必ず「とらすの子」読了後にお読みください。
芦花公園
①
この地域に小学校は一校しかなく、中学校は山を越えないと通えない。
少しでも勉強のできる子供は高知市まで出て行って、高校は進学校に通い、あっさりと地元を捨てて東京などの都会に行ってしまう。
保はそういうルートを辿った同級生たちをうらやましいとは思っていたが、嫉妬はしなかった。勉強ができたわけではないし、そもそも家業を継ぐのだと幼い頃から言い聞かされていたからだ。
竹末家の家業とは、しきくいさまのお世話をすることである。
しきくいさまとは、この地域特有のまじない師の呼称だ。しきくいさまは、冠婚葬祭といった生活を送るうえで欠かせない行事を取り仕切っている。そして何より、彼らは魔を祓う。
この近代社会において、霊媒師のたぐいはインチキと見做す人がほとんどだ。
妖怪や幽霊、呪いなどより人間が一番怖い。霊感商法も商売あがったりというところだろう。
しかししきくいさまは違う。この地域の人間は、しきくいさまを敬い、尊いものとして扱っている。ほとんど神と同じだ。
「しきくいさま」自体はもっとたくさんいるようだが、保の住む地域のしきくいさまは「物部家」だ。
物部家には現在三人のしきくいさまがいる。
物部正清、物部清江、物部斉清。
正清と清江は父娘の関係で、清江と斉清は母子の関係である。
三人ともそれぞれ世話係がいる。正清の世話係は保の父で、清江の世話係は保の叔母だった。
保が就任する前は、斉清の世話係は親戚の集まりで顔を見たことがある程度の老人がやっていたようなのだが、保はよく知らない。とにかく、高校を卒業して二年後、二十歳になってすぐ、保は斉清に引き合わされることになった。
「細かいことはおいおい教えるけん、とりあえずご挨拶だけしててこいや。くれぐれも、失礼のないようにな」
急に畏まってそんなことを言う父に、保は反発した。
「失礼も何も、タメの奴じゃろ。なんで俺がそんなに気を遣わなならんのじゃ」
斉清のことは小さい頃から知っていた。なにせ、小学校、中学校と同級生だ。とは言っても、斉清は家業を理由にほとんど登校してこなかったから、単に知っているだけだ。
あとは、祭事のとき、遠くから見たくらいか。普段は人の気配がないこの土地に観光客が訪れ、その日だけは賑わう。観光客たちは無言で斉清の写真を撮っていた。彼の正装なのか、純白の衣を着て花笠を被った彼は、確かに息を呑むような神々しさだった。
しかし、保はそれを客寄せパンダくらいにしか思えなかった。
『斉清さんは物部家始まって以来の傑作だ』
『斉清さんに頼っておけば間違いはない』
大人たちがこういったことを言うのは何度も聞いた。斉清が様々な超常現象を解決したというエピソードはいくつも知っているし、実際、助けてもらったという同級生もいた。学校の教師も彼には一目置いている様子だったし、警察関係者と話しているのも見たことがあった。
大人たちは皆、斉清を「斉清さん」と呼ぶ。
だが、保はいまいち信じきれないでいた。経験したことがないからだ。「斉清さん」のスーパーパワーのお世話になったことはない。見えないものは信じることができない。
地元民でも滅多に立ち入らない山に分け入って、数十分ほど道なき道を進むと、ぽつぽつと民家が点在している。物部家はずっとここに暮らしているのだ。
父に教えられた地図を見ながら、保は斉清の使っている家とやらに辿り着いた。
けば立った引き戸を二回ノックしてから、当然鍵など掛かっていないそれを引く。
「ごめんください、斉清さんは」
「ああ、保くん。久しぶりじゃね」
言おうとしていた挨拶の言葉が一瞬で保の頭から抜けて行った。
口をぱくぱくとさせる保を見て、斉清は微笑んだ。
「驚かせてすまんなあ、えろう早く来てくれたち、準備が間に合わんかった。これでも、だいぶ、見られるようになったんじゃけど」
両手両足——腕は肘から先、足は膝から先。それがそっくり、銀色の無機質なものに置き換わっている。
斉清はよいしょ、と声を出してふらふらと立ち上がった。思わず手を伸ばす。細身だ。引き締まっているのとは違う。ただ栄養を吸い取られたような体。
斉清はすぐに保の手を離れて、置いてあった木製の椅子に腰かけた。
「すまんけど、それ、取って」
斉清の無機質な銀の指が指した方に、布が落ちている。拾い上げると大きなサイズの白いTシャツだった。
「見苦しいもん見せてしまって、すまんなあ」
斉清は保から受け取ったTシャツに腕を通しながら言った。
「いや……」
保が何を言っていいか分からず迷っている間に、斉清は言葉を続けた。
「できるだけ自分のことは自分でやるけんど、体がこうやき、色々世話んなると思います。よろしく」
そう言って頭を下げる斉清に、保も慌てて頭を下げた。
どんな言葉を交わしたのか全く覚えていない。とにかくその日は何もせず、そのまま帰宅した。
「なんであいつ」
「『あいつ』ち言うな」
帰宅した父に尋ねると、父は厳しい口調で保を叱責した。
「斉清さんには敬意を払えや」
「ほじゃけ、あいつ——斉清さんは、同級生なんじゃって。俺にとっては。それよりさ、手ぇと足ないのに、なんで動けるんじゃろ。義足とかってあんなに技術進歩しちょったっけ」
父は大きく溜息を吐いてから説明した。
数年前、大きなお祓いをしたときに、失敗して、手足を捥がれてしまったこと。一時は生死も危ぶまれるような状況であったこと。彼が動けているのは、彼の力によるものだということ。
保が黙っていると、
「信じろとは言わん。でも、斉清さんはここんためにえろう頑張ってくれちょる、それだけは覚えとけ。舐めた口利くな」
保は返事をしなかった。
斉清が愛媛の幽霊屋敷にお祓いに出かけ、失敗したというのは地元では有名な話だ。その幽霊屋敷は今やネットでも有名な場所になっている。しかし、その家は現在区画ごと封鎖されているし、それは見通しの悪い道路で人身事故が頻発したこと、それと野犬の群れが野放しになっていることが理由だ。地元の新聞でも取り上げられていた。つまり斉清は事故に遭っただけなのだ。
保はただ、世間話として義足の話を振っただけなのに。竹末家は仕事柄、オカルト的な話を信じなくてはいけない空気がある。物部家の世話係だからだ。自分もいずれこのように自分の息子や娘に説教しなくてはいけないかと思うと、保はなんとなくやるせない気持ちになった。
不貞腐れる保を見て、父は困ったような表情で敬意を払え、と繰り返した。
今になって思えば父の表情の意味も分かる。保はまったく愚かだった。
斉清のことをきちんと知っていたら、あんなことは口が裂けても言えなかった。
次の日からは、今まで考えたこともない、見たことも聞いたこともないことの連続だった。斉清の元にはひっきりなしに人が訪れた。
占いに縋る哀れな人間を見るような、少し馬鹿にした気持ちでいられたのはほんの数時間だけだ。
斉清は何度も何度も、奇跡としか言いようのないことを保の目の前でやってのけた。
一週間も経つ頃には、保は世の中には常識や理性の範疇の外側にあるものが多くあることをすっかり信じていた。それに、地元の人間たちが、彼を敬愛している理由も、嫌というほど分かった。
交通事故などではない。本当に彼は、小さな女の子を守るために、こんな体になったのだ。
斉清は仕事が終わると、粗末な小屋にしか見えない彼の部屋に戻って、倒れこんで唸る。
「大丈夫ですか」
「大丈夫ではないよ」
駆け寄ると、弱々しく微笑んで、また地べたに突っ伏してしまう。
保は父に指示されたとおり、彼の体に痛み止めの湿布を貼った。彼の肌はぞっとするほど冷たくて、乾いている。
「ありがとう」
小さな声でそう言う彼を見ると、なんだか泣きたいような気持になる。
「湿布なんぞ気休めじゃ」
父はそう言っていた。
「あんなことしちょったら
斉清はしばらく唸ったあと、気絶するように——いや、実際、気絶しているのだろう。眠ってしまう。
保は斉清の体を抱き上げ、布団に入れた後、徐々に腹が立ってくる。
彼の人生を一体、なんだと思っているのだろう。
斉清は保と同じ、二十歳の若者だ。こんな山奥など、発狂しそうなほど退屈に決まっている。保とてそれは同じだが、保には車もあり、遠くに行くことだってできる。
それに、斉清は容姿がいい。観光客がこぞって写真を撮っていたその美貌は、枯れ枝のような体格になっていてもまだ健在だ。この容姿ならいくらでも女と付き合えるだろう。しかし、彼には決まった相手が用意されていて、その自由さえない。
保ができるのは彼の送迎と身の回りの世話だけで、彼が「大仕事」と呼ぶ危険な仕事には同行したことはない。つまり、保が休んでいるときも、彼はずっと絶え間なく、悍ましいものや恐ろしいものの相手をしているのだ。
それが終われば怪我の後遺症に苦しんで、気絶するように眠る。
仕事の依頼人はほとんどがきちんとお礼を言って報酬を払い、笑顔で帰って行くが、それが彼の何の足しになるだろう。金など貰っても、斉清に使う暇はない。依頼人の笑顔なんて、金以上に何の役にも立たない。
「何か欲しいものないですか。俺、買ってきますけん」
一度、そう聞いたことがある。
斉清は、
「今日ジジイんとこに寄るがじゃろ。
保は、百貨店まで車を飛ばして、贈答用の文旦を買い込んだ。
そして決意した。斉清はこの先もずっと、こういう無理をするのだろう。きっと保はそれを止めることはできない。保にできるのは、彼の生活を少しでも豊かにすることだけだ。
「おかん、料理教えてや」
母にそう言うと、普段は余計なことばかり言うのに、何も言わずに協力してくれた。最初は失敗ばかりだったが、練習量に比例して、保は徐々に色々なものが作れるようになった。
食事だけではない。
斉清はいつも大きなサイズの白いシャツを着回している。
「どうせないし」などと言って、ズボンさえ着用しないこともしばしばだ。
「斉清さんは顔がいけちょるき、そんな恰好しちょったらいかんですよ」
そう言うと、
「ほんな気を遣わなくてもえいが」
「俺がやりたいんです。俺が世話しちょるんじゃから、えいがでしょ」
「えいけど……」
斉清は照れたように俯いた。
今は、ネットには美容師が髪の切り方を指導している動画もある。保は見様見真似で斉清の髪を短く切った。
「お前を世話係にしたんは間違いではなかったな」
父はある日、唐突にそう言った。
父は驚いたことに、優しい笑顔を浮かべていた。ごく幼い頃の遠い記憶にしかない柔らかな笑顔で、思わず保の涙腺が緩む。
「斉清さん、普通の人にしか見えんもんねえ」
母もそう言った。
斉清は、確かに出会った頃より格段に普通に見える。
最初は果物くらいしか口にしなかったが、徐々に食の好みも見えてきて、意外にも洋食だとよく食べた。枯れ枝のような細い体にはほんの少し肉がついてきたし、肌にも赤みがさしている。
服装は保が選んだものを着ているのに、保よりもずっと着こなしているから、少し悔しいとさえ思ってしまう。
「斉清さんは同級生やち言うたが。普通の人よ」
保がそう言うと、父は保の肩をぽんぽんと叩いた。
それでも——
それでも、彼の生活は変わらない。
毎日床に蹲って藻掻き苦しみ、気絶したように眠る。
少しだけ、ましになっただけなのだ。
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