある。

 デリックの傷の治療をした際に、『ヤドリギ』の力を使ったことによって、デリックの体にも何か異変が起こらないかと密かに心配しているのだ。何せ、『ヤドリギ』は見ての通り、自らの生命の維持と引き換えに、このような異形と化しているのだから。しかし、今のところ『ヤドリギ』のように異形化の兆候は見られない。

 果たして『ヤドリギ』のそんな危惧に気付いているのかいないのか、デリックは今日も陽気に調理道具をいっぱいに詰めた鞄を背負いなおして言う。

「ってなわけで、今日はあいつを採りに行こうと思うんだ」

「あいつ?」

「ほら、この前ちらっと見かけただろ、骨だけで泳いでる魚!」

「確かに見かけたが、食べられるところが全くないのでは?」

「わかってないなー、『ヤドリギ』は。もしかしたらいい出汁が取れるかもしれないだろ?」

 デリックの話題は今日も「食べる」こと。『ヤドリギ』はその食に対する執念に半ば呆れながらも、そのご相伴に預かれるなら悪くはないなと思いなおし、ランタンを翳して共に『はらわた』を行く。

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