第11話
「病室の荷物は、こっちで引き取ってまた持って行きます。でも、家で大丈夫なんですか」
「ひとまず暁に簡易的な結界を張って、凌げるようにする」
そうですか、と安堵したように返す隣の櫛田を見上げる。千聡よりは少し視線が低いから、一七二か三くらいか。相変わらず柔和で穏やかな表情だった。
ようやく慌ただしさの落ち着いたらしい廊下へ出て、頭を下げる。
「今日は、ありがとうございました。本当にお世話になってしまって。あ、上着を」
「着てってください、大丈夫ですんで」
思い出して上着を脱ごうとした私を、櫛田は止めた。
「多分、しばらくの間はお伺いしていろいろ聞くことになると思います。その時にでも、返してください」
すまなげに付け加えられた予定に、苦笑で頷く。とはいえ事件解決のためだし、私も真実が知りたい。
「すみません、剣上さん。最後に一つ、質問よろしいでしょうか」
切り出した中室に、緩んでいた気を引き締める。何を聞かれるのだろう。
「なんでしょうか」
「二高から教育委員会へ異動してご主人を評価した人の名前、聞かれました?」
予想もしなかった向きの問いに、え、と拍子抜けした声を漏らす。そんなこと、なんの関係があるのだろう。
「いえ。そういう人がいたってことも、今日聞いたばかりなんです。あの、よろしければ今、聞いてみましょうか」
「すみません。お手数おかけしますが、お願いしていいですかね」
丁寧な口調ながら断れない圧に、病衣のポケットから携帯を取り出す。
朝晴に、かけるのか。面と向かったら思うより勇気のいる選択だったが、仕方ない。一息ついて淀む胸を静め、着信履歴から朝晴を選んだ。
すぐ途切れた呼び出し音に口を開くが、話し始めるより早く熱っぽく私を呼ぶ声がした。肌を這い上がる悪寒に携帯を落としそうになって、慌てる。
「良かった、考え直してくれたんだね」
馬鹿じゃないの、をまた飲み込んで溜め息をついた。
「そうじゃないの、ちょっと聞きたいことがあって」
どうして電話をかけただけで、そんな馬鹿な解釈になるのか。三人がいるのを忘れて額を押さえたあと、思い出して背を向けた。
「今日、二高から教育委員会に異動して私のことを評価してた人の話をしたでしょ? なんて人?」
項垂れつつ尋ねる私の肩を、誰かがつつく。振り向くと、千聡が『スピーカーにして』のメモを見せた。恥を晒すようで気は進まないが、仕方ない。携帯を少し離し、スピーカーに切り替えて振り向いた。
「なんで君がそんなこと聞くの」
躊躇する反応に、中室と櫛田の表情が引き締まる。何か、あるのだろうか。
「ちょっと気になったの、誰だろうって」
「じゃあ、会った時に教えるよ。明日お見舞いに行くから」
「いや、見舞いはいいよ。今教えて欲しいんだけど」
なんでこんな情けない会話を披露しなくてはならないのか。着実に精神力が削られていく。
「離婚届を出すまでは、僕達は夫婦なんだよ。そんな風に避けたら、ちゃんと話し合えないだろう」
この状況の、どこに話し合う余地があるのか。とはいえそれを今言うと、余計拗れるだろう。早く終わらせたい。
「その話はまた」
「納得できるまで離婚届は書かないからな! 僕が書かなかったら、一生離婚できないんだぞ!」
有責配偶者とは思えない発言が飛び出したところで、向かいの中室が手をちょいちょいと動かし「貸せ」の仕草をした。もう、本職にシメてもらう方がいいだろう。
溜め息で託した携帯を掴み、中室は廊下を奥へ向かう。
「すみません、急にお願いしてしまって。ちょっと急ぎで確かめたいことだったもので」
詫びる櫛田に、ふと気づく。もしかして教育委員会の、まだ葬式もできない誰かの一件か。
「気にしないでください。今、ちらっと思い当たりました」
「旦那、離婚を渋ってるんだな」
話題をぶった切る不穏な声に、びくりとする。しまった。おそるおそる振り向くと、微笑みにそぐわぬ恐ろしい圧があった。これは、まずいかもしれない。
「櫛田、被害届は握り潰せよ」
「無理っすよ」
「じゃあ、手を出さなくていいから誘い出せ。日本海に沈める」
「俺の刑事人生を終わらせようとしないでください」
極めてまっとうで常識的な櫛田の返答に、千聡は太い指先で顎をさすった。
「仕方ない、呪い殺すか」
「今、そんなシャレにならないこと言います?」
櫛田は言い返して、大仰に溜め息をつく。確かに、性質が悪いにもほどがある。
「大丈夫ですよ。オフレコですけど、中室さんバツイチなんです。さっき明らかに苛ついてましたし、ぎっちりシメてくれますから」
それなら、信用しても良さそうな気がする。同じ離婚を言い渡された者同士、かどうかは分からないが、朝晴の潔くない姿が気に触ったのだろう。
納得して頷き、千聡の表情を確かめる。全く納得してなさそうな顔つきに、項垂れた。
「お坊さんになったんだから、もう物騒なことしたらだめでしょ」
「御仏の慈悲(物理)だ。地獄が見えるまで殴れば改心する」
「先輩、ここ警察署って分かってます?」
あの頃のまま、脳筋僧侶になってしまったらしい。
「とにかく、物理も呪詛もだめだからね。分かった?」
呆れながら言い渡す私を避けるように、千聡は顔を背けて中室を迎える。逃げたな。
「すみません、お手数をお掛けしました」
「いえ、こちらこそいやな思いをさせてしまいまして。まあ」
手刀で詫びつつ、中室は携帯を私へ差し出す。ふと、笑みが不穏なものを湛えた。
「もう二度と、あんなことは言い出されないと思いますので」
醸し出される圧に、思わず黙る。
「中室さん、怖がらせてどうすんですか」
「ああ、すみません。ちょっと苛立ったもので。それで、お疲れのとこ本当に申し訳ないんですが、ちょっと情報を確かめさせてもらっていいですかね」
態度を戻し、中室は再び丁寧ですまなげな姿勢で尋ねる。涙目で、小さく頷いた。
「ご主人が仰るには、件の教員は
続いた予想外の名前に、怯えが驚愕へとすり替わる。そんなはずがない。ありえない。
「ありえません、考えられません」
慌ただしく頭を横に振り、顔を覆う。いやだ、思い出したくない。脳裏で蘇りそうになる記憶を必死に追いやり、手の内で深呼吸を繰り返す。
不意に肩を抱く手に、びくりとした。
「それは、今でなければならないことですか」
千聡は私を抱き寄せつつ、硬い声で尋ねる。
「ご無理を強いて申し訳ありません。今話せることだけでいいんです。どうか、助けていただけないでしょうか」
見えていないから余計、声が切実なのが分かる。死んだのが、逆藤だったのか。一瞬湧いたどうしようもなく暗い思いを押し込め、唇を噛む。それでも間を縫って滑り落ちた「ざまあみろ」が、腹の底で蠢いた。これ以上、人として惨めにはなりたくない。
もう一度ゆっくりと深呼吸して、手を下ろす。それでも、正面は向けなかった。固く握り締めた拳が、震えて収まらない。
「二高にいたのは、間違いありません。面識もあります。あるどころか、それこそ進路実績を理由にいやがらせをし続けて……私に、退職を決意させた人なので」
勇気を振り絞った声はそれでも小さく、掠れて心許なく震えた。
――いいよねえ、生徒に色目が使える人は。私も先生みたいにプライドを捨てられたら、もっと実績挙げられるんだろうけど。
ああ、だめだ。吐き気がする。
「もういいでしょう。連れて帰ります」
抱き上げる千聡の腕が、今は心強くてたまらない。逃げたくせに、こんな時だけ頼るのか。それでも今は、突き放せる気力も気概もない。
覚束ない頭を堅牢な肩に預け、揺らぐ視界を閉じる。もう何も見たくないし、考えたくない。でも、これで終わらないのだろう。
「どうして、俺を頼らなかった」
上から降る硬い声に、小さく頭を横に振る。
そんなこと、できるわけがない。私はもう朝晴と付き合っていたし、二高の二年目は婚約までしていた。それに。脳裏を掠める記憶を掻き消し、一息つく。たとえどんな理由であっても、会っていいと思えなかっただけだ。
もちろん、千聡を忘れるために朝晴と付き合ったわけではない。ちゃんと好きになったし、幸せになれると思ったからプロポーズも笑顔で即答した。でも会えば朝晴を裏切ることになると、「ただの知り合い」とは言い逃れできないと分かっていた。
「だって、頼んだら海に沈めるか山に埋めるでしょ」
隠した答えに、千聡は小さく笑う。エレベーターを選ばなかった足が、階段を下っていく。緩く伝わる揺れが、心地よい。
「変わってないな」
どことなく気落ちしたように聞こえて、薄く目を開けた。数年前に旧市街から移転した署は、まだ劣化の気配もない。煌々と灯る階段の照明が、千聡の精悍な横顔を余すところなく照らしていた。よく日に焼けた肌は健康そうで、顎の線は引き締まっている。
「暁は昔から、一番聞きたいことを隠す。まあ、それだけ俺が頼りないってことなんだろうけど」
「そうじゃないよ」
頭を起こして反射的に言い返したあと、次を探しあぐねて黙る。掻き消したばかりの記憶が蘇って、視線を落とした。言えなかったのは、千聡が頼りなかったからではない。私があまりにも。
――ゴミが千聡と釣り合うと思ってんの? 早く死んでくれない?
――暁ちゃんを千聡に嫁がせようなんて、馬鹿なことは考えないでくださいね。
あまりにも望まれていないと、知っていたからだ。
「全部、千聡くんのせいじゃない」
捻り出した言葉は、あまりに大雑把で適当な括りだった。「全部」なんて言われて、誰が納得するのか。
溜め息をついて、また肩に頭を預ける。そうか、と短く許す大人しい声が聞こえて、泣きそうになった。
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