第3話 巫女
日が傾く頃、父から話があると言伝に知らされたアリーシアは、侍女を引き連れて聖堂にある父の執務室へと向かっていた。移動する間も、昨夜の出来事を忘れられずにいた。ユグムが目の前で倒れたあの一件だ。
聖堂は、城壁内にある施設であるが、城壁内も広い。城壁内の端の端、聳え立つ岩壁に隣接された施設であるから、急ぐのなら馬車を利用してもいいほどには距離がある。身に付ける服だって長い距離を歩くのに適してはいない。ベールは常に床に引きずっているし、裾も踏みそうになるくらい長い。しかし、歩いてでも外の新鮮な空気を吸いたかった。
医官の言うことには、ユグムは障界症だろうとのことだ。真っ青になった彼の顔が目に焼き付いている。今日は自室で絶対安静とのことで、アリーシアが会いに行くことは叶わなかった。
城内の浄はアリーシアの仕事だ。数いる巫女たちの指揮を取る立場にあるので、今日は大忙しだった。しかし、ユグムの事が脳裏にちらと浮かんでは、誰にも悟られないようにこっそりため息をついていた。
城内は暗い雰囲気で満ちている。それは誰の目から見ても明らかだ。王が亡くなられて、王子も倒れた。王子がお倒れになったことは、モゾマの命によって箝口令がしかれた。臣民の不安をこれ以上煽らないための配慮であるが、昨日アリーシアが騒いでしまったので城内の人間のほとんどがその一件を把握していた。動揺していたものの、もっと上手くユグムの異変を伝えられたらよかったと後悔する。
秘密を強いられるほど話してしまいたくなるものなのか、ひそひそと噂話をしている使用人を何人か見かけた。市井にこの話が出回るのも時間の問題だろう。早く、ユグムが回復してくれるといいが。
これ以上、彼の心労を増やすようなことが起こらなければいいと強く願う。
アリーシア一行はとうとう聖堂の門前にたどり着いた。聖堂の門番らが彼女たちに気が付き、その場で膝をついた。
「姫巫女様」
姫巫女とはアリーシアのことだ。神官の家の巫女は特別な存在であるから、そのように呼ばれる。
「お父様は議会から戻られましたでしょうか」
「まだ、いらしていません」
普段の仕事の殆どが事務処理な父であるが、国葬は彼が指揮を執り行わなければならない。実際に父と相対し話ができるのは、いつになるだろうかと思案する。普段であれば議会は終わっている頃合いなのだが、もしかしたら長引いているのかもしれない。尤も、今回開かれた議会は臨時議会と呼ばれる特殊なものであるから、通常議会と比べるのは不適切であったか。
それから、守衛らにねぎらいの言葉をかけて、アリーシアは聖堂の中に入った。
大扉を開けた先は直ぐに大きな空間を用いた礼拝堂になっている。天井が高く、左右に大きな石の円柱が聳え立ち、客人を迎える。ナゾル国の強すぎる日差しを柔らかくするために特殊加工を施された硝子窓は、大きく縦に伸び、ずらりと並べられている。その窓の効果もあって、陽光は薄い空色に変わり、静寂と相まって外とは一線を画した雰囲気に包まれる。
礼拝堂の真正面一面に、輝かんばかりの色硝子と彩色豊かな宝石で描かれた、大いなる白銀の三つ首の蛇、水の大精霊ゾルノムの巨大な壁画がある。三つの首にはそれぞれ襟巻きを想起させる大きなひだがあり、各々の頭は大輪の花のようである。この壁画は、ゾルノムを中心に、水が起こり、緑が栄え、人が誕生する様子を描いたものだ。
この壁画に光が当たるように、この壁画の照明専用に複数の窓が設置されている。その専用窓には意図的に特殊加工硝子を用いておらず、自然のままの力強い光が宝石で飾られたゾルノムの深紅の瞳を照らす。その瞳の輝きようと言ったら、何度見ようと飽きることはない。
壁画の、水が興る場所からは、実際に水が流れ落ちるようになっている。その水は、そのまま壁画をつたって、溝を伝って落ちていく。さらに水はその床まで走る溝を通り、左右に別れ、奥から手前までするすると流れるようになっている。この水は最終的に、地中に掘られた水路を通って市街まで流れる。
この水の源流は、壁画の向こう。霊泉である。ゾルノムの力が最も顕在化した神聖な場所の一つである。
アリーシアにとってこの聖堂は親しみのある場所だ。
王が亡くなられた昨日も、多くの巫女たちがここで祈りを捧げていた。
「姫巫女様」
ぼうっと壁画を眺めていたアリーシアは、侍女に指摘されて初めて気がついた。
左右にある奥へと繋がる扉、その右の扉から、女性が出てきた。アリーシアと同じ銀髪を長く垂らした、すらりと細長い手足が特徴的で、美しい意匠が細かく施された長い絹の巫女服に身を包んでおり、頭には銀のサークレットが控えめに輝き、アリーシアと同じように長いベールを垂らしている。銀のサークレットは巫女の最高位の身分を表す。
仙女と呼ばれる、アリーシアの母だ。
アリーシアは急いで膝をついて首を垂れた。母と娘の関係であるが、仙は彼女たち巫女らにとって特別な存在で、アリーシアは巫女たちの手本となるべき存在だ。よって、外で母に気安い態度をとることは許されない。
「水仙の君」
これは、仙女と呼ぶのはあまりにも恐れ多いため、彼女のことを呼ぶ際に用いられる名称だ。
「ここにいれば、あなたが来ることは分かっていましたから」
水仙の君の透き通った細い声が聖堂に響いた。アリーシアらは首を垂れているために、水仙の君の表情は読み取れない。ただ、声が掠れ気味であるから疲れていらっしゃるかしら、とアリーシアは思った。
「私をお探しになられていたのですか?」
「そうです。できれば、神官長がこちらに参られる前に、二人でお話ができたらと思っているのですが」
アリーシアがゆっくり顔を上げると、そこには少し陰りのある母の微笑みがあった。それから水仙の君は「こちらへ」と手招きし、霊泉へと繋がる、壁画の真下の扉まで移動した。
「もし、お父様がこちらにいらしたら、知らせて」
「承りました」
アリーシアは侍女を残して、母の元へ向かった。霊泉の場所へ赴く事ができるのは、王族と、神官、巫女だけに限られる。二人で扉を抜けると、そこは通路だ。岩壁を削ってできたトンネルになっているので、扉を閉めると暗くなる。水仙の君は立てかけられていた松明に火を灯し、それを頼りに二人はトンネルの奥へと歩みを進めた。
「殿下はどのような様子でいらしましたか?」
水仙の君の言葉に、アリーシアはどきりとした。モゾマによってユグムの件は箝口令が敷かれているために、話していいものかどうか迷った。すると、水仙の君は「わかっている」というように優しく娘に微笑んだ。
「宰相殿が、殿下のことについてお話ししてくださいました。貴女はその場に居合わせたのですね?」
水仙の君であれば、確かに宰相から王子の容態について話されるだろう。箝口令が敷かれてることも知っているはず。だが、アリーシアの心中は重たい。目の前にいながら直前まで王子の異変に気づかなかった責任、騒ぎを大きくした責任、責めるように言われているわけではないが、アリーシアは心苦しく思う。最初から取り繕うつもりもないが、声に出すことが億劫で、アリーシアはただ頷いた。
「私が側にいたにも関わらず、このような事態になってしまって、申し訳ありませんでした」
「気にするなとは言いませんが、殿下が倒れられたことはあなたに責任はありません」
水仙の君はアリーシアの隣に立ち、彼女の背中を支えた。
「それに私には、貴女を責める資格などありませんから」
岩の洞窟を抜けると、陽光が届くぽっかりとした広い空間に出る。この場所を上から見ると、聖堂が隣接している岩壁に杭を用いて穴を開けたような形になっている。
最初は眩しさに目が眩むが、光に慣れくると、若々しい緑の草が生い茂り、淡い色の花々が賑やかに咲いている光景が広がる。耳をすませば、ぽこぽこと水の涌く気泡の音、遠くで囀る小鳥の声が、その場にいる者の心身に浸透していく。中央にある大きな泉は、ゾルノムの霊水の源泉、霊泉だ。
目的地にたどり着いた水仙の君は、草原に足を踏み入れる前に、手にしていた松明を消して岩に設置された燭台に挿した。火を持ち込むことは水の大精霊への不敬に当たるとされるためだ。
二人きりで落ち着ける場所に到着したからか、水仙の君は頭のベール付きのサークレットを外した。アリーシアもそれに倣った。
アリーシアは水仙の君に続いて進む。
「昨日とは打って変わって、静かな風景ね……」
水仙の君は独り言ちた。
霊泉から水を汲み上げる装置など無い。昨夜使用された霊水は聖堂に所属する人間が総動員となって汲み上げたのだ。一度にあれほどの人数がここに来たことはアリーシアの記憶する限り初めてだった。本来、限られた人物でしかこの場所には来られない。
二人は泉の淵に腰を下ろした。
「殿下の容態は、現在は落ち着いていらっしゃるようです。主治医様がこっそりお使いを寄越してくださいました」
「あの時、気が動転して必要以上に騒いでしまったんです」
「大切な人が倒れたら、誰だってそうなるのです」
水仙の君はアリーシアを労うが、彼女の方こそ精神が参っているように思えた。顔色の血色がよろしくないし、肌もつっぱっている。
ユグムとアリーシアと同じように、亡くなられた陛下と水仙の君は古い友人だったのだ。
「お母様の方こそ、どうか自分を責めないで」
陛下が倒れられてから、母は熱心に祈りを捧げていた。どうかゾルノムが陛下を見限ることがないように、彼の加護が与えられるように。
しかし、王の容態は好転する事なく、ついには亡くなってしまった。
陛下の訃報が知らされた時の、人形のように表情がなくなった母の顔が忘れられない。
アリーシアの言葉に微笑むが、水仙の君はそれはできないと首を横に振る。
「私は『仙』と呼ばれる者です。王に尽力し、大精霊との交信を支えるのが私の役目。私は親友を死なせるに飽き足らず、今度は陛下をも死なせてしまった」
水仙の君の言う親友とは、恐らくユグムの母君である王妃のことだろう。
出産が命がけであることは、医術が進歩した現在でも変わらない。
しかし、それ以上に水仙の君が自分を責めるのは、ゾルノムに関係がある。ゾルノムの力は生命を活性化させる作用がある。それがわかりやすく理解できるのは、ナゾルの国を始めとする水に属する国の殆どが他と比べて国民の寿命が長いところだろうか。
水を豊かにする以上の力がゾルノムにはある。
そうであるからして、彼の存在と最も縁のある王族の急死は、単なる人の死以上の意味を含む。そして、王と王妃共々亡くなった。
「私たち一族は、修練によって受容する力を養い、大精霊との関係を保ってきました。直接大精霊と交流することは叶わずとも、気配や意思を察知する事ができます」
本家である王家とは違い、神官の家系のゾルノムとの交流は、ゾルノムから一方的に行われる。祈りを捧げることで、ゾルノムに意思を伝えることはできるとされるが、大精霊がその意思に応えるかどうかはあちらの気分次第と言わざるを得ない。
その代わり、彼女らは天啓に似た現象によってゾルノムの意思を明確に知る事ができる。夢や、白昼夢のような現象が起こるのだ。
「私は、しばらく大精霊の気配を感じていません。少なくとも半年は」
その言葉にアリーシアは声が出なかった。確かに大精霊は気まぐれだ。しかし、通常であれば一月に数回はゾルノムからの接触はあるはずである。ゾルノムからの意思を受け取った仙女は、その内容を紙にしたためる。神官長が仲介役となり、それは王の元まで運ばれる。ゾルノムの意思は国の機密情報なので内容を確認できるのは王と神官長のみである。紙はすぐに燃やされる。その後で、厳重に守られた城内の『記憶の部屋』と呼ばれる場所で神官長が記録を残すらしい。らしい、と言うのはアリーシアも『記憶の部屋』についてはよく知らないためだ。それらしい部屋や施設を探してみたこともあったが、何処にも見当たらなかった。
そういえば、最後に母が天啓の報告を書いていたのは、いつだっただろうか?
「大精霊は、いくら私が祈っても応えてくれませんでした。貴女には、何か接触はありましたか?」
アリーシアは首を振った。基本的に、大精霊と交信する事が出来るようになるのは成人する頃だ。現在アリーシアができることといったら、ほんのりと気配を感じることだけだ。だが確かに、しばらく大精霊の気配を感じてはいなかった。そのことに対しては、年齢的な理由を根拠とし疑問を持たなかった。まさか、母も大精霊を感知できないなんて思ってもいなかった。
「大精霊は私たちを見放しでしまったのでしょうか」
水仙の君は弱っていた。アリーシアは昨日のユグムを思い出していた。不安と責任に押しつぶされそうになっている彼の顔と、今の母の顔はどこか通じている。
「大精霊が私たちを見放すなんて、とんでもありません。きっと不幸が重なったのです。それにより通じづらくなってしまっているだけで、決して大精霊は私たちから離れてなどいません」
事の真意はわからない。だが、アリーシアは信じるしかない。時が経てば、ユグムが即位する頃には、再び大精霊との絆は強くなる。母も、そして自分も彼の存在の意思を汲み取れるようになるはずだ。
「私たちは、これから殿下を支えなければならないのです。彼もまた、大きな試練に晒されています。即位の時まで、たとえ大精霊の声が聞こえずとも、聞こえないからこそ、力になって差し上げなくては」
アリーシアは母を鼓舞した。そして自らも勇気づけた。
水仙の君は力なく瞳を閉じた。
「エレシエン、アリーシア」
後方から声がした。二人は声のした方へ振り返った。エレシエンとは水仙の君の名前だ。彼女を本名で呼ぶ人間は限られる。
「お父様」
アリーシアの父、コルボだ。
「エニス達から二人がここにいるって聞いたんだがね、私も泉を見たくて、結局来てしまったよ」
エニスとはアリーシアの侍女頭の名前である。
人の良さそうな笑みを浮かべる恰幅のいい男は、エレシエンの隣に立って彼女の肩を抱いた。
「疲れたろう」
エレシエンはその言葉に同意することはなかったが、微かに微笑んだ。コルボはそのまま妻に寄り添って体を密着させた。揺り籠をゆらすように、体を左右に揺らして彼女を安心させる。恐らく父は母の不安を共有してたのだろうと察した。
「本当に、大変だったね。ハリムのことは、……残念だ」
陽気なコルボが普段見せない遠い眼差しは、二度と会えない友人への哀悼である。
「アリーシアも呼び出したのに、結局こんなに待たせてしまった。申し訳なかったよ」
「いいえ、そんなことありません。お母様とお話しできて、よかったです」
アリーシアは父に向き直る。コルボはアリーシアを柔らかく見つめて、ほんの少ししてから口を開いた。
「こんな時に、いやこんな時だからこそなんだけど、宰相殿から相談を受けてね。君に関係することなんだ」
エレシエンは眉を上げてコルボを見た。コルボは頷いて妻に答える。側から見ているアリーシアは両親の間で何が交わされたのかわからなかった。
「では、もしかして」
「恐らく、君の予想は間違いないと思うよ」
訳知り顔の二人に、ただ一人見当がついていないアリーシアはやきもきした。
「一体、なんのお話ですか?私に関わることでしょう?モゾマ様のご相談というのは、どんな内容だったのですか?」
エレシエンは不安そうに夫の様子を見守っている。コルボは妻の肩に手を置きながら、ゆっくり彼女から体を離した。そして今度は娘の手を取って視線を合わせる。
「君を、ユグム殿下の婚約の相手としてどうだろうか、という話さ」
アリーシアは最初、父の言葉に頭が真っ白になった。それから少し経ち、血液が勢いよく体を巡り初めて、頭にまで登って行くのを全身で感じた。
「陛下がお倒れになってから、少しずつ話題に上がるようになったんだがね。殿下のお相手について」
冷静になろうと普通に息を吸おうとするが、力が入ってしまいぎこちない動きをしてしまう。なんとか自分の言葉を紡ごうとするが、どうしてもまとまらず吃ってしまう。込み上げる恥ずかしさを堪えて、アリーシアは平静を装った。
「私は、神官の家の娘でしょう?」
神官の家は王家を支えるための一族だ。よって、政治的権力を王家に集中させるために、はっきりこの二つの家は区別されている。まず、交信の儀式は神官の家の者はできない。行うことができるのは王位継承権のある王家の嫡子のみ。そして、政治に関する全ての決定権を持たない。王の相談役としての役割以上の権限は持たない。また、基本的に二つの家同士で婚姻を結ぶことは許されない。神官の家が下手に力をつけ、政治的混乱を招くことを避けるためだ。
だからこそ、アリーシアは父の話に虚をつかれた。ユグムは他の女性と結ばれると思っていたし、自分もまた違う男性と結婚するのだろうと、なんとなく思っていた。
「確かに今までは、二つの家の婚姻は禁止されてきたけどもね。彼が言うには、アモラの血族を統合させることで民の不安を和らげたいんだそうな」
混乱している娘が少しでも落ち着くように、彼女に合わせてコルボは説明する。
「殿下は、不幸にも全ての家族を亡くしてしまった。さらに、即位まで短くない時間を過ごさなければならない。ただでさえ国が荒れるであろうその間に、殿下の婚姻相手について議論している暇はないらしいよ。これは、宰相殿の言い分だけどね」
コルボは続ける。
「また、まだ若い殿下に取り入って血を蔑ろにする外戚を発生させたくないそうだ。そうった人間は、ほとんどが権利も力も持たないにもかかわらず権力欲に取り憑かれている。多分、宰相殿が考える中で、うちが一番ましだったんじゃないかな。私が殿下の外戚になったところで、邪な企てに手を出せるほど、私の頭はよくないからね。私にできることは、記録をとることと、規則を暗記することぐらいだから」
これはコルボの謙遜だ。彼は非常に優れた人間である。そうでなければ仙の配偶者に選ばれることなどあり得ない。神官長という地位は、仙に付随されるものであるが決して凡人に務まりはしない。
コルボは大精霊の神秘に熱心な関心を寄せており、学者気質な性格をしている。
彼は元々平民の出だった。勉学に明るく、特に神学における知識や見解には目を見張るものがあり、王立の大学に入学することを許された。大変優秀な成績を収めた彼は王城で働くことになり、そこでハリム王とエレシエンと知り合うこととなったのだ。
「お母様から、ゾルノムの声についての話を聞いたかい?」
アリーシアは頷いた。ゾルノムの声というのは、ゾルノムの天啓を示す。やはり父は、母から話を聞いていたのだ。大精霊から長い間、接触がないことを。
「その件に関しても、今回の話は悪くないことだと思うんだ。立て続けに不幸があって、大精霊との絆がより不安定になっているのだとしたら、大精霊と接触をとるためにも、アモラの血を濃くするというのは妥当な判断だと思う」
まあこれだけ言っておいてなんなのだけどね、とコルボは一呼吸おいてから、少々大袈裟に咳払いをした。
「宰相殿には一番大事なのは本人たちの気持ちだと返事しておいたよ。それを踏まえて話を進めるべきだとね」
「もしかして、会議が長引いた要因はその件のお話をされていたのですか?」
エレシエンの問いには微笑むが、コルボはやんわりと否定する。
「議題として提示されたわけじゃあないよ。宰相殿から議会の後に相談されただけであって、公式の場でこの話がされているわけじゃない。殿下にも話は行くだろうが、さっき言った通り、この話が公式に持ち上がるかどうかは本人たちの気持ち次第だ。まあ、遅くなったのは、宰相殿と話し込んでしまったからさ」
アリーシアは困惑した。モゾマが自分たちの意思を尊重してくれるだろうか。彼は一度決めたらなかなか折れないと広く知られているので、ユグムが、そしてアリーシアがどう思おうがこの先の話は決まっているようなものに感じた。
父は、本人の言う通りに当人たちの意思を蔑ろにはしないだろうし、もしどちらかが婚約を断ったとして、モゾマがそれでも話を進めようとした場合、彼は王子や娘のためにモゾマに掛け合ってくれるだろう。
しかし、神官長に政治的権限はない。父の発言は一蹴されてしまう可能性がある。
「アリーシアは、どう思うかね?」
「……どう思うと言われましても」
困った。まさかこんな話が自分のところに来るとは思わなかったからだ。ユグムの側で彼の力になる心持ちではいた。ユグムはずっと友人でいると今の今まで思っていたのだ。
「アリーシア」
事の成り行きを見守っていたエレシエンは、戸惑う娘に向かって語りかける。
「お父様は、当人の気持ちを優先するという条件でこの話を持ってこられたのです。あなたの素直な気持ちをそのまま言えばいいのですよ」
エレンシアの言葉にコルボは援護を得た気持ちになったようで、そうそうと言いながら大きく頷いた。
「君にとって悪い話じゃないとは思うんだけれど、違ったかな」
父のその言葉に、アリーシアは顔がかっと熱くなるのを感じた。
その様子を見て、コルボは声を出して笑う。アリーシアは今度こそ何も言えなくなってしまい、俯いたままになってしまった。
エレシエンが笑うコルボを嗜めて、コルボは固まってしまった娘に気が付き、そこでようやく慌てる。
「まあ、返事は早い方がいいとは言われているが、今日じゃなくてもね。とにかく、考えてみてくれないかな。この話は、確かにこの国にとっても有用な話であるからね。ちゃんと考えてくれると、父さんは嬉しいな」
俯いたままだが、アリーシアは頷いて返事をした。
ーーいつユグムにこの話がいくのだろうか。
きっとモゾマのことであるから、彼の口から最も早い方法で話されるに違いない。
今、ユグムは自室で寝ている。彼は今、ただでさえ大変な目にあって安静にしているというのに。おそらくこの一件も彼を悩ませることになるだろう。
彼はどう思うだろうか。彼はこの件をどのように判断するのだろう。
アリーシアの頭の中はその疑問でぐるぐる渦巻いている。今にも沸騰しそうだった。
混乱する娘から少し離れたところに行って、コルボとエレンシアはアリーシアを見守りながら、二人で肩を寄せた。
「僕はね、この話が進めばいいなと思っているんだ。国がどうこうといった話を抜きにしてもね、元々、アリーシアは相手を選べない立場にあるから、彼女が幸せになる結果になるとしたら、父親としてはすごく嬉しい」
「あら。父親というものは娘に執着して、頑なになるものだと思っていましたわ」
コルボは苦笑する。彼が次期の神官長候補として名前が挙がった時に、当時の神官長であった舅による猛烈な反対があったことを思い出した。
「まあ、君に対する負い目もあるのかな。君だって、好きで私と結婚したわけじゃないだろう。数ある候補者の中から、私が選ばれたことには誇りに思っているがね」
エレシエンは咄嗟に口に手を当てて、笑うのを堪えた。
「私は十分幸運でしたとも。貴方が候補者にいらしましたから」
「本当にそう思ってくれれば嬉しいね」
コルボは頭をかいた。彼が聖堂に勤めることになったのは、殆ど趣味の地続きだ。平民出身ゆえに、神官長候補に選ばれることはないだろうと思っていたので、声がかかった時は相当驚いた。当時まだ皇太子だったハリム王が、驚愕するコルボの顔を見て、指を指して笑ったことを思い出す。
「それにね、エレシエン。もし殿下が私たちの息子になってくれたら、すごく嬉しいことだと思わないかい?」
ユグムはコルボにとって、もちろんエレンシアにとっても、「王子」の枠に留まらない。ユグムは彼らの友人の忘れ形見だ。
病床に臥せるハリム王は、こっそり「息子のことを頼む」とユグムをコルボに託していた。自分の死を予期していたのだろうと、思い返すと悲しくなった。
「それに、ゾルノムの声が再び聞こえるようになるかもしれない。君じゃなくても、成人するよりも前に、殿下やアリーシアが接触できるようになるかもしれない。わからないけど、なにもしないよりはいいと思うんだ。不確定な要素が大きいけれど、それでも確率は上がると思うよ。婚礼に伴って、たくさんの儀式がある。我が国の儀式は全て、ゾルノムに繋がるものだ」
その儀式を運営するのは神官の仕事である。ゾルノムに関して文献を漁りに漁っているコルボは、普段の儀式に加えてゾルノムと接触しやすいように何らかの試みをするかもしれない。
現在、比較的円滑にゾルノムとの接触を可能にする人物は、成人済みのエレシエンだけだ。ゾルノムの声が聞こえなくなった現在、彼女の抱える不安は膨大だろう。
妻の負担が少しでも減ればいいと、より良い未来があることをコルボは願ってやまない。
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