12日目(1) 異世界にやって来た
ぶわり、と足元から一陣の風が吹き上げる。呼吸が出来なくて、思わずぐっと口を結ぶ。
スマートフォンから弾け出た白い光の眩しさに、目をぎゅっと閉じる。
しばらく息を止めていると、とん、とパンプス越しの爪先に硬い床の感触がする。足の裏まで地面に着き、完全に降り立つと急速に光と風が収まっていく。
ごうと耳元で唸る風音も、瞼の向こうの眩しさも消えると、途端に鼻先を掠める新築の木の匂い。
そっと目を開く。スマートフォンを持つ右手を下ろして、真っ直ぐに前を見た。
目の前に広がっていたのは、檜皮色の木目の壁と、二階へと続く階段。森を彷徨うだけの私に、拠点用にと弟が建ててくれた、ログハウスの中。
不意に、視界の少し上に、白い幾何学的な文様が浮かび上がる。こちらに来る時に見るものと同じそれは、一瞬強い光を放つと、すぐに収束する。
「きゅるー!」
声が聞こえたと同時に、頭から肩に、たた、と駆けていく軽い足取り。ふわりと首筋に滑らかな尻尾が触れる。
「りっくんもこっちに来たのね」
左手で頭を撫でて、小さく笑う。
りっくんのことも気になってはいたのだけれど、弟が無事にこちらに転移させてくれたらしい。
スマートフォンに視線を落とせば、すでに通話は途切れている。そこまで確認すると、ワイドパンツのポケットにしまう。
「この後は、どうしようか?」
「きゅ?」
リュックの中身は前回からそのままだから、このまま森の散策に行くことも可能だ。
背後のドアを振り返る。
この向こうには、何度か通った池のほとりと森の風景が広がっている。あの狼を傷付け、私にも矢を放ってきた人たちはもう捕まったらしいけれど、それでも危険がないわけではない。
「きゅー?」
心配そうにりっくんが見上げてくる。その頭を撫でて、ふっと息を吐き出す。
スマートフォンを取り出すと、攻略本アプリを立ち上げる。お気に入りの一覧ページには、山田花子に教えてもらったマンゴーが追加されている。他にも、今まで食べたきのこやりんご、レンコンの表示もある。
「……うん、大丈夫。それに、せっかく教えてもらったしね」
りっくんに笑いかけると、リュックを背負い直す。ひとまず、パンプスからスニーカーに履き替え、ドアノブに手をかける。
ふう、と深く息をつく。まだ少し、不安はある。でもまだ見ぬ美味しいもののため。
ぐ、とドアを押し開ける。その途端に、ふわりと届く水気を含んだ、花や草の香り。涼やかな水辺の空気。
私はゆっくりと、ドアの外に足を踏み出した。
×××××
白樺色、樺色、檜皮色。次々と幹の色を変える木々の合間をのんびり歩いていく。
「きゅ、きゅ、きゅー」
私の肩の上で、りっくんが楽しそうに尻尾を揺らす。その度に首筋を掠めてくすぐったいけれど、そんなりっくんに思わず笑みが溢れる。
少し色を深めた新緑の森は凛とした空気を纏っている。見上げる空には、群青に滲むオレンジ色。朱色に縁取られた雲がゆったりと流れていく。
その雲の合間には、白銀色の二つの月。丸い大きな月と小さな下弦の月が浮かんでいる。この光景も懐かしい。
「こっちで、大丈夫かしら」
ポケットから取り出したスマートフォンに視線を落とす。目的地まではもう少しかかるらしい。
しばらく歩いていくと、どこからか瑞々しい甘い香りが漂ってくる。少し先には、大きな果実がたわわに実る、梨の木があった。その黒茶の木にはなんとなく見覚えがある。
「ここって、前にニーナやアリアさんたちと来た……?」
思わずスマートフォンを見る。目的地であるマンゴーの採取地へ行く手前には、確かに梨と思しきマークが表示されている。
以前はニーナとアリアさんの後をただついていっただけだったから、気が付かなかった。帰りは、必死だったし……。
「きゅー!」
甘い香りに堪えきれなくなったのか、りっくんは梨の木に飛び移る。拳大よりもさらに一回りは大きそうな梨をもぎ取ると、枝に座り込む。抱え込んだ梨をシャクシャクと食べ始めた。
なんだかこの姿、前も見たわね。
美味しそうに梨を食べるりっくんと、ふわりと届く甘い香りに私も梨の木に近付く。
家にはまだ、弟が持って帰ってきた異世界産のフルーツがあったはずだ。それなら今日は、私が食べる分だけで十分ね。
リュックの前ポケットから多機能ツールを取り出す。ナイフをセットすると、比較的低い位置にある果実に手を伸ばす。ぱき、と細いへたの部分をカットする。ごろん、と手元に落ちてきた梨を片手に抱えると、取り出したエコバッグにしまう。
とす、と私の肩に梨を食べ終えたりっくんが戻ってくる。
その頭を撫でながら、ちらりとスマートフォンを確認する。森の奥を目指した。
「きゅ、きゅ、きゅー」
終始ご機嫌なりっくんの背中を撫でる。するするとした指通りが気持ちいい。
木々の隙間から見える空にはオレンジ色が消えて、群青色から藍色へと移ろい変わっていく。満月に近い月のおかげでそれなりに明るかった森の道も、次第に暗くなってきた。
私はリュックから小型のランタンを取り出す。ガーネットのような赤い石が嵌め込まれたランタンのスイッチに触れる。ぽわり、と柔らかな光が灯った。
リュックを背負いなおし、さらに森を進んでいく。
しばらく歩いていくと、ふと、そよぐ風に運ばれて微かな水の匂いがした。それと同時に、ブブブブ、と小さな羽音も聞こえる。羽音は水の気配が近づくほどに、大きくなる。
ふ、と森が途切れた。目の前に広がるのは、エメラルドグリーンの湖。
「◇◇◆◇◇!」
「あ」
その手前を一匹の蜜蜂が横切る。……いや、蜜蜂と言っても小型犬くらいの大きさはあるけれど。つるりとした黒と黄の縞縞模様のフォルムには見覚えがある。
蜜蜂は私たちに気が付くと、近くに寄ってくる。
「◇◇◆◆◇◇◆◇◆◇◇◇◆◇◆◇◇◆◆◆◆◇◇◆!」
「えっと、お久しぶり、ね?」
でも、蜜蜂の個体差なんて分からないし、探り探り声をかける。私が声を掛けると、蜜蜂は嬉しそうに体を揺らす。
「◇◇◆◆◆◇◆◇◇◆◇◆◆◇◆◆◆◇◆?」
「きゅ!」
蜜蜂の問いかけにりっくんが元気に応える。蜜蜂はりっくんの手を取ると小躍りを始める。すぐ側に私がいるためか、かなり抑え目ではあったけれど。でも、この反応、この前の蜜蜂で間違いなさそうだ。
「◇◆◆◇◆◆◆◇◇◆◆◆◆◇◇◇◆◇◆◆◆◆◆◇◇◇◆◆◆◆◇◆?」
小躍りを終えた蜜蜂が、今度は私の周りをくるくると飛ぶ。くりくりとした大きな目が、どこか心配そうに私を覗き込む。
「えっと、ありがとう? まだ、ちょっと怖いところはあるけど、もう大丈夫よ」
何を聞かれているかはよく分からないけれど、気遣わしげな蜜蜂の雰囲気にひとまずそう返す。
「それより、この前はごめんなさい。完全に私の八つ当たりだったわ」
蜜蜂は、こてん、と首を傾げる。
「◇◆◇◆◆◇◆◇◆◇◇◆◇◆◆◇◆◇◇◆◇◆◆◇◇◇!」
そのすぐ後に体を揺らすと、ぱたぱたと羽を動かす。
「ありがとう」
とりあえず、許してもらえたような空気を察し、笑顔で返す。
「◇◆◇◆◆◆◆◇◇◆◆◆◆◆◇◆◆◆◆◆◆◇◇◇◆◇◆◇◆◆◆◇◇?」
「きゅー、きゅ!」
そのまま蜜蜂とりっくんが話し始める。りっくんの言うことはなんとなく分かるから、その場は任せて、二人の会話に耳を傾ける。
藍色の空の下、さわさわと深緑の葉が風に揺れる。静かに波打つ水面に、無数の星々が沈む。湖の淵には、大小二つの月が浮かぶ。
そういえば、こんな水辺だったな。ニーナとアリアさんに初めて会ったのは。
そんなことをぼんやりと考えていると、がさ、と背後から音が聞こえた。
「◇◆◇◆◆◇◇◆◇◆◇◆!」
「きゅ!」
蜜蜂が嬉しそうに音のした方に飛んでいく。りっくんも嬉しそうな声を上げる。
振り返り、後ろの茂みに視線を送る。
「あ、カミツカにゃ!」
そこには、Tシャツみたいな服と赤いホットパンツを履いた猫耳少女、ニーナがいた。驚く私に、ニーナはたた、と駆け寄ってくる。
「久しぶりにゃ。元気だったにゃ? あの時は守れなくてごめんにゃ。もう、大丈夫にゃ? それからそれから、えーと、えーっと」
ニーナは嬉しそうにしたり、申し訳なさそうにしたり、慌ただしく表情を変えて一気に話しかけてくる。……その語尾は、相変わらずおかしい。
でも一応、私の異世界語のリスニング能力はまだ健在だったようだ。
「だから、カミツカさんと話す時は言葉つなぎの魔法が必要だと、何度も言っているでしょう?」
その後ろからやってきたのは、白いシャツにリーフグリーンのミニスカート、ハンターグリーンのジレみたいな服を身に纏った銀髪少女、アリアさんだった。
「そうだったにゃ!」
ニーナはそう言うと、首元のチョーカーに触れて呪文を唱える。会うたびに行われるこの二人のやりとりも、久しぶりだとなんだか感慨深い。
「それでそれで、カミツカ。もう、大丈夫? 痛いとこない?」
ニーナは私を見上げると、さらに質問を重ねる。この感じも、なんだか懐かしい。
思えば、この二人にも随分と心配をかけてしまった。あの時は仕方がなかったとはいえ、全く周りが見えていなかった。
「……ええ。その節は、ご迷惑をおかけしました。もう、大丈夫です」
そう言うと視線を上げる。二人はどこか、ほっとしたような表情をしていた。
「いえ。こちらこそ、申し訳ございません。我々がもう少し早く、彼らを捕まえていれば……」
申し訳なさそうなアリアさんの言葉に首を振る。
確かに、怖い思いはした。でも、それだけじゃなかったと思い出したのは、山田花子の言葉もあったけれど、二人のおかげでもある。
「でもでも、また会えて嬉しい! おかえり、カミツカ!」
笑顔で告げられたニーナの言葉に、目を見開く。私の反応に、ニーナは不思議そうに首を傾げる。
「きゅー!」
私の肩の上ではりっくんも嬉しそうに尻尾をゆるゆると揺らす。
涼やかな風が吹き、さわさわと湖畔の緑を揺らす。藍色の空と波間で瞬く、満天の星々。空に浮かぶ二つの月。二週間前まではよく見た、森と湖畔の風景。
ただ食べ物を求めて森を散策していただけだったけど、いつの間にか、この景色が日常の一部になっていた。
前を見れば、視線があったニーナがにっと笑う。その隣にはアリアさんもいる。
……ああ、そうか。
「えっと、……ただいま、です」
いつの間にかこの世界は、私にとって帰る場所の一つにも、なっていたのか。
私はニーナとアリアさんの二人に向けて、小さく微笑んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます