第8話 元勇者の魔王、宿屋へ帰還
下水道の入り口、そこで引きずっていた荷物を手放す。
荷物は三つ。
その場に横たわるのは、先程気絶させた冒険者三名。
流石にあの場所に放置するのも躊躇われたので、ここまで運んできた。
彼らも冒険者の端くれ、意識が戻れば自力で帰れるだろう。
そもそも過剰な攻撃は加えていないのだし、問題はない、はずだ。
既に日は沈んでおり、王都には夜が訪れていた。
動き辛いのを我慢しつつ、石畳の上に靴音を響かせながら、宿屋へと向かう。
昼間の喧騒とは打って変わって、夜の王都は静まり返っていた。
いや、そうでもないのか。
静まり返っているのは王都の半分ほど。
南側は酒場などもあるため、夜こそが最も賑わいを見せている。
が、まだ南側には達していないため、周囲は静かだ。
静寂が耳に痛いという程に無音というわけではなく、環境音として屋内の話し声や物音が漏れ聞こえている。
出歩いてる人影はない。
何処だか、自分と他人とが世界を分け隔てられたような、妙な
これも初めての感覚だ。
勇者だった頃には感じることのなかったもの。
勇者とは、一体どれだけの感情を抑制されていたのだろうか。
どれだけの感情が押し殺されて、あの魔王討伐の旅路を完遂し得たのか。
ならば、仲間たちはどうだったのだろう。
俺には無い感情と向き合っていたのか。
だとしたら、随分と無神経なことを口にしていたかもしれない。
妙に懐かしいな。
そう言えば、仲間たちのことを思い出したのも、随分と久しぶりな気がする。
夜道は随分と人を感傷的にさせるらしかった。
さて、辿り着いてしまった。
眼前には最早故郷の生家よりも馴染み深い宿屋がある。
いや、馴染み深いと言うよりかは、忘れ難いと言うべきだろうか。
その理由は勿論のこと――。
「おや、誰が宿屋の前で突っ立ってるのかと思えば、勇者じゃないかい。アンタ、金は用意できたんだろうね? でなきゃ中には入らせないよ」
「えぇっと……大変申し上げにくいのですが……」
「って、くっさぁっ!? アンタ、また臭いじゃないか!? ……ったく、さっさと風呂に入っちまいな! 何時までも入り口に居られちゃ、折角の客も逃げて行っちまうじゃないか!」
「……はい、済みません。またご厄介になります」
「いいかい? 一日も早く、宿代を払わないと、承知しないからね!」
「ハ、ハイ! 分かってます!」
「ならさっさと行きな! 今日はやたらと臭いんだよアンタ!」
「ハィーーッ!」
宿屋の女将に急き立てられるままに、急いで風呂へと向かう。
……どうやらバレてはいないらしい。
とはいえ、まだ油断はできないのだが。
脱衣場内を軽く見て回り、誰も風呂場を利用していないことを確認する。
脱衣所で服を脱ぐことで、ようやく動き辛さが解消された。
ボトボトと足元に落ちる三つの塊。
それらが自ずと動き出す。
そう、スライムたちである。
あの場に残していくわけにもいかず、同意の元、薄く伸びた状態で身体に張り付いて貰い、こうして連れて来たわけだった。
『ソト、ヒサビサ!』
『ココ、ヒロビロ!?』
『オヤド、トウチャク?』
人間の建物が物珍しいのか、辺りを跳ね回っている。
「他の人がいつ来るとも限りませんから、あまり悠長にはしていられません。さぁ、手早くお風呂に入りますよ」
『オフロ、ナニソレ?』
「お風呂というのは、人間が身体を洗う場所のことです。俺も君たちも下水道の臭いが付いてしまっているので、それを洗い流します」
『キレイ、ナル!』
『ニオイ、トレル!?』
『キタナイ、オサラバ?』
俺の言葉を理解できたのか、興奮した様子で先程よりも多く跳ねながら風呂場へと付いて来る。
石鹸で体を洗い、湯で泡を流す。
スライムたちは表面だけでなく、体内も下水道の汚水や汚物で汚れている。
少し不安ではあったが、石鹸の泡を吸収して貰う。
何度かそれを繰り返すことで、透明な体色を取り戻していった。
臭いも汚れも取れたことを確認し、一人と三体で湯船に浸かる。
お湯に触れるのは初めての経験だったのか、スライムたちはその熱さに戸惑いつつも、次第に慣れてきたのか、身を薄く広げながら水面を漂っている。
何だかいつも以上にのんびりとした入浴。
一応、室外の気配には気を付けつつも、結局、誰も来ることはなかった。
風呂から上がり、また服の下に隠れて貰おうとして、ハタと気が付く。
また同じ過ちを犯してしまった。
今まで着ていた服は臭いが付いているのだ。
部屋まで着て行くと、せっかく風呂で臭いを取った意味が無くなってしまう。
昼間のように下着姿のまま部屋に行くにしても、今度はスライムたちをどうしたものか。
一番薄くさせることで、どうにか視認性を限りなく下げられはするだろう。
身体に張り付かせるか、床を這わせるか。
だが、宿泊客の中には冒険者も居ることだろう。
それに加えて、一番の問題は宿屋の女将だ。
もしもスライムたちが見つかりでもすれば、文字どおりただでは済まされない。
とはいえ、下着の中に隠れさせるのは、面積的な意味でも倫理的な意味でも、難しいと言わざるを得ない。
この場に仲間の戦士が居たならば。
あの無駄なアフロが、珍しく役に立ったかもしれないのに。
戦士という職業は、攻撃よりも防御に優れている。
が、仲間の戦士は違った。
より正確には、一部分だけ常に欠けていたのだ。
髪の毛の所為で、兜を装備できないという欠陥を抱えていた。
やたらとその髪型に
――と、あのアフロを思い出している場合ではない。
どうにも思考が横に逸れてしまう。
こうなったら仕方がない。
スライムたちは背中に張り付かせて、俺が壁に背を向けた状態を維持しながら、部屋まで移動するしかあるまい。
もしも道中、誰かに遭遇してバレそうになった場合には、闇魔法を使用して視界を奪うとしよう。
力技だ。
とにかく部屋まで辿り着ければ良い。
「じゃあ、部屋まで戻ります。部屋に着くまでの間、できる限り薄くなって俺の背中に張り付いてください。良いですか?」
『ワカッタ、オマカセ!』
『ウスク、ノビル!?』
『ミンナデ、クッツク?』
「……良いですね? それでは行きますよ」
脱衣所の扉を開く。
――と、速攻で最大の障害に遭遇した。
「――アンタ、何て恰好してるんだい!? そんな恰好のまま、宿屋の中をうろつくつもりじゃないだろうね?」
いきなり出鼻を挫かれた!?
扉を開けると、そこには宿屋の女将が待ち構えていた!
「何だい、まだ風呂に入ってたのかい!? まったく、勇者様は随分と長湯だったみたいだねぇ? 良いご身分だこと! ったく、ちょっとは自分の立場ってものを弁えて、謙虚に過ごせないもんかね、えぇ?」
「…………」
「……あん? 何を黙ったまま突っ立ってるんだい? ……まさか、風呂場で何か仕出かしたわけじゃあるまいね!? ちょっとどきな!」
太い腕で俺の身を横に押しのけ、宿屋の女将が脱衣場へと押し入る。
「っ!?」
これぞ好機とばかりに、壁を背に全力の横走りで部屋へと向かう。
「何も変わったところはないみたいだけど……やましい所が無いなら、何をしたのかハッキリ言ってみな! ――ってどこに行ったんだい、あの勇者は!?」
そんな声を遠くに聞きつつ、素早く二階へと上がる。
残すは廊下の直線だけ。
このまま行く。
と、すぐそばのドアが開かれる。
反射的に魔法を使用した。
≪
「うわっ!? 誰だ!? 屋内で闇魔法を使いやがった馬鹿は!?」
済みません、緊急事態なんです、命の危機なんです。
心の中で謝罪をしつつも、どうにか部屋へと辿り着いた。
背後で閉まるドア。
ふぅ、一時はどうなることかと思ったけど。
どうにか無事に遣り遂げられたみたいだ。
「――もう背中から離れても大丈夫ですよ」
『マオウサマ、アリガト!』
『スニーク、ミッション!?』
『コンプリート、グッジョブ?』
意味が分かるようで分からないようなことを言われた。
まぁ、何だ。
兎にも角にも疲れた。
こんなに疲れたのは、いつ以来だっただろうか。
それこそ、旅をしていた頃ぐらいまで遡らねばならないだろう。
随分と疲れる一日だった。
宿屋の女将に追い立てられ、ギルド、転職場、ギルド、下水道、城門、宿屋、王城、ギルド、下水道、と移動した挙句、そして現在、宿屋に戻って来たわけだ。
王都内から出てはいないものの、過酷で濃密な一日だった。
……それにしても、もう勇者ではなくなったんだな。
生まれてからずっと勇者だったのだ。
それが当たり前で。
魔王討伐の旅に出て、ずっとずっと旅を続けて、どうにか魔王を倒すことができた。
それからはずっと王都に居る。
そうやって今日までずっと勇者だったのだ。
何だろう。
この胸に去来する気持ちは。
喪失感だろうか、寂寥感だろうか。
――それとも、開放感だろうか。
既に勇者としての責任は果たし終えていたに等しい。
とはいえ、勇者であり続ける以上は、それなりの振る舞いを否が応でも求められてきた。
それが今や無い。
最早自由だ。
だが、楽になったという感覚もない。
どこか他人事のように思えてならない。
本当に俺は勇者ではなくなったのだろうか。
『マオウサマ、オヘヤ!』
『オヘヤ、セマイ!?』
『モノ、スクナイ?』
俺の疑問に答えるように、頭に声が響いてきた。
そうだな。
こうしてスライムたちの声が聞こえるんだ。
もう俺は勇者ではなく、魔王になったのだ。
……それはそれで大変そうな気がしてきた。
そもそも今日のゴタゴタの殆どは魔王になったが故の事態だったように思える。
…………。
ま、まぁ、他の選択肢は無かったわけだし、なるようになっただけだろう。
きっと、多分。
…………。
げ、元気出して行こうぜ!
もう後戻りはできないんだし、これからは魔王として生きて行けばいいさ!
ベットに腰かけながら、先のことはあまり考えないようにする。
今日はもうこれ以上考え事をするのは無理だ。
全ては明日に丸投げしよう。
明日から頑張れば良いのだ。
今日はもう寝よう。
もう俺の許容量は限界です。
「じゃあ、ベッドに上がってください。床に居ると他の人に見つかるかもしれませんからね」
『ワカッタ、ソウスル!』
『ベッド、ハジメテ!?』
『フカフカ、フワフワ?』
スライムたちに声を掛け、ベッドへと移動させる。
その様子を見届けてから、ベッドに横になる。
すると途端に睡魔が襲って来る。
あー、もう、意識が、保て、な、い。
それに抗えず、眠りに落ちた。
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