第31話
仲の良い同僚のまとめによると「向こうの浮気が理由で離婚した」「教育委員会への異動はミスだった」の二つが混じり合って、「浮気による離婚に憤った彼女が報復人事を依頼したのでは」との噂になっているらしかった。このタイミングだから致し方ないことではあるが、彼らの目は私にそんな力があるように映るのだろうか。
離婚の報告を受けて資料を見返した担当者がミスに気づいたのだろうと返すと、彼女は「天罰ってあるんだね」と神妙な表情で言った。
確かに、今回の一件は誘惑に乗り妻を裏切る選択をした朝晴に下された罰とも言える。ただ、誰にだって突かれたら弱い部分はあるはずだ。劣等感と鬱屈で凝り固まった、どうしようもない部分が。朝晴は運悪くそこを突かれただけなのに、私に好かれて「かひ」や純香達に目をつけられなければどうにか生きていけていたはずなのに、それでも「悪かった」のか。『君と出会ったのが間違いだった』は復讐の言葉ではなく、心からの後悔だったのだろう。
今日最後の授業を終えて、教科準備室へ向かう。職員室の喧騒に疲れた時は、静かで心休まる準備室がいい。静まり返った部屋に入って荷物を置き、閉めたドアに凭れて長い息を吐く。生徒達はまだ何も知らない様子だったが、この先は分からない。
――お前、親がウワキして罰が当たったから声が出ないんだろ?
――逃げろ、触ると呪いがうつるぞ。あ、俺やられて声が!
自ずと脳裏に浮かび上がる暗い声に、顔をさすり上げる。
うちの生徒達はあんな猿どもとは違うと信じている。信じたいだけ、かもしれないが。
視線を落として足元の淡い影を眺めた時、傍らでがちゃりと鍵が締まった。ああ、まずい。錫杖はもちろん、今は携帯すらないのに。「生徒が多い時には出ない」に甘えて、思考を垂れ流していたせいだろう。
鍵の掛かったドアを無駄に確認し、静かに離れる。どこから来るのかは分からないが、肌を撫でる違和感は確かに璃子の。
「暁」
聞き覚えのある声に、思わず振り向く。薄く向こうの本棚を透かしているが、見えているものが確かなら、朝晴だった。
ぶわりと汗が浮き、総毛立つ。こめかみに滲む汗を拭い、震える唇を噛む。早鐘を打ち始めた胸に、一歩ずつ後ずさる。もし「良いもの」なら、こんな感覚は何も起きないはずだ。
「ここは暗くて、一人じゃ寂しいよ」
紗の掛かったような声がして、薄く透けた体が揺れる。滑るように近づいてくる朝晴にあとずさりながら、胸の内で経を唱え始める。朝晴は足を止め、表情を少し歪めた。喘ぐように開いた口の奥が黒く、そこだけ透けていない。
「一緒に、行こう。夫婦なんだから」
自覚の足りない言葉を吐き、私に手を伸ばす。道連れにするつもりか。
経を唱えている限り守られそうではあるが、限界がある。どうすればいいのだろう。
やがて経に構わず歩を進め始めた朝晴は、経に溶かされるように姿を変えていく。皮膚が剥がれ、髪が零れて落ち、伸ばした指先から爪が飛び、肉が削げて。
得も言われぬ臭気と光景に思わずえづいた口元を押さえ、顔を背ける。背後にはもう本棚だけで、逃げ場がない。本棚に縋って座り込み、手の内に熱い息を零す。
「あ……き……」
肉を失い剥き出しになった歯が枯れ葉のように零れ落ちる。既に経の圧に負けたらしい眼は潰れて空洞となり、夥しい血が覗いた頬骨を伝っていた。
「あぃ……し、てる……あ、あき……」
伸ばされた手は既に肉より骨が多く、皮膚も肉も失せた腹は璃子のように臓物を溢れさせていた。ずるずると腸を引きずる音は、ありがたくない聞き覚えがある。
経に怯まなければ、もうどうしようもない。迫る手に目をきつく瞑った時、何かが弾け飛ぶような破裂音がした。
驚いて目を開くと、すぐそこに迫っていたはずの手が消えていた。思い出すのは、警察署で吹き飛ばされた清良の手だ。まさかと思ったが、千聡しか考えられない。
「あ、あああ……きいいい、お、まえぇぇ」
唸るような、恨みを含んだ低い声がしてびくりとする。目は潰れているのに、睨まれているのが分かる。
白っぽかった姿が突如湧いた黒い靄に包まれた瞬間、その背後に久しぶりの璃子が現れた。いつものように長い黒髪を垂らして、今日は魚のように幅のない顔をしていた。左右に飛び出した目が朝晴を捉えた瞬間、裂けるように大きく開いた口がもぎ取るように朝晴の頭を食い千切る。あ、と思う間もなく、朝晴と共に霧散して消えた。
しん、と静まり返った空間に、埃が舞う。
……驚いたが、璃子の行動は理解できる。
誘惑したのは璃子とはいえ、朝晴がのめり込んだのも確かだ。我が子と妻になるべき自分を捨てて元妻に縋りつくなんて、許せるはずがない。
震える手で汗だくの顔を拭い、ゆっくりと腰を上げる。動機はともかく、璃子に助けられるとは思っていなかった。
深呼吸をして、心許ない手足を振って感覚を蘇らせる。やはり私の経では、これが限界なのだろう。我が身一つ守れないのは情けないが、仕方ない。黒い靄に包まれた最後の理由は多分、千聡が知っているだろう。
乱れていた服と髪を整え、陰り始めた窓外の景色を眺める。拭えない一抹の不安を宥め、薄暗い室内に佇むパイプ椅子に腰を下ろした。
櫛田が久しぶりに電話をかけてきたのは、夕飯の支度に取り掛かる前だった。
「簡単なものしかないけど、食べに来る?」
「いや、今日はまだ仕事があるんで無理です。ただちょっと気になる訃報を聞いたんで、大丈夫かと思って」
ああ、と短く答えると、櫛田は察したように黙る。
「大丈夫だよ、ちゃんと仕事にも行けてるし。心配してくれてありがとう。櫛田くんの方は、その後何も起きてない?」
「『化け物の類が出てない』って意味では平和ですけど」
「何かあったの?」
溜め息交じりに答えた櫛田に、胸がざわつく。携帯を握り直し、まな板の上に置いた豆腐を眺める。今日はちょっと魚は無理で鶏肉を見るといろいろと思い出すから、最近は豆腐の出番が増えた。今日は、麻婆豆腐だ。
「中室さんが謹慎中なんですよ。詳しくは言えませんけど、そのおかげで俺の仕事が激増して死にそうです」
謹慎理由に心当たりはあったが、知っているとは言わない方がいいだろう。
「中室さんは大変そうだけど、思ったより平和な不幸でほっとした」
「死にそうなんすよ、『俺』が」
安堵した私に、櫛田は重ねて主張する。申し訳ないが、微笑ましくて笑ってしまう。
「片付いて余裕ができたら、また食べにきて」
「ありがとうございます、ぜひ。なんかすみません、労るつもりでかけた電話で労られて」
「気にしないで。久しぶりに声が聞けて良かった」
今日の一件で鬱々していたから、おかげで癒やされた。
「先輩、相手が自分より年下だと自動的に母になりますよね。俺、先輩より強いんですけど」
思いも寄らない指摘に、少し苦笑する。言われてみれば、確かにそうかもしれない。
「意識したことなかったけど、教職だしね。年下は、それだけで守る理由になってるのかも」
一ヶ月しか違わないのに、一生面倒を見ようと思った人間が近くにいたせいだろうか。刷り込みとは恐ろしい。千聡も、あの誓いから逃れられなくなっているのかもしれない。喉の詰まるような感覚に小さく咳をして、胸を押さえる。
「なら、俺は仕事に戻ります」
「無理しないようにね。電話、ありがとう」
挨拶に応えて礼を返し、通話を終える。息苦しい胸で数度、深呼吸を繰り返す。開いた着信履歴を眺めて少し迷ったあと、一つを選んだ。
学校で起きた朝晴の一件を伝えると、千聡は、ああ、と事もなげに答えた。
「手が吹っ飛んだんだけど」
「当たり前だ。俺の女に手を出して、ただで済むはずないだろ」
「一昔前のヤンキーみたいなこと言うのやめて」
項垂れつつ、淹れたばかりのジャスミンティーを差し出す。立ち上る華やかな香りに胸を宥められ、長い息を吐いた。
昨日は結局泊まっていったが、「私の記憶では」そんな風に所有権を主張されるようなことは何もなかった。
「やっぱり昨日、寝てる間になんかした?」
「そんな性癖はない。ただクズに掛ける情を持ち合わせてないだけだ」
手は出していないが、術は掛けたのだろう。思うところがないわけではないものの、その容赦のなさに救われたのは確かだ。朝晴は遺言とは裏腹に執着を見せ、私を道連れにしようとしている。土曜で全てが終わるまでは、また出てくるかもしれない。
「助けてくれて、ありがとう。修行に集中しなきゃいけないのに、いろいろとごめんね」
「気にするな。自分の欲に従って動いてるだけだ。俺は、先代とは違うからな」
千聡は自嘲気味に答えて視線を伏せ、ジャスミンティーを飲む。
「別に、先代と同じになる必要はないんじゃない? 千聡くんには千聡くんの良さがあるんだし」
控えめに返した言葉に返事はなく、鈍い沈黙が流れた。何か、間違ったことを言ってしまったのだろうか。
「死ぬほど説得力がない」
やがて千聡はジャスミンティーを飲み干し、手を合わせて腰を上げる。死ぬほど、とは。
足早に玄関へ向かう背を追ってはみたものの、なんと声をかければいいのか分からない。
千聡は草履を履いたあと振り向き、戸惑う私を見下ろす。
「抱き締めてもいいか」
律儀に許可を求める千聡を見上げる。昨日はあまりの荒み具合に頼ってしまったが、良くないのは分かっている。
頭を横に振ればそれ以上は求めず、千聡は大人しく私の瞼を撫でて帰って行った。
早く、離れなければ。
数度唾を飲んでも消えない喉のわだかまりに俯き、顔を覆った。
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