②
「変なもんが来ちょるわ」
妙に曇ったある日のことだった。
彼が口に出したわけではないが、斉清の好物であるじゃがいもと玉ねぎのポタージュスープを作り、焼き目の付いたトーストと一緒に配膳したときのことだ。
突然斉清が舌打ちをして、手に持っていたスプーンをテーブルに投げた。
「斉清さん、ちょっと」
食器を投げないでください、と保が言う前に、斉清の車椅子はテーブルを離れ、玄関に向かっていく。
「待ってくださいよ」
「向こうは待たんわ」
車椅子はスロープを下り、軋んだ音を立てて外に出ていく。保は慌ててサンダルをつっかけて後を追った。
「保くん」
車輪は一切止めず、斉清は保に声をかけた。
「今から来るもんは、嘘しか吐かん。なんもかんも嘘じゃ」
「嘘……?」
「ほうじゃ。でもな、信じるなとは言わん。むしろ疑わんでくれ。相手のことも、俺のことも」
「斉清さんのことはいつも信じとりますけん……」
保が言葉を続ける前に、車輪が止まった。
何も言われなくてもすぐに分かった。
いる。
確実に、何か、よくないものが。
「こんにちは」
その声を聴いた瞬間、保の全身が跳ねた。比喩でなく、足がもつれて、その場に頽れる。
息をするのがままならない。
「
車輪の音がした。
保の額にあたたかなものが触れた。そこから安心感とか、そういったものが流れ込んできて、なんとか顔だけ上げることができる。
「あなた、お名前はなんていうんですか」
あまりにも美しい、と思った。
「き、綺麗だ」
口から自然に言葉が漏れる。
どこまでも黒い髪と目の色は、見ているだけで吸い込まれるほど——夜空に光る星のようだ。
男かもしれない。女かもしれない。目が瞑れそうだ。そういうものが、山の中に立っている。それだけで気が狂いそうだった。
「お名前は」
目の前のそれは、保に問いかけてくる。
舌が動き、名前を告げようとする。その途端、斉清が保の額を強く殴った。もんどりうって倒れこむ保の方など見もせずに斉清は言う。
「ずいぶんひどいことをする」
「関係ないがじゃろ。これは助手じゃ」
「じょしゅ?」
「興味を持つな。お前が用があるんは俺じゃろが」
美しい生き物は口を弓なりに曲げた。
「ああ、素晴らしい。噂通りですね、物部斉清」
「お前がどがいな噂聞いちゅうか知らんが、俺はたいしたもんやないがです。はよう帰ってくれんね」
ははは、とわざとらしくそれは笑った。
「それで本当に帰るとは思っていないでしょう、物部斉清」
「まあな」
斉清はふう、と溜息を吐いて、胸ポケットから煙草を取り出した。
「火ぃ」
そう言われて、慌てて保はライターを取り出す。
その間も、美しい生き物はじっとこちらを監視している。
緊張で手が震えて、うまく押せない。三度目にようやく煙草に火が灯った。
斉清は大きく吸い込んで、思い切り煙を保に吹きかけた。保はたちまち噎せて涙目になる。
「ごめんなさい斉清さん、俺……」
よほど苛つかせてしまったのだろうか、と思って謝罪しても、斉清はまた、前を——美しい生き物の方を向いている。
「そんなもの、僕には効かないのに」
僕、と言った。もしかしてこれは、男なのかもしれない。どちらでも、よいことだが。
「効かんでもやるがじゃ」
「生きていて疲れません?」
「まあな」
恐ろしい、汗一つ垂らすことさえ拒まれるような沈黙がしばらく続いた。
やがて、それが困ったように溜息を吐く。
「もう分かってくれましたよね」
そう言って、右手をすっと前に出した。彼の手から湧き出たように、一人の老人がそこにいた。元からいたのだろう。しかし、全く意識になかった。それほどまでに、それの美貌が凄まじいのだ。
老人はかなり背が高い。この生き物もかなりの長身なのに、それと同じくらいだ。老人でこれほどとは、若い時どれくらい大きかったのだろう。やはり、このような老人を全く意識しないで今までいたことが、何よりも恐ろしかった。
「物部斉清、あなたにしかできないことです」
斉清は大きく舌打ちをした。
「
「ずっと繋ぎとめる方法があると聞きました。そして、それはあなたの得意分野だって」
そう言って、老人に腕を回し、見せつけるように微笑んだ。
「この人、もうすぐ死んでしまうから」
老人はただ、それを見て、曖昧に微笑んでいる。
年齢から考えると、父親なのかもしれないが、あまり、というか、全く似ていない。背が高いところだけは似ているかもしれないが。それに、父親と息子という間柄では説明できない、何か艶っぽいものを感じる。
年の離れた恋人、男同士——色々なことを考えるが、どれもこれも、この生き物の圧倒的な美貌の前には「変」だとか「おかしい」だとか、そういった言葉は全て無意味だ。変でおかしいのは、この美貌だ。
「どうでもえいがじゃろ」
斉清は冷たく吐き捨てた。
「なんぼ死んだち、いくらでも代わりがおろうが」
「斉清さん、そがいな言い方」
普段とは全く違う、何の優しさもない態度に保は動揺した。斉清の口調がぶっきらぼうなのはいつものことだが、彼は自業自得としか言いようのない業を抱えた人間にも一定以上の慈しみを持って接しているような男なのだ。こんな斉清は見たくなかった。
「いいのですよ、じょしゅさん」
美しい生き物は花が開くように微笑んだ。それだけで心臓の鼓動が激しくなり、息ができなくなる。
「あなたたちが理解できるとは思っていないけれど……そうですね。好物ってあるでしょう。物部斉清がさっき飲んでいたスープみたいに。あなたたちはそういうものに沢山出会えて羨ましい。僕はこれ……彼しかいないから」
言葉の内容を理解するより先に、悪寒が背中を這う。
今さっき到着したこれが、なぜ保の作ったスープの話をしているのだろう。
「はっきり言わんと分からんのか。お前のお願いを聞くんが嫌じゃ言うちょるがです。お前みてえなもんと関わりとうない。お前に今すぐ消えて欲しい」
「意外と、頭が悪いんですね」
美しい生き物は一旦言葉を切ってから、もごもごと何かを唱えた。
ばき、と音がする。
落ち葉や小枝を踏む音。誰かが背後から近寄ってきたような気がして思わず振り返る。しかし、すぐに違うことが分かった。
足だった。保が選んだ黄色と黒のスニーカーを履いている。
斉清の義足の、踵から下だ。それが保の足元に転がっていた。
急いで斉清に視線を向ける。
斉清はまっすぐ生き物の方を見ていた。額から汗が一筋流れている。
嫌な予感で体が割れそうになる。
これは悪いものだ。どうしようもないものだ。
斉清が普段相手にしているものの中でも——
人間の姿をしているものはなんとかなる、と以前斉清が言っていたのを思い出す。しかし、どうだろうか。
そもそも、これは人間の姿なのだろうか。
あまりにも、目が瞑れるほど美しいこれは、人間の姿をしていると言えるのだろうか。
「まったく、高いちゅうに。また怒られるわ」
斉清は口だけで笑った。
「物部斉清、僕はあなたの名前を知っている。どうにでもできる。それでも何もしていない。理由が分かりますね」
「今足折ったじゃろが、クソ」
そう言って斉清は口にくわえた煙草を地面に吐き捨てた。保は慌てて踏み消す。
斉清が口を開いた。
「それ
美しい生き物が、それを聞いてまた微笑む。
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