TouchdownUnbound〈タッチダウン・アンバウンド〉

佐倉花梨

序章 暗黒物質

 遥か遠い金星から飛来したと、そう天文学者は語る。それはある意味間違いないのだろう。黒色に包まれたその金属体は地球のものではないように思える。

 私はここ十日ほど、何の目的があるのかもわからず、悪魔的な見た目のそれを真下から、じっと見やっている。

 ただの海兵にしてはシールズのように高給だし、手当も充実しているから、ここを自ら選んだ。

暗黒物質ダークマター〉を監視し、侵入者を防ぐこと。それがこの、警備員アルバイトのような仕事内容だ。

 だが最近になって、精神面が不安になってきた。原因は分かりきっているものの、なぜかここから離れられない。

 今日も装備を着て、女には重いM4A1を持って、ぬるい風が吹き荒れるもともと住宅地があった場所に、足を踏み出した。

暗黒物質ダークマター〉が排出する雲のようなそれに阻まれ、日光ほとんどが降り注がず寒い。ここは太平洋有数のリゾート地のオアフ島だったにもかかわらず、変わってしまった。

 寂れた高級住宅街を少しだけ歩き、頑丈なガレージのシャッターを開けて、陸軍が残していったハンヴィーを見る。

 そろそろ燃料が尽きそうなので、また本部に要請しなければならない。ホノルルまで行くのは少し面倒だ。


『こちらデルタ。アルファー、応答せよ」


 ハンヴィーに置きっぱなしの無線が鳴っている。

暗黒物質ダークマター〉に阻まれる無線通信に耐えうる無線は重量があるから、持ち運ぶのが億劫だ。このタイミングで来てくれて助かった。


「こちらアルファー。用件を、オーバー」


『〈暗黒物質ダークマター〉に異常発生。繰り返す、〈暗黒物質ダークマター〉に異常発生。膨張、または災害の恐れありとのこと。至急その場を離れろ。オーバー』


「了解。ブラボーに後退する」


 ここで高給を手放すのは惜しいが、三十代で死ぬのはやるせない。ハンヴィーに乗り、爆音を立ててガレージを出た。

 数年ぶりの膨張か、もしくは今年も自然災害の予兆か。

 今日もメディアへの対応が面倒臭くなるなと、私は思った。

 早くなくなってくれよと、願うばかりだった。


『こちらチャーリー! アルファー、ブラボー、速やかに撤退せよ! 速やかに――』


 ヘッドホンに響いた耳を劈くような、その高周波の音。無線が切れてしまった時とはまた違う、無音ではないが音はある。

 回線の障害だろうか。即刻撤退しろとのことだったが、私は今ハンヴィーでブラボーに向かっている。チャーリーかデルタに目的地を変えればいいだろう。


『――あなたは』


 ヘッドホンから、だがまるで私の脳に直接語りかけるように、少女のような可憐な声が響いた。

 おそらくチャーリーかデルタからの無線だろうか。まさか当直の兵士が子供を連れてきたのだろうか? もしそれだとしたら大問題だ。

 現在のハワイ諸島は一般人の立ち入りを全面禁止。米海兵しか入れないようになっている。軍事の最高機密を見せるなど、言語道断だ。


『あなたは、アダム?』


 アダム。

 旧約聖書の創世記に記されている人名だ。この少女は、何をもってして私をアダムだと、そう思ったのだろうか。

 荒廃した舗装道路をハンヴィーで駆け抜けつつ、トランシーバーを握る。


「私のこと? 私は教えられないかな」


 ほかの兵士たちにも聞こえていると思ったが、どうやら秘密回線のようだ。少女がそんな設定をできるわけがないと思うが、適当にボタンを押したのだろうか。


『じゃあ、聞き方を変えるわ』


 一拍置き。


『あなたは、わたくしのもうひとつ?』


 言葉として破綻した質問だということは一瞬聞いただけでも明らかだった。第一に、人間にもう一つなどと言ったコピーのような、概念は存在しない。


『あなたはアダムじゃないようね、残念』


 どこか落胆した様子で、少女は言った。

 ハンヴィーがよろける。走行状態は安定していたはずだ。

 もともと未舗装の道路でも安定して走れるように設計され、その信頼性からアメリカ軍に全面的に採用されていた車輛だ。

 仮に少しの段差があったとしても無問題のはずなのに。

 荒れ果てたスクールバスに激突。撃鉄の音が響き、私の焦燥が最高潮に達してしまった。ハンドルを切っても、いうことを聞いてくれない。此処で終わりなのか。こんなところで。嗚呼、神よ。私を――。

                  2011年3月10日未明

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る