5日目(1) 休日の午後は異世界で

 とん、と硬い地面につま先が触れる。完全に地面に着地すると、急速に光と風が収束する。

 眩しさが去り、ゆっくりと目を開く。目の前に広がっていたのは、檜皮色の木目の壁と二階へと続く階段。昨日も見た、ログハウスの中の風景。

 どうやら、直接玄関に転送されたらしい。


『もしもし? 無事に着いた?』

「ええ、ありがとう」


 リュックを背負いなおし、電話越しの弟に返す。いつもだったら、それで通話が終わるはずなのに、今日はまだ切れる気配がない。……何か、あったのかしら。


「どうかした?」

『明日も会社は休みでしょ? どうせなら今日はこっちに泊まっていけば?』


 不思議に思って尋ねたら、弟がそう聞いてくる。


「いや、普通に帰るけど」

『帰るの?』


 意外そうな弟の声に首を傾げる。

 むしろ、なんで泊まっていくと思ったのだろう。


「ええ。十八時には帰るわ。お母さんに夕飯は家で食べるって言ってあるし、流石に泊まるまでの用意はしてきていないもの」

『ある程度なら、置いてあるよ?』

「でも、今日はいいわ」

『うーん、そっか』


 私の返答に電話の向こうでしばらく唸っていた弟は、渋々、といった口調で了承する。


『わかった。じゃあ、また帰る頃に電話するよ』


 最後にそう言うと通話が切れる。私はスマートフォンを持つ手を下ろすと、それを鞄の中にしまう。

 パンプスを脱いで玄関ホールに上がる。靴は端に寄せておく。


「とりあえず、持ってきたものを置いてこようかしら」


 階段の裏手に回り込めば、その奥に洗面所やお風呂などの水回りの設備がまとめられている。

 リュックからポーチを取り出す。そのまま洗面台の鏡裏に設置された収納スペースに押し込む。……まあ、今日は使わないかもしれないし、これでいいでしょう。

 それが終わると玄関ホールまで戻り、リビングのドアを開ける。


「……わあ」


 思わず、声が出た。

 真っ先に飛び込んできたのは、緑色。

 三方の窓と床に反射する青緑の深い色。

 私はドアノブを握ったまま、一歩踏み出すのを躊躇った。


 窓に囲まれた部屋の中は明るく、昼間の白い陽光を受けてちらちらと光が舞う。

 絵画のように窓を彩るのは、浅葱色の森と池の静かな風景。ガラスを通して見ても、鮮やかで綺麗に色付いている。夜に見たものとはまるで違う景色に息を飲む。

 でも、いつまでもこうしているわけにはいかない。私はぐっと唇を引き結ぶと、一歩踏み出す。


 日差しを浴びてか、光沢のある煤竹色の床は仄かにあたたかい。するすると滑らかで柔らかな感触を踏みしめながら、リビングに入る。ぐるりと部屋を見回した。


「あ、ちゃんと作ってくれたのね」


 部屋の中心にある大きな一枚板のテーブル、入り口近くの本棚に変わりはないけれど、ウッドデッキ側の壁際には、キッチンが新設されている。

 アイランド型のキッチンは壁と同じ檜皮色に統一されている。大きめのシンクとIHみたいなコンロも二口あり、使い勝手は悪くなさそうだ。一通りの調味料も綺麗に並べて置いてある。

 その向かいの壁には、食器棚とその隣にワンドアの冷蔵庫(仮)もある。キッチンができたからか、昨日の場所から配置を変えたみたいだ。


「何か、入っているのかしら」


 なんとなく気になって、冷蔵庫に近付いてみる。右開きのドアを開け、中を確認する。

 中には水や炭酸などの飲み物がいくつか入っているだけで、ほかには何もない。

 どうせなら、バターやアイスを入れておいてくれてもよかったのに。でも、そもそもこっちの世界にあるのかしら。

 本当はどっちも持ってきたかったのだけれど、急だったし、そこまで準備ができなかった。今日の帰りはコンビニに寄って、買っていこう。でもこれ、冷凍ってできるのだろうか。

 そんなことを考えながら、置いてあった水のうち、昨日飲まなかったペットボトルを取る。

 視界の隅で何かがきらきらして、視線を横に向ける。


 窓の先にあるウッドデッキには燦々と光が溢れている。天気もいいし、外でお昼を食べてもいいかもしれない。

 途中、食器棚にあったコップと、調理台に並べてあった砂糖を拝借し、窓を開ける。手前に寄せてあったサンダルを引っ掛けて、ウッドデッキに出る。


 少し傾きかけた太陽は、それでも強い日差しを降り注ぐ。そのわりに、カーディガン越しに肌を包む空気は涼やかだ。鼻先を掠めるのは、水気を含んだ草の匂いや、百合や桃などの花々と果実の香り。

 そっと、息を吸う。

 新緑色の森は陽の光に照らされて、時折、ちらちらと白く煌めく。

 常盤色の池は静かに水面を揺らし、鏡のように森の緑と空の青を映し込む。

 私はゆっくりとウッドデッキを進み、中央のテーブルまでやってくる。その途中、ログハウスの近くにある、りんごの木が目に入る。


「……果物でも、採ってこようかしら」


 このまま景色を堪能していたいところだけど、お腹も空いてきた。それに、ちょっとやりたいこともあるし。

 私はリュックを下ろすと、手前のポケットから多機能ツールを取り出す。ウッドデッキの水場の近くには、三段だけの、小さな階段がある。そこから下りて、庭に出る。


 庭先のエリアの一部には、たわわに実るりんごや桃、梨などの木がいくつかまとまってある。梨に関しては昨日も採ったはずなのに、他の木と同じくらい実を付けている。

 ちょっと食べてもいいか不安になるけれど、今日は梨を使わないし、まあ、いいか。

 それに他のところで採ったりんごや桃も似たようなものだったから、きっとまあ、大丈夫よね。

 私はりんごの木に近付くと、少しだけ背伸びをして一つ採る。それを抱えてウッドデッキに戻った。


「焚き火台とかは……確か、こっちだったかしら」


 椅子の座面を開けて、中に入っていた焚き火台やオイルポッドなど、火起こしのワンセットを用意する。火の魔石も一緒の場所に置いてあったけれど、弟みたいに魔法なんて使えない。これはそのままにしておこう。


 焚き火台をテーブルの中央にある窪みにセットする。炭置きにオイルポッドに入っていた炭っぽくなっている枝を重ねて置く。……これ、まだ使えるのかしら。

 ちょっと疑問に思ったけれど、他に燃やせるものもない。

 ひとまず着火剤にライターで火を付けると、燃え残りの炭の上に乗せる。


「よかった。一応、火は付いたみたい」


 幸い、炭化した枝はまだ使えるみたいだった。燃え移った炎からじわじわと熱が伝わってくる。

 私はりんごを取ると、ざっとキッチンペーパーで表面を拭く。皮は剥かずにざっくりとカットする。それをメスティンの中に入れると、ペットボトルの水をどばどばと注ぐ。そこまで準備を整えると、焚き火台にメスティンを乗せた。


 りんごがしんなりしてくるのを待っている間、鞄からティーバッグを出しておく。メスティンの中を覗けば、まだ時間がかかりそうだ。

 私は攻略本を出して、目次を開く。

 普段使いなら攻略本アプリが便利だけど、どうしても情報量では攻略本には敵わない。弟も頑張っているみたいで、アプリの情報もちょこちょこと更新されてはいるけれど。

 ぱらぱらとページをめくっていくと、この世界の言葉と日本語が併記された、単語一覧に辿り着く。りんごの様子も時々確認する必要もあるし、あまり集中しすぎないほうがいいだろう。とりあえず今は、単語でも眺めていよう。


「それにしても、いつの間にこんなページができたのかしら」


 一つ一つの単語をざっと目で追いながら、つい疑問が口に出る。

 最初これを受け取った時には、こんな項目はなかった気がする。でも、攻略本自体も時々改訂されているみたいだから、どこかのタイミングで追加されたのだろうか。いつも私が持っていたから、いつ追加されたか謎だけど。

 ……まあ、弟のことだし、気にしないでおこう。

 メスティンを覗けば、だいぶりんごがしんなりとしてきている。

 私はぱたん、と攻略本を閉じると、用意していたティーバッグをメスティンの中に入れる。


「あとは、二分くらい蒸らして……」


 蓋を被せると、スマートフォンを机の上に出す。タイマーをセットした。

 そよりと風がそよぎ、視線を上げる。

 水色よりも透明な青い空は高く遠く、雲一つない。揺れる緑は白い光を受けて、ちらちらと浅葱色が翻る。


 ピピピピピ、とタイマーの音が鳴る。スマートフォンをスワイプして、メスティンの蓋を開ける。立ち上る湯気に、ふっとダージリンとりんごの香りが混ざる。

 私はメスティンの取っ手をハンカチで掴むと、テーブルの上に下ろす。中のりんごをお箸でコップにいくつか入れる。火傷に気を付けながら、慎重にアップルティーを注ぐ。

 最後にさっと砂糖を溶いた。


 コップを手に取り、一口飲む。ふわりとりんごの濃厚な甘味が口の中に広がる。いつもの紅茶のはずなのに、ぐっと高級感が増した気がする。

 りんごをお箸で摘んで、しゃくり、と齧る。たっぷりと水分を吸い込んで柔らかくなったりんごは、しゃくしゃくと噛むたびに、じゅわっと中から紅茶が滲み出てくる。

 酸味さえも甘く感じるりんごと、芳醇な紅茶の香り。ここにバニラアイスがないことが悔やまれる。絶対、明日は持ってこよう。


「さてと」


 心の中でそう固く決意すると、鞄の中を探る。取り出したのは、アンパンとチーズ蒸しパン。なんとなく今日は料理をする気分じゃなかったから、家にあったパンを適当に持ってきた。

 私はアンパンを取ると、袋を開ける。はむり、と齧りながら、攻略本を引き寄せる。

 目次を確認しつつ、ページを開いた。

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