11日目(3) 不穏な夜と魔獣との遭遇

 は、は、と浅く息を吐く。ばくばくと早鐘を打つ心臓が、うるさいくらいに耳元で響く。じとりとした汗が額に浮かび、頬を伝い落ちていく。


 はじめは、何が起きたのか分からなかった。でも、少し時間が経ってくるとじわじわと周りが見えてくる。


 辺りの森は薄暗く、小さな球体の光源だけがぼんやりと周囲を照らす。夜になった森の中、尻餅をついた姿勢から起き上がれない。

 私は組んだ手に顔を伏せる。


 森を流れる涼やかな空気も、かさかさと揺らぐ地面を覆う草の感触も、そこから立ち上る匂いも、今はなんだか気持ちが悪い。唾を飲み込もうとして、喉に引っかかった。


「きゅるー?」


 肩の上のりっくんが小さく鳴く。ブブブブ羽を動かす音も聞こえるから、蜜蜂もまだ近くにいるようだ。心配そうに投げかけてくる視線を感じるけれど、それに応える余裕がない。私はぐっと手を握り込む。仄かに赤く色付く指先から、白く冷えていく。


 まさか、こんな事態に巻き込まれるなんて。ニーナがいなければ、どうなっていたかわからない。

 そもそも、ニーナ達についてこなければ、こんな事態にはならなかったのかしら。でも、この森を散策する以上、どこかで彼らに出会った可能性はあったわけで……。


 もし、一人の時に会っていたらと思うと、ぞっとする。

 森の空気が一段と冷たく感じて、腕を抱く。


「きゅるる!」

「◆◇◆◇◆◇◆◆◇◇◆◇◇◆!」


 不意にりっくんが、た、と私の肩から降り立って鋭く鳴く。蜜蜂も聞き取れない声で何か発すると私の前に回り込む。


「二人とも、どうし……」


 言いかけて、ふ、と漂ってきた鉄っぽい匂いに言葉を切る。これは、もしかして————血の、匂い?


 がさ、と草が揺れる。びく、と肩が震える。


 恐る恐る向けた視線の先。飛び込んだのは、薄汚れたスカイグレイの毛並み。ごわごわとした長い毛並みは本来の艶やかさはなく、べっとりと血で濡れている。


 視線を上げると、アガットの鋭い瞳と目が合った。左瞼の上には生々しい傷跡が残る。その額には、欠けた一本の角が生えている。


 暗い森の影から出てきたのは、狼みたいな巨大な獣だった。

 ふらふらになりながらも無事な右目だけをぎらつかせて、私たちを睨み付けてくる。


「グルルルル!」


 狼は牙を剥き出して低く唸る。その背中に、深く突き刺さる弓矢が見えた。その矢羽には見覚えがある。はっとして、背後の木を振り返る。そこにも刺さる、同じ弓矢。


 ずしゃ、と倒れ込む音に視線を前に戻す。

 狼が倒れ込んだ地面には、じわりと止まり切らない血が広がっていく。


「大丈夫?!」


 りっくんと蜜蜂の間を抜けて、思わず狼に駆け寄る。弓矢が突き刺さったままのその姿は、とても痛々しい。それに、そのまま放っておくのも気が引けた。


「グルル!」

「っつ」


 狼が短く唸る。手を伸ばした指先にピリッとした痛みが走る。中指の先から、ぱたた、と血が垂れる。


 狼はふー、ふー、と興奮した様子で荒い呼吸を繰り返す。がばっと起き上がって、一定の距離を取った。その眼光は鋭く、昏い。強い拒絶と、恐怖が混ざっている。

 その眼差しに、ひゅ、と浅く息を飲む。


 狼は踵を返すと、森の奥に駆けていく。何も出来ず、その姿を見送った。狼が倒れた草の上には、赤黒く淀む、血の痕だけが残っている。落とした視線の先にも、点々と地面に染み込む、赤。


 狼が去った森に視線を戻す。振り返り、背後の木を見る。そこに突き刺さる、鋭い鏃。狼の背中にあったものと、同じ。


「————っ」


 身体が芯から凍えて、足が震える。立っていられなくて、その場にとすん、と座り込む。


「きゅ?!」


 りっくんの声が聞こえたけれど、気にかける余裕もなくて下を向く。

 もしかしたら、あの矢が射抜いていたのは私かもしれない。たまたま、今日は運が良かっただけで。あの狼は、未来の私の姿かもしれない。


「きゅるー?」


 私の腿に触れて、心配そうに見上げてくるりっくんと目が合った。撫でようとして、ふと、視界に入る、指先の赤い線。りっくんの額には、白茶の毛に埋もれるように小さな角が生えている。


「きゅるる?」


 固まる私を見て、りっくんは不思議そうに、こてん、と首を傾げる。

 りっくんは違う。あの狼とは、似ても似つかない。それなのに、あの昏いアガットの瞳を思い出してしまう。あの眼差しが脳裏に焼き付いて、離れない。


「きゅる……」

「あっちに行ってて!」


 思い掛けず大きな声が出てはっとする。でも、一度口から出た言葉は取り戻せない。りっくんを見れば、びく、と身体を震わせた。唇を噛んで、ついと視線を逸らす。


「きゅー……」


 気落ちしたようなりっくんの声が聞こえて、がさ、と何かが揺れる音がする。音が聞こえた方向に視線を向ければ、そこにはもう、りっくんの姿は見えない。

 少し離れた場所には、蜜蜂が飛んでいる。おろおろとした様子で、私とりっくんが消えた森を交互に見る。


「あなたも、早く、どこかへ行って……」


 絞り出した言葉に、蜜蜂は戸惑いつつも、飛び去っていく。遠ざかる羽音を聞きながら、俯く。指先に傷痕の残る手をぎゅっと握る。


「……」


 完全なる八つ当たりだ。それは分かってる。でも、止められなかった。

 一人きりになった夜の森はとても静かで、時折さわさわと揺れる葉音だけが響く。

 ただただ、じっと。その場から動けずに時間が過ぎるのを待った。



「カミツカ! 大丈夫?!」


 どれだけその場に座り込んでいたかは分からない。しばらくすると、ニーナの声が聞こえてきた。そっと顔を上げた私を心配そうな表情で見下ろしている。


「途中でりっくんに会ったよ! ミーチバーチビーにも会ったし。二人とも、なんか落ち込んでるみたいだったけど、どうしたの?」

「あの、二人組は……?」


 ニーナの問いかけには答えず、そう尋ねる。ここにニーナがいるってことは、矢を放ってきた密猟者らしき二人組は捕まったのかしら。


「ごめん。途中で見失っちゃって。あいつら、逃げ足だけは早いから。でもでも、ミーチバーチビーたちの巣は取り返せたよ! ハチミツも分けてもらってきた!」

「それに、彼らをマーキングはしてきましたから。これでアジトに戻った後に、一網打尽に出来ます」


 少し遅れて戻ってきたアリアさんが、補足する。


「そう、ですか……」


 それならば、もう大丈夫なのかしら。いや、でも彼らがまだどこかにいることには変わらない。ぶるりと震えて、腕をさする。


「それよりそれより、カミツカ、大丈夫?! 急にカミツカがいる方から獣の匂いと血の匂いがしてきたから、急いで戻ってきたの!」

「何かあったのですか? 顔色も悪いですし。それに、あの血痕は?」


 もしかしたら、私のことを気にかけてくれて、密猟者を追うのを止めて戻ってきてくれたのだろうか。そうだとしたら、申し訳ない。


「てゆーか、カミツカもケガしてるじゃん! アリア、治癒、治癒!」

「あ、もう血も止まっているので、大丈夫です……」


 治癒魔法? か何かをかけてくれようとしてくれたアリアさんを止めて、下を向く。

 ふう、と深く息をつく。


「えっと、大きな狼? がここに来まして。背中に、あそこにあるものと同じ弓矢が刺さっていたので、彼らに襲われたのかも……」


 そこまで言うと、言葉を切る。人や獣を襲う理由なんて分かりたくもないけれど、ニーナとアリアさんがいなければ、私もどうなっていたか分からない。

 ぐっと唇を結び、ぎゅっと腕を抱く。


「……すみません。私、ログハウスに戻りますね」


 震える身体を抑え込み、足に力を入れて立ち上がる。リュックからスマートフォンを取り出すと、攻略本アプリのマップを表示させる。


「ハチミツは? それにそれに、一人じゃ危ないよ?」


 ニーナの声にナビを表示させようとしていた指を止める。確かに、この広い森の中。また彼らに会わないとも限らない。それでも、この場所にも居たくない。微かに残る血の匂いに眉を寄せる。


「でも」

「……それならば、こうしましょう」


 アリアさんはそう言うと、何事か小さく呟く。白銀色の幾何学的な文様が足元に浮かび、ふわりと優しい風に包まれる。

 風は緩やかに収束し、私の体を包み込む。


「……これは?」

「簡易的な防護魔法をカミツカさんの周りに発動させました。これで、ある程度の危険は避けられると思います」

「防護魔法?」


 なんだかよく分からないけれど、危険から身を守ってくれるのであればありがたい。


「本来ならば、家まで送り届けるのが望ましいのですが、密猟者達を放っておくわけにもいきませんので」

「ごめんね、カミツカ。一人でも大丈夫??」

「あ、いえ。ありがとうございます。大丈夫です」


 お礼を伝えると背を向ける。ニーナとアリアさんに見送られながら、足早に森に入る。二人の声が聞こえなくなると、駆け出した。

 今は、一刻も早くこの場所から立ち去りたい。少しでも早く、安全な場所に逃げ込みたい。

 その後は逃げるように、ログハウスの近くまで帰ってきた。



 それまで続いていた森の風景が、ぱっと途切れる。視界の先に広がったのは、曇り空を映し込む、青鈍色の小さな池。ログハウスまで続く小径には、ぽつぽつと淡い明かりが灯る。


「はあ、はあ、はあ……」 


 額に浮かんだ汗を腕で拭う。マップを表示させていたスマートフォンは、一旦ポケットにしまう。

 小走りで小径を進み、ログハウスに入る。ばん、と勢いよくドアを閉めた。そのままずるずるとその場に座り込む。


「……全力疾走、なんて、するもんじゃ、ないわね……」


 普段、通勤の時でさえ走らないのに、こんなに走ったのはいつぶりだろう。荒い呼吸が落ち着くのを待ちながら、ドアに寄りかかって小さく息をつく。

 ここまで来れば、もう大丈夫な、はず。それに家の中だし、ここまではやってこないだろう。


 ……本当に?


 急に不安になって、私はポケットからスマートフォンを取り出す。

 ロックを解除して、通話履歴を呼び出す。そこにある弟の番号をタップする。


『お掛けになった電話番号は……』

「もう! どうして繋がらないのよ!」


 今は、一刻も早く安全な場所に行きたい。早く、家に帰りたい。

 何度かコールをすると、弟から電話がかかってくる。急いで通話の表示をスワイプする。


『姉ちゃん、ちょっと見てたけど、どうしたの? 大丈夫?』


 聞こえてきた弟の声に、緊張が少しほぐれた。


「今日はもういいから、元の世界に帰してくれる?」


 努めて冷静に、それだけ伝える。


『まだ時間じゃないよ?』

「いいから! 早く!」


 でも完全には拭い切れていなくて、つい強い口調で当たってしまう。


『わ、分かった』


 電話越しに、弟が指を鳴らす音が聞こえる。その途端、スマートフォンから真っ白な光が弾け出て、幾何学的な白い文様が展開される。足元から突き抜ける風が、ごうと耳元で唸る。

 心底慣れないと思っていたこの感覚が、今はなんだかほっとする。


 そして、いつもより早い、二十一時過ぎ。私は異世界から逃げ帰ってきた。

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