《読切①》コズミックラテ

菜々丘たま(旧:青丘珠緒)

【読切】

 ──そのコア、大事にしてね──


 そう言った彼女の声が、いつまで経っても忘れられなかった。

 

           *

           

 重く鈍い音を立てて風を切りながら、新幹線がトンネルに進入した。

 淡いベージュの髪をワックスで執拗なまでに固めた日向ひゅうが太陽は、小刻みに震えながら真っ暗になった車窓を眺めていた。


(ついに……ついにこの日がやってきた!)


 彼はスーツを着た、というよりスーツに着られているような印象の小柄な青年だった。歳は二十三というが見た目はほとんど少年である。落ち着かない様子で、車両前方の扉の上にある電光掲示板の右から左に流れていく文字列を凝視していた。


『二階堂直人衆議院議員に汚職疑惑 官僚らも加担か』


 二階堂直人といえば、誠実で物腰柔らかな印象の若手エリートとして有名な議員だ。政治に疎い太陽でさえ「なんとなくいい人だなぁ」程度には認知していたほどである。そんな彼に持ち上がった汚職事件は、世間から凄まじい反発を買ったらしい。皆が大きな信頼を寄せていた反動か、その信頼が裏切られたと感じた時の世間の怒りは相当なものになったようだ。

 そのニュースの文字列が消え去ると、「次は 東京」という文字が電光掲示板に表示された。

 車内アナウンスがなされ、彼は荷物をまとめて席を立つ。


(憧れの核保委員になれて、しかも東京に配属! ずっと見たかった東京の夜景も見れるだろうし、ワクワクが止まらない! 東京の都会美人にそこで告白して、結婚しちゃったりして!)


 スーツケースを引きながら踊るように歩く彼の手のひらで、澄んだコズミックラテのコアが輝いていた。

 

           *

           

「うおー……でっけー!」


 太陽がやってきたのは、「コア保護委員会」──通称「核保かくほ」の本部のビルである。天を摩する漆黒のスカイスクレーパーの姿は彼の少年心を大いにくすぐった。

 事前に配布されていたカードキーで鉄扉を開き、建物内に進入する。黒の大理石で造られた壁や天井と、白のそれで造られた床は手入れが行き届いていて、天井のゴージャスなシャンデリアの光を受けて照り映えていた。エレベーターホールまで続く通路には深紅のカーペットが敷かれている。それを進み、エレベーターに乗り込んで、最上階の八十七階で降りると、目の前に厳かな木製の門扉が現れた。その前には二人の警備員が立っている。


「あの、核保入会試験に合格しました、日向太陽ですッ!」


 彼が叫ぶと、警備員は顔色一つ変えずに「カードキーと会員証明証を」と言ってきた。それらを見せ、中に通してもらう。

 開かれた門扉の先には、見るからに強そうな体格のいい中年男性と、その秘書と思しきスタイルのいい女性がいた。


「日向太陽君だね。そこに座りたまえ」


 男性に促され、太陽は彼が指差す椅子に座った。


「まずは合格おめでとう。司法試験をも超える超難関試験と言われる、核保入会試験に合格して仲間となった君に、我々は最大限の敬意を表す」


 ありがとうございます、と太陽は一礼する。男性は小さく頷き、言葉を継いだ。


「じゃあ次は挨拶といこうじゃないか。私はコア保護委員会会長、黒羽弥太郎だ」


 そう言って、黒羽は自分の手のひらを太陽に向かって見せた。


(会長……⁉︎ まさか、本当にこんなすごい人に会えるなんて! 顔すら公表されてないのに! 死ぬほど辛かったけど、今日まで必死に頑張ってきてよかった……!)


 太陽は興奮を抑えながら黒羽に向かって自らの手のひらを見せる。

 この世界では、互いの手のひらを──厳密には、それに埋まっているコアというものを──見せ合うのが挨拶だ。


「む、君の核……」


 黒羽は心なしか渋い顔をして呟いた。


「あ……」


 幾度となく投げかけられたことがあるその言葉に、太陽は少し鼻白んだようになる。


「僕の核、なんか変なんですよね。みんな赤、青、緑なのに、なんでだろう。怒ったやつの核が変色してるのは見たことがあるんですが、それとも違う」


 「……コズミックラテ」


 黒羽は小さく呟き、険しい顔をした。けれどすぐに「気にしないでくれ」と、怪訝な顔をした太陽に優しく微笑みかけた。


「怒った友人の核が変色した、というのは、心の純粋さを失ったからだろうな。誰しもの手のひらにある核は、心の純粋さが失われたりするとどんどん色がくすんでいくし、持ち主が人格崩壊や生命活動維持の危機に瀕するとひび割れ、完全に割れると消失する。──そしてその人間は死に至る」


「そうならないように人々を守るのが、我々の使命……!」


 太陽がそう言うと、黒羽は「よくわかっているな」とにっこり笑った。


「そんな君には期待しているよ。今日から頑張りたまえ。本題の配属部署だが──」


 期待しているよ。頑張りたまえ。

 憧れの舞台である核保委員のトップ直々の激励に、太陽は天にも昇るような気持ちになる。

 彼は夢見心地で配属部署の拠点に向かった。

 

            *

            

 下北沢の中層ビルの影に、それはある。

 下北沢360──それが太陽が配属された部署の名前だった。その拠点は廃業したライブハウスだ。ビル裏の階段を下り、防音仕様の扉を開く。室内は、ステージ上の照明が少しついているだけで、とても暗い。人影が見当たらなかったので、出演者控室の扉を開くと、そこに三人のメンバーがいた。


「あっいた。よろしくお願いしますッ‼︎ 今日からこの部署に配属されました、日向太陽で──」


「うるせぇ‼︎ 騒ぐなクソガキ! そんなに騒がなくても資料を見て知っている」


 突然罵声を浴びせられ、太陽は当惑する。

 罵声の主はこの部署のリーダー、黒田健夫だった。精悍な顔つきの長身痩躯な彼は、レザージャケットを格好良く着做きなしている。歳は三十代半ばくらいだろうか。若さと色気を併せ持っている。


「な、なんかごめんねぇ……!」


 場を和ませようとしてか明るい声で話しかけてきたのは、猫田えみという女性だった。名は体を表すという言葉を体現するような風貌だ。猫のように柔軟そうでしなやかな体と、いつも笑っていそうな和やかな顔が特徴的である。

 もう一人のメンバーは、久保高都という名の無口な青年だ。尖った短髪ゆえに一見怖い見た目だが、よく見ると案外優しげな目つきをしている。


「あ、えと、挨拶! 挨拶!」


 猫田がそう言って手のひらを見せてきた。

 太陽は彼女と同様に手のひらを晒す。


「コズミックラテ……」

 そう呟いたのは猫田だ。その瞬間、一気に部屋の空気が重たくなったように感じられた。

 太陽が困惑していると、冷たい口調で黒田が言い放った。


「──せいぜい生き延びられるようにあがくんだな、ガキ」 


 太陽は今にも泣き出しそうだった。必死で難関試験を突破してきたことによる矜持と、夢にまで見た憧憬の舞台でのこれからのイメージと希望が、音を立てて崩れ去る感じがした。胸を抉り取られるような遣る瀬なさに襲われる。


(なんなんだよ……)


 核保委員って、こんなやつばっかりなのか?

 俺の憧れだったあの人は──

 ジリリリリ! と火災報知機が作動するような警報音が鳴り響いた。


「……おいガキ、初任務だ。ついてこい」


 黒田にそう呼びかけられ、思わず「誰があんたなんかに!」と叫んでしまう。


「……チッ。クソガキが。ノロノロしてると殺されるぞ」


「あだだだだだだだ」


 黒田は髪の毛を引っ張って無理矢理太陽を外に連れ出した。


 ──こんなはずじゃ……。


 太陽はいよいよ半べそをかきはじめた。

 

           *

           

「保護対象者は、東京都渋谷区富ヶ谷に住む中学生、二階堂菜緒。レーダーの様子から考えると自宅で何者かに監禁されているのだろう。必要とあらば戦闘も厭わないが、試験が終わったからといって体が鈍ったりしていないだろうな」


 黒田はハンドルを握りながら淡々と任務の概要を説明する。最後にカチンとくる言葉を添えられたので、太陽はムキになって「おっさんのアンタよりかは動けますよ」と言ってしまう。


「……クソガキが」


 車内が険悪なムードに包まれる中、車は目的の家屋に到着した。

 黒田はまず玄関に向かい、インターホンを押す。案の定返事はない。

 次の瞬間──


「えっ、」


 黒田は玄関扉を片足で蹴破った。

 彼は太陽に背中を向けたまま、振り向くように顔だけを太陽の方に向けて言う。


「保護対象者の命が最優先だ。ドアの弁償なら経費で落ちる」


 ようやく核保らしいシーンを見ることができて太陽は嬉しく思ったが、いま命の危機に瀕している少女がいる中で不謹慎であることと、まだ黒田を認めたわけはないという意地から、その小さな喜びをかぶりを振って振り払う。

 上り框の先には通路があり、その右手には二階へと続く階段、左手には洗面所へと続く扉があった。ナチュラルスタイルの落ち着いた家だ。


「……さて」


 黒田が突然身を翻す。

 そして瞬時に手に持っていた小銃で発砲した。

 銃弾が向かってくる。

 そしてそれが太陽の耳をかすめる。

 彼の耳から血が飛んだ。

 肝を冷やしながら、太陽は叫ぶ。


「危なっ、なにすんだよおっさん!」


「──馬鹿野郎! 背後に注意って勉強しなかったのか⁉︎」


 太陽が振り返ろうとした瞬間、とんでもない数の銃声が聞こえてきた。洗面所に逃げ込み、なんとか難を逃れる。扉の陰から見てみると、玄関の向こう側──家の外の方である──に五人の銃を構えた男がいた。数としてはもう一人いたが、その人は黒田の銃弾が命中して倒れていた。


「核保の存在を知る人間は今となっては少なくない。待ち伏せしてくる連中もざらにいる。警戒しないと簡単に殺されるぞ。本来なら洗面所に誰かいる可能性も考慮しなくてはならんが、仕方ない」


「ど、どうするんすか」


 黒田は何も言わずに太陽を後ろに退かせた。

 任せろ──そう語るような背中を太陽に向け、物陰から一発発砲するごとに一人的確に倒していく。五人全員を倒し、玄関側の安全を確保した黒田は通路を進みリビングの方に向かった。太陽はその背中についていく。リビングには誰もいなかったので、今度は慎重に後退し、次に階段を上る。中二階に位置する踊り場に出ると、頭上から発砲された。黒田と太陽はそれをなんとか躱す。敵がもう一度発砲しに顔を覗かせるタイミングを見計らって、黒田が発砲し返す。見事命中し、二階の安全も確保できた。

 二階には部屋が三つあった。それぞれ保護対象の中学生二階堂奈緒、その父親、母親の部屋だろう。

 彼女の両親のものと思しき部屋には誰もいなかったので、一番奥まったところにある二階堂奈緒の部屋へと向かう。黒田が扉を開くと──


「伏せろッ‼︎」


 銃弾が飛んできた。間一髪で太陽はそれを躱す。黒田の方を見ると、もう敵を始末し終えていた。

 二人は連れ立って二階堂奈緒の部屋に入る。


「んー! んー!」


 奈緒は手足を縄で縛られ、口をテープで塞がれていた。


「待ってて! 今助けるから!」


 太陽は彼女の口に貼り付けられているテープを剥がそうとする。


「んん! んんん!」

 彼女は痛みをこらえているのか、顔を歪ませた。テープを剥がし終え、次に縄を解こうとすると、奈緒がものすごい剣幕で言ってきた。


「ねぇ、お父さんを守って!」


 太陽は怪訝な声で「どういうこと?」と尋ねる。


「説明なんてしてられない! とにかく、お父さんを守って!」


 状況はよく分からないが、太陽が無線で応援要請をしようとすると、


「──ダメだ」黒田が制止した。


「なんでですか!」「なんでよ!」太陽と奈緒の二人が同時に叫ぶ。


「その娘の父親は政治家だろう。官僚とともに悪事を働いていたというウワサの」


 それを聞いて太陽ははっとした。朝方に新幹線で見た電光掲示板のニュースを思い出す。


 ──二階堂直人衆議院議員に汚職疑惑 官僚らも加担か──


(そういえば、この子の名前は二階堂奈緒ちゃん……)


「違う! お父さんは悪事なんかしてない! 本当なの! なのに……」


 奈緒は喚きながら顔を伏せた。しかし黒田は顔色を変えない。


「しかもその官僚は大臣クラスというじゃないか」


「だからッ! お父さんは何もしてない! なんで分かってくれないのッ」


 絶叫するような金切り声で奈緒は言った。

「ねぇお願い、お願い、本当にお願い……お父さんを守って。このままじゃお父さん、殺されちゃう。何にも悪くないのに、死人に口なしで、全部の罪を負わされた上で、殺されちゃう……。私はお父さんに罪を背負わせるための交渉材料だって、家に乗り込んできた連中が言ってた」


 それでも黒田は断固として「ダメだ」という。


「……官僚に手を出すと色々面倒なことになる。それに、コイツの父親の核の危機は検知されていないから、ソイツを守るのは俺たちの仕事じゃない」


 奈緒の顔から血の気が引いていった。


「ねぇ……なんで? 核保の人って……助けてくれるんじゃないの? ねぇ、ねぇってば。ねぇなんで……? なんでなのよ……なんでッ!」


 太陽は奈緒に絶望に満ちた目を向けられる。見ると、彼女の核は随分黒ずんでいた。猜疑心や不信感に由来する核の変色だ。


 ──そのコア、大事にしてね──


 その言葉が、彼の脳裡をよぎった。


(……そうだ。俺たちが守るべきは苦しんでいる人の核。守るどころか、不信感を抱かせて苦しめるなんて、やっぱりこのおっさんは核保に相応しくない!)


「ふざけんなよおっさん!」


 叫びながら、太陽は胸ぐらを掴んで黒田を壁に押しやった。

 黒田はまだ涼しい顔をしている。


「……情に流されるな。いつでも合理的な選択をしろ。たくさんの試験勉強や特訓を積んできたなら分かるだろう」


「分かんねェよッ! 俺がここまで頑張ってこれたのは、核保の人に助けてもらったからだ! その人に憧れたからだ! 俺にとって核保は憧れの存在だった! お前みたいなクズがいていい組織じゃないんだ!」


「黙りやがれクソガキ!」


 黒田が、今までで一番の大きな声を発した。


「……死にたくなければ、余計なことに足を突っ込むな」


 少女の慟哭を背に、黒田は部屋を後にした。


「許さない……許さない……恨む、恨んでやる、呪ってやる」


 少女は唸るようにそう言い続けている。


「──俺に任せて」


 太陽は、少女の肩を掴んで言った。彼女がどんな顔をしているのかは分からない。だが、


「必ず、君のお父さんを守ってみせる」

 

           *

           

 下北沢360に電話をかけると、猫田が出た。


『はい、核保護委員会です』


「猫田さんですか? 日向です。二階堂直人さんという政治家の現在地を調べてほしいんですけど」


 レーダー技術の進歩によって、今や全ての人間の現在地を特定することができるが、それは原則として禁止されている。核保委員の申請があって初めてそれは可能になるのだ。


『日向くんですか。事情を伺っても?』


「先ほどの任務で救済した女の子が、父親が命を狙われていると物凄い剣幕で言ってきて……」


『二階堂直人さん……。政治家ですか。朝、汚職疑惑がテレビで報じられてましたね』


 次に彼女が続けた言葉を聞いて、太陽は怒りのあまり携帯電話を投げ捨てた。


 ──政治家相手なら、教えるわけにはいきません──。


(ふざけんな。なんだこの部署! そんなに自分の身が可愛いか!)


 彼の隣で膝を抱えて項垂れている奈緒は「もういいです」とこぼした。


「よくないよ。ねぇ、なんか聞いてない? 家に押し入ってきた連中が地名っぽいこと言ってたりすんの」


 奈緒はしばらく首を垂れて、「そういえば」と言った。


「なんか、『こっちでよかったよなぁ、向こうの班だったら死ぬほど臭い思いするとこだった』とか言ってた気が。こっちってのは、多分私の家のことだと思います」


「臭い思い。下水道……?」


「あぁ、なんかそれっぽいこと言ってたかも。でもそれだけじゃ……」

 

 俯いて黙ってしまった奈緒に対し、太陽はまだ質問を続ける。


「じゃあ、お父さんは? なんか今日のお父さんについて知ってることない?」


「……お父さんが出勤しようと玄関の扉を開けたら怖い人たちがおうちに入ってきて。その後すぐに拘束されちゃったからそれ以降のことは知らないです」

「そっかぁ」


 太陽は顎に手をやり、思索にふける。


「あ、そういえばさっき、『私はお父さんに罪を負わせるための交渉材料』だって連中が言ってた、って奈緒ちゃんは言ったよね」


「はい」


「そう考えると、敵はまだ君のお父さんに手出しできないと思うんだ。それに交渉をするつもりなら、この家に押し入ってきたやつはお父さんを狙ってる人との連絡手段を持ってるだろうし、それを利用して君のお父さんを救出できるかもしれない」


 太陽はそう言って奈緒の部屋を後にする。退室した後でもう一度扉を開き、「奈緒ちゃんはここで待ってて。ちょっと刺激が強いもの見ちゃうかもしれないから」と声をかけた。奈緒は小さく頷いた。

 太陽はいくつかある遺体をくまなく検める。すると、そのうちの一人の携帯に着信が入った。それを手に取ると、『Z』という名の相手から電話がかかってきていた。


「もしもし」


 太陽が電話に出る。

 電話口の相手は訝しげに『貴様……誰だ』と問うてきた。どうやら仲間でないことはバレたらしい。ならば、こちらからプレッシャーをかける。


「──核保護委員会だ。二階堂直人さんを解放しろ。さもなくば、」


『ほう。……核保。黙って逆探知すればいいものを。頭が悪いのか、できない事情があるのか』


 図星を突かれ、太陽は黙り込む。逆探知は各部隊の拠点か本部の摩天楼でしか行えない。

 しばらくの沈黙ののちに、電話口の相手はこう言ってきた。


『貴様一人でここにくるならば交渉をしてやろう。こちらも二階堂君が罪を被ろうとしないから困っていたのだ。ただし妙な動きや、複数人で来るような兆候が見られた場合には、彼を即時殺害する。場所は──』


 相手が指定した場所は、東京都と埼玉県の境に位置する下水道だった。明らかな罠だと分かっていたし、敵が約束を守る保証などどこにもないが、太陽はそこに行こうと決めた。


 腐りきった下北沢360へのアンチテーゼとして、権力に負けずに苦しんでいる人を救うのだ。

 

           *

 

 薄暗い下水道は汚水から発生するガスの匂いが充満して凄まじく臭い。そんな場所で、内閣総理大臣の財前君麿と環境大臣の藤倉俊雄は、ロープで束縛された二階堂直人を眺めて笑っている。


「立場上、本来ならば環境に配慮しなくてはならんが、仕方あるまい」


 薬品が入った瓶を片手に藤倉が言った。


「そのようなこと、マスコミの前では決して言うんじゃないぞ」


 そう笑いながら返すのは財前だ。


「さぁ二階堂君、実験を始めようか。交渉すると伝えた手前、あの核保委員を騙すのは気がひけるが──こんな暗くて臭い下水道に我々も長居したくないのだ。君が罪を被ってくれないなら、こうするしかあるまい」


 藤倉が言うと、「やめてくれ……」と二階堂は戦慄する。

 環境大臣の藤倉はもともと化学者であった。その頃の装い──白衣とゴーグル姿だ──を身に纏っている。


「苛性ソーダで、人体はどれくらい溶けるのか! 二階堂君。君は、私たちの政党から立候補して当選した身でありながら、我々の批判ばかりする。最後くらい役に立ってくれよ。我々の汚職をすべて背負い、肉体もろとも溶けて消え去ってくれ」


 どこかから持ち運ばれてきた水槽に放り込まれ、二階堂は首をぶんぶん振って喚く。


「や、やめてくれ‼︎ うわぁああああ‼︎」


 水槽に水が溜められていく。

 藤倉は薬品が入った瓶の蓋を外し、高らかに笑いながら言う。


「さぁて、あとはこれを」


「やめ──」


 その瞬間、

 

「やめろ──────────ッ!」

 

 太陽が叫びながら登場し、薬品を持っている藤倉を打擲ちょうちゃくした。

 まだ蓋が開けられていない薬品は吹っ飛び、瓶のまま下水に流されていった。


「はぁ……はぁ……間に合った」


 太陽は肩で息をしている。「俺が着く前に殺そうとするなんて、卑怯だぞ! 約束通り一人で来たのに」


「……ハハハ。やはり頭が足りない。誰が馬鹿正直に約束を遵行じゅんこうするか! そんなことをするのは、貴様のような本物のバカだけだ! 私が君をここに呼んだのは──。……おい藤倉君、君は苛性ソーダの回収に向かいたまえ。二階堂君との交渉が決裂したとき、あれで骨ごと溶かして死体の存在すら消し去る作戦だっただろう。私はこの小僧を捕らえる」


 そう言う財前を太陽はめつける。

 藤倉は「御意」と言いながらその場を離れた。


「やれるもんならやってみろ。俺は核保だ。腐れ外道になんか負けない」


 財前と太陽の二人は取っ組み合いになった。


「私は長いこと柔道をしていてね。戦闘訓練を積んだ核保委員といっても、ケツの青い小僧風情には負けんさ」


「うるせェ! 無駄口叩く余裕もなくなるくらいボコボコにしてやる!」


 二人は互いを突き放し、半身の体勢になる。


「オラァっ」

 太陽のパンチが財前の耳を掠めたかと思えば、財前の大内刈からの大外刈の連絡技が炸裂する。太陽はなんとか起き上がろうとするが、その前に袈裟固けさがためを喰らった。


(なんだコレ……動けねぇ。試験対策でやった戦闘訓練の比じゃない強さだ……)


「くそ……」


 苦悶する太陽を見ながら、財前は余裕の笑みを浮かべている。ちょうどその時、苛性ソーダを回収した藤倉が戻ってきた。


「財前さん。彼にものだろう?」


「もちろん。そのためにわざわざこんな場所にお越しいただいたのだから。この小僧は私の固め技から逃れられないようだし、固めている間に縄で縛ってくれ。面倒だから二階堂君と一緒にしまおう」


 財前に固められたまま、太陽はなす術もなく藤倉に束縛される。そして身動きを取れないまま二階堂が浸っている水槽の中に放り込まれた。


「すみません……私のせいで」


 そう謝る二階堂を一瞥し、太陽は知恵を絞る。


(……このままじゃ殺される。せっかく核保委員になったのに。何か、何かないか)


 藤倉に薬品の調合を任せ、財前が水槽の方に近づいてきた。

 太陽は自分の鼓動がどんどん速くなるのを感じる。


「口ほどにもなかったな、小僧。この際はっきりさせておこう。君は正義だ」


「……」


「そして私は悪だ。世間では正義は必ず勝つとよく言うが、果たして本当にそうだろうか? よく考えてみろ。正義には制限が付随する。制限を強いられる正義と、失うものがない悪──正義が勝つ可能性など、万に一つもないと思わないか? 今日のことがそれをよく物語っている」


 薬品の調合を終えたらしい藤倉が薬品入りの瓶を片手に水槽の方に来た。


「よし、準備はいいな藤倉君。二階堂君には地獄まで私たちの汚職を持って行ってもらおう。流石に警察や厄介なメディアもそこまでは辿り着けまい。核保委員の小僧も、何か知っている可能性があるから一緒に死んでもらう」


 そう語る財前の隣で、藤倉が薬品の蓋を開ける。

 もうダメなのか。


「やめろ─────!」


 隣では二階堂が叫びながら怯えて戦慄している。

 人間というのはここまで震えられるものなのかと思うほど。


「うわああああああああ!」


 二階堂の絶叫が耳をつんざく。

 その隣で、太陽は必死で恐怖心を殺しながら知恵を絞り続ける。


(クッ……何かないのか、)


「──クソッ‼︎ 何か思い付けよ‼︎ なんであんなに勉強したのに俺はバカなんだよ‼︎」


 いよいよ薬品が水槽に注がれそうだ。


(もうだめなのか……?)


 ──その核、大事にしてね──


 その言葉をかけてくれた命の恩人に彼は心の声で謝る。

 せっかく助けてもらったのに、ごめんなさい。

 名前も知らない、俺の憧れの、核保委員の人。

 その時、




 ──クソガキ!




 突然、脳裡を黒田の声がよぎった気がした。


 ──せいぜい生き延びれるようにあがくんだな、ガキ。


 ──チッ。クソガキが。ノロノロしてると殺されるぞ。


 ──官僚に手を出すと色々面倒なことになる。


 ──情に流されるな。いつでも合理的な選択をしろ。


 黒田は何一つ間違っていなかった。太陽は自分のちっぽけな正義感のために、彼の言葉を何一つ真剣に聞こうとしなかった。その結果がこれだ。今更後悔しても遅い。教訓を伝える相手だって、失うものがない悪人と、これから死ぬ男しかいない。この虚しさの中で、死ぬしかないのだ。

 藤倉の持つ瓶が傾けられる。

 恐怖で太陽は目を瞑る。

 そして、

 

 ──何やってんだ、ノロマ。

 

 黒田の声が、

 耳朶を打ったような気がした。

 次に太陽が知覚したのは、瓶が床に落ちて割れる音だった。


「……ったく、これだからコズミックラテは」


 黒田の声が聞こえる。


(なんだこれ、幻聴か……?)


 太陽が顔を上げて目を開くと、



 

 そこに黒田がいた。



 

「……あぁあ、ぐあっ」


 呻いているのは、薬品を浴びたのか、グロテスクな姿で地に伏している財前と藤倉だ。


 しかし黒田も様子がおかしい。


「……クソ」


「おっさん……?」


 黒田は答えない。


「おっさん、どうしたんだよ」


 黒田はまだ押し黙っている。

 しばらくして、彼は観念したように口を開いた。


「あぁー……」


 もう、ダメだな。


 そう言って黒田は倒れる。

 彼が地面に倒れ込むまでの時間の流れが、映像をスロー再生したように遅く感じられた。

 その時にチラリと見えた彼の体の前面は惨憺たるものだった。皮膚は焼きただれ、内臓が見えている。

 お前は──

 そう言っているように見える口の動きをして、黒田はついに地に伏した。

 脈は確認するまでもない。

 生きているはずがない。

 どうして。

 どうしてここにおっさんが。

 どうしておっさんが倒れてる。

 どうしておっさんは死んだ。

 どうしておっさんは──


「俺を庇った……?」


 疑問符ばかりが湧いてくる。答えが出る兆しはない。

 太陽は思い出したように自分と二階堂の縄を解く。

 財前と藤倉はとっくにこと切れていた。

 

           *

 

 二階堂を家まで送り届けた太陽は、放心状態で下北沢360の拠点に戻った。

 ツンツン頭の久保が、「あれ? 黒田リーダーは?」と訊いてくる。


「……。死にました」


 そう言うと、「は?」と返ってくるだろうという予想に反して、「……そっか」という返事が返ってきた。


「……黒田さんは、俺を庇って、死にました」


 その言葉を発した瞬間、下水道にいた時に生じた疑問が再び一斉に湧き上がってきた。


 どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。

 どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。

 どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。


 気付いたら、拠点の風景が滲んで見えた。

 新たな疑問が湧いてくる。

 どうして俺は泣いてる? あんなクズの、大嫌いなおっさんが死んで、どうして俺は泣いてる?

 居た堪れなくなって、拠点を飛び出す。拠点に隣接する螺旋階段を登り、ビルの屋上に出る。転落防止用の柵に腕を置き、すずろに夜景を見た。

 ずっと見たかった夜景は綺麗だ。だがどこか虚しい。それは自分の心を投影してるように思われ、頭がごちゃごちゃになった太陽は声を上げて泣いた。

 

──ずっと見たかった東京の夜景も見れるし、ワクワクが止まらない! 東京の都会美人にそこで告白して、結婚しちゃったりして!


 そんなことを言っていた過去の自分を殴りたくなる。

 数々の疑問符は答えの出ない謎として彼の頭をついばむ。しかし、


 ──俺のせいで死んだ。


 その罪悪感だけは、確かな実体を持って、太陽の心を蝕んでいた。


(……俺のせいで)


「日向くん」


「うわっ」


 知らないうちに、猫田が後ろに立っていた。

 彼女のにこやかな顔が、今は少し腹立たしい。


「リーダー、きっと後悔はしてないと思うよ」


 太陽の隣に来て、彼と同じ体勢になって柵に腕を乗せながら彼女は言った。


「……そんなの、分からないじゃないですか」


「分かるよ」


 遠い目をして彼女は答えた。


「──ねぇ、リーダー最期になんて言ってた?」


「……は? なんか、これだからコズミックラテは、とかなんとか」


 それを聞いて、猫田は「やっぱり」と言った。


「うちの部署ね。太陽君が来る前に四人組だった時期があるんだ」


「そうなんですか」


 涙で滲んだ夜景が少しずつ明瞭になる。

 猫田の柔らかい声が否応無しに心を凪がせてくるのだ。

 すると優しい夜風が吹き始め、夏の香りが太陽の鼻に届いた。


「リーダーの同期の女の人がメンバーにいたの。その人も、君と同じ色の核を持ってた。コズミックラテ──宇宙の色。このことは差別に繋がるから公表されないんだけど──核の色はね、持ち主の生まれつきの性質によって決まるんだ。純粋で優しい順に、赤、青、緑ってね。でも特別純粋で優しい人はコズミックラテの核を持つんだ。淡いベージュで綺麗だよね」


 猫田は懐古するように甘い声で言葉を継ぐ。太陽は彼女の話を他人事として聞いてはいなかった。


(俺も……)


「その人、君とそっくりだったんだよ。君と同じ淡いベージュ、コズミックラテのロングヘアーの女性で。正義感が強かった」


 淡いベージュの髪の女性。


 ──その核、大事にしてね──


 あの人と同じだ。


「ある日の夜ね。核レーダーが反応して、その反応から政治家が絡んでることが分かる事件が起こったの。つねづね本部からは『政治家には手を出すな』って言われてたんだけど、リーダーとその人は事件現場に急行した。や、厳密にいうと、その女の人が『苦しんでる人がいるのに見て見ぬフリなんてできない! どうしても行く!』って言って聞かなくて、リーダーと喧嘩になって、でもその人を一人で行かせるのは不安だってことで、結局リーダーも行くことにしたって感じ。私たちも遅れて行った。そしたらね、」


 その人、殺されてた。


「敵に待ち伏せされたんだって。政治家が被害者を虐げてる状況を囮にして、側近に待ち伏せを指示してたらしいの。リーダーたちは現着した瞬間背後から襲撃を受けて、リーダーはなんとか対応できたらしいんだけど、怒りに駆られて政治家たちの方に向かって一目散に駆け出したその人は、殺されちゃった」


 太陽は二階堂奈緒がいた家でのことを思い出す。


 ──馬鹿野郎! 背後に注意って勉強しなかったのか⁉︎


 ──核保の存在を知ってる人間は今となっては少なくない。待ち伏せしてくる連中もざらにいる。警戒しないと簡単に殺されるぞ。


 ──情に流されるな。いつでも合理的な選択をしろ。


 あれは、自分の経験した辛い過去からの教訓だったのか。


「で、リーダーがなんとかその人を殺した政治家を確保して、事件自体は解決した。でも、そのコズミックラテの人が死んだから、リーダー、物凄い落ち込んでね。しばらく休職して、戻ってきてからは政治家絡みの事件には絶対手を出さないようになってた。そんな折にあの人と同じ色の核を持ってて、しかも性格も似てる君が来たから動揺して君に強く当たってたんじゃないかな」


 でもね、と猫田はまだ話を続ける。

 東京のビル群は少しずつ電気が消えていっていた。


「その人、死ぬ時後悔してなかったんだって。苦しんでいる人を守れたし、その日の別の任務で綺麗なコズミックラテの核を持つ子をいじめから救うこともできたから、って」


 ──綺麗なコズミックラテの核を持つ子をいじめから救うこともできた。


「……もしかして、その人がいじめから救ったのは、」


「君かもしれないね」


 太陽が物心ついた頃には両親は既に離婚していて、母親が女手一つで必死に彼を育てた。だから太陽は母親のことが大好きだった。しかしそういう境遇だと学校では讒謗ざんぼう讒言ざんげんの格好のカモになってしまうし、加えて彼の核は他の人のものと色が違っていたから、太陽は次第にいじめの標的にされるようになった。


 そんな時に彼を救ったのが、核保委員の彼女だった。コズミックラテのロングヘアーを振り回しながらいじめっ子たちを倒して、彼女は太陽にこう言った。


「その核、大事にしてね」


 太陽は言われた通りにその核を大事にしてきた。

 そしてその人に憧れ、今日まで頑張ってきた。

 彼女のおかげで、今の彼がある。


「……その人の名前は?」


「美空さな」


「美空、さなさん……」


「美空さんの意志は、君に受け継がれたんだろうね」


 それを聞いて、太陽は黒田が死の間際に「お前は、」と言っていたことを思い出した。

 あれはそういうことだったのだろうか。

 美空さなの意志を受け継ぐ──


「この世の善意」


 猫田が言った。


「だから、リーダーは命をかけて守ったんだと思う。あの日、守れなかった、この世の善意を。そして託したんだ。君に。この、皆がくすんだ──汚れた核を持つようなつらい世界の未来を。だからリーダーは後悔してないと思う。絶やしてしまったはずのそのバトンを繋げたから」


 太陽は息を深く吸い込んで、星空を振り仰いだ。


「おっさん……」


 分かりにくいんだよ。アンタは。


「そのバトン、繋いでいってね。それがきっと、リーダーの最期の願いだと思う」


 太陽は大きく頷いた。


         *

 

 翌日、太陽は二階堂家に足を運んだ。出てきたのは娘の奈緒だった。


「お父さんは、外に出るのが怖いみたいです」


「まぁ仕方ないね」


 奈緒は何故か少し顔を赤くしていた。


「あの、本当にありがとうございました」


 そう言って奈緒は頭を下げる。

 太陽は彼女の手を取って、核を見る。ふと、彼女の核の色が知りたくなったのだ。

 昨日は変色してどす黒くなっていたから、本当の色が分からなかった。

 彼女の核の色は──凛々しいほど力強い、澄んだコズミックラテだった。

 太陽は破顔する。そしてその笑顔のまま言った。


「その核、大事にしてね」

 

          *

          

 あれから十年。

 太陽は在りし日の黒田と同じくらいの歳になった。今日は何度目かの新人を引き連れた任務だ。


「保護対象者は、文京区在住の中学生、平井悠太。場合によっては戦闘も厭わないけど、試験が終わったからといって体が鈍ったりしていないよね?」


 相方に問う。相方の少女の手のひらで澄んだコズミックラテの核が煌めく。


「おっさんの貴方よりかは動けますよ」


 彼女がそう言うのは、怒りや不信感のためではなく、気心の知れた相手への親密さゆえだ。


「クソガキが! 奈緒、後で覚えとけ」


 きゃーこわーいと奈緒は肩を縮めてみせる。

 冗談だよ、と笑いながら太陽は懐かしい気分になる。

 なぁ黒田のおっさん。見ててくれよ。

 下北沢360、新リーダーになった俺の姿を。


「──奈緒、くれぐれも情に流されるなよ。いつでも合理的な選択をしろ。たくさんの試験勉強や特訓を積んできたなら分かるだろう?」


「……先代リーダーの真似してるのバレてますよ。私もあの場所にいたんですから」


「おいっ! ちょっとは格好つけさせろよ!」


 奈緒は笑い、しばらくしてからこう続けた。


「──私、太陽さんに憧れて今日まで頑張ってきたんです。コズミックラテの核のことで嫌がらせを受けたりもしたけど、太陽さんの『その核、大事にしてね』って言葉のおかげで、今日まで生きてこられました」


 突然の告白に、太陽はたじろぐ。奈緒は十年前のあの日のように頬を赤くしていた。


「先代リーダーがお父さんを見捨てたのに、それでも必死に助けようとしてくれた。まるで本物のヒーローみたいで……。そんな太陽さんに、私は──」


 どんどん彼女の声が小さくなる。


「ん? なんだよ、はっきり言えよ」


「……その、──恋しちゃいました」


 太陽は吹き出す。


「笑わないでください! せっかく勇気出して言ったのに! というか、私の初恋を奪って、十年も想い続けさせたんだから、責任とってくださいよ!」


 ポコポコと奈緒は太陽を叩く。「あの事件の後から何回も遊んでくれたし、ちょっとくらい気持ち分かってくれてるかと思ってました」


「──クソガキ。年齢差考えろよ。十あるぞ」


 握ったハンドルを離さず、少し声のトーンを落として言った。

 車が信号で止まる。

 鼻白んだ様子の奈緒を尻目に、太陽は言った。


「結婚する相手には、東京の夜景を見ながら、俺からロマンチックにプロポーズしたいんだよ」


 そうですか、と興味なさげに奈緒は口を尖らせる。


「……なぁ。奈緒」「はい」「あのさ……」

「──今夜、空いてるか?」


 そう言うと、奈緒は目玉が飛び出すのではと思うほど目を見張った。そして赤くなる。


「……六本木の、東京ミッドタウンに連れてってやるよ」


 奈緒は沸騰したやかんのようになっていた。「それって、」


「バーカ。ただの後輩教育の一環としてだよ。俺と結婚なんて十年早いんだ、クソガキ」


 両手で顔を隠して指の隙間から太陽を覗き見ていた奈緒に向かって、彼はニヤリと白い歯をこぼしながら言った。

 もー! と大きくため息をつきながら奈緒は言う。


「十年経ったら、太陽さんもうおじさんじゃないですか」


「やかましいわ。今もうおっさんだよ。さっきお前も言ってただろ」


「じゃあなおさら早くしないと!」


「ダメだ」


「えー」


 信号が青になったので、太陽は再びアクセルを踏み込む。

 車窓の景色が流れゆくスピードが加速する。

 結婚はまだ早い。

『この世の善意』のバトンをもっと先まで繋いでいくまでは。

 美空さんから俺に、俺から奈緒に、奈緒から誰かに……そうして繋いでいって、核保がいらなくなるくらい素敵な世界ができてほしい。俺を信じて未来を託してくれた黒田おっさんのためにも。

 そんなことを太陽は思う。


「いつかは……」


 そう言いながら頭を撫でてやると、奈緒は満更でもなさそうな顔をした。

                                                                      fin

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《読切①》コズミックラテ 菜々丘たま(旧:青丘珠緒) @aotama0819

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