第2話 異変
自室の扉の鍵を閉めると、ユグムは静かにその場に座り込んだ。
父が亡くなってから、否、父が体調を壊し始めた頃から感じたことではあるが、ユグムを取り巻く環境は否応なく変わろうとしている。
今まで築き上げてきたものが、土台から音を立てて崩れ去るのを感じる。
変化が怖い。恐ろしい。ユグムは素直にそう思った。
自分は玉座を継ぐ身であるからして、「自分」というものが蔑ろになること、されることは多少なりとも覚悟していたつもりである。ただ、あまりにも急すぎた。
ユグムは深呼吸をして胸に手を当てた。心が落ち着かない。
一度に色んなことが起こった。どれも全て、遅かれ早かれ経験することではあるが、順番が守られることはなかった。
立ち上がるが、足元が覚束ない。地面と接してはいるが、足が浮いてしまっているかのように重心が安定しない。うまく力が足に乗らない。
ユグムが何より恐ろしいと思ったのは、友がいなくなってしまうことだった。
アリーシアはユグムにとって唯一無二の友である。幼い日々を共有したのは、アリーシアだけだ。王宮殿に出入りできる同じ年頃の子供は、彼女一人だけだった。
また、ユグムの皇太子という立場が手伝って、同年代の子供と会う機会があっても、気安く話す間柄になることはなかった。
ーーこのままでは、少なくとも友人という関係ではいられなくなる。
ユグムは考えることをやめた。なぜなら、これは仕方のないことだから。
王は亡くなった。大精霊と国を繋ぐ絆は乱れる。そして、ユグムは未成年である。
(迷っていられる状態じゃないだろう)
この婚姻は、ユグムが国に貢献できる唯一の方法だった。
ユグムは寝ることにした。このまま起きていても、思考がまとまることはないだろうから。
まもなく、日付が変わろうとしている。
ーーその時だった。
どんと心臓が跳ねて、その場に崩れ落ちる。
それを機に、ばくばくと速度を上げる鼓動の音。
血液が沸騰するように熱い。投げ出された腕は血管が浮き上がり、徐々に痙攣し始めた。瞬きができず、目玉は前に押し出され圧を感じる。筋肉が強ばり体は固まる。
自由が効かない。息を吸おうと口を開けるが、空気を吸うことも飲み込むこともできず、ただ口をはくはくと開閉させながら喘いだ。
(何だこれは)
警鐘を鳴らすように頭痛がする。ユグムは恐怖に鷲掴みされた。
(何だこれは!)
「危ない」「逃げろ」と心のどこかで叫んでいる。だが一体何から?状況を理解できないから、混乱が加速していく。
意識を保つことができない。自分を保とうともがくが、何度も意識を失う。
声を出すことが叶わないから、助けを求める事もできない。
指先が痺れる。視界が霞む。
ユグムは生と死の境を彷徨いながら、深い闇に吸い込まれていった。
・ ・ ・
あれからどのくらいの時間が経ったのだろうか。
ユグムは気がついた。意識を手放した時のままの体勢で、床に転がっていた。あの、恐ろしい事態が嘘のように治まっている。
呼吸ができていることを確認すると、全身から汗が一気に噴き出してきた。
(一体、何だったんだ)
思い出すと、また緊張した。とりあえず体を起こさなくてはと身じろいだ。
だが、ここで違和感を覚える。
自分の手は、こんなに大きかっただろうか?
違和感は大きさだけに留まらない。体を動かそうとした時、全体的に重量を感じた。
手を動かそうとする。
ごりごりごり……。
何かに擦れるたびに鈍い音がする。
音の原因は、爪だ。爪がどこかに当たる度に、鈍い音を立てているのだ。
ユグムの爪が大きく、更に太くなっている。
ユグムは飛び起きて光源を探した。自分の体に何が起きたのか確かめたい、いや、何となく察しがついたからこそ、視認しなければならない。
ユグムは急いで月光を遮る窓幕を力一杯引いた。
満月の光がユグムを照らす。ようやくユグムは自身の体を確認することができた。
ーー緑色にてらてらと光る肌、よく見ると、所狭しと生えた鱗がぬるく月光を反射していた。
指は普段のそれより長く大きく、先端には太く鋭い漆のような黒い爪。
骨格そのものから変化してしまったような、膨張して膨れ上がった四肢。
床には足の巨大化に耐えきれずに壊れた履き物が、無惨な姿で転がっている。
ユグムがとうとう叫んだのは、鏡に映る自分の姿を見た時だった。
ーーまるで、化け物。
(何だこれは!!)
まず強烈な印象を与えたのは、鼻である。大きく肥大化し、鷲の嘴のように曲っており、更に豚のように大きな二つの穴が主張してる。
目玉は左右に飛び出して、ギョロリと瞳孔が広がる。
耳は鋭くとんがって、コウモリの羽を思い起こさせるようだ。
鏡にうつる自分は人間の形をしていなかった。
それは刹那の衝動であり、知性と理性は全て隅に追いやられてしまって、彼は行動に出てしまった。
彼は窓から飛び出した。落ちていくさまを風と共に感じた。
ユグムは直感的に、「ここにいてはいけない」と思ったのだ。もしかしたらそれは「死んでしまいたい」と同義であったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。
しかし、落下しながらもユグムは「自分はこの程度では死ねない」という漠然とした確信があった。
どんと地に響く音がした。ユグムは着地したのだ。
三階にある自室から飛び降りて、彼は傷一つ付かなかった。
ここは王城の中庭だ。守衛が巡回しているかもしれない。そうすると、今の音を聞きつけて誰かが様子を見にくる可能性がある。
ユグムは走り出した。この姿を見られてはいけない。逃げろ。逃げろ。
ユグムは地を蹴り上げ、壁を上り、城壁の外に向かって走る。
逃げながら、現在の異常性を身をもって確信したのだ。
ーー自分は怪物と化した、と。
王城から脱出し、城下町からも逃げ、走って走ってたどり着いた先は森だった。
途中で民家の窓から垂れ下がる黒い垂れ幕を引き裂いた。それを体に巻き付けて体を隠した。人里から離れた今でさえ、姿を晒すのは恐ろしかった。
ユグムは大木の根元で小さくなっていた。
(いったい、どうなってしまったんだ……)
ユグムは途方に暮れた。もう、国がどうこうという話ではない。
全ての責務を投げ出して、このまま姿を眩ませてしまおうか。そんなことを考えた。ユグムの頭の中では、それが一番現実的な対処法のように思えた。
このまま街に戻ったところで、自分が王子だと訴えたところで、それを理解する者は現れるのだろうか?
ーーもう自分はどうにもならない。
夜更けの森の中、近くを流れる川のさらさらという音を聞きながら、ユグムは垂れ幕の中で目を瞑った。
少し経った後、ユグムに近づいてくる音に気がついた。
動物だろうか、それとも『外なる』者共だろうか、息を潜めていると、相手は二足歩行の生き物であると気がついた。
ユグムはそれを人間だと思った。感覚が鋭くなっているようで、対象を意識すると位置している場所や意識の向いてる方向など、目視せずに分かるようになっている。
「そこで何をしておるか」
少し離れた場所から声がした。ユグムは体を強張らせた。姿を見られないように、被っている垂れ幕を内側からぎゅうと握った。
足跡が徐々に近くで聞こえてくるようになった。ユグムは頭が真っ白になった。姿を見られて、化け物と呼ばれ叫ばれ、怯えた瞳を向けられるのだろうか。ユグムは考えられる限りの最悪の展開に怯え顫えた。
「貴殿のことじゃよ。そんな布を被って、何をしてるかと聞いてるのじゃ」
年老いた女性の声だ。おそらく杖をついている。
老女が相手であるのなら、ここから姿を見られずに逃げることも可能ではないのだろうか、特に、『今の状態』であれば。そう考えた矢先であった。
「皇太子殿下」
今、この老婆はなんと言った?この、長い黒布にぐるぐる巻かれた男のことを、皇太子だと。何故、それが分かるのだ。自身でさえ、自分のことがよくわからなくなっている状態で、何故?
今の自分を殿下と呼んでくれる存在に、涙が溢れた。
縮こまって伏せていた顔を少し上げると、布越しにではあるが淡く柔らかな光がいくつも辺りを漂っていることがわかった。
老婆は持っている杖で小さく蹲るユグムをつついた。
「皇太子殿下で間違い無かろうな?変な格好しおって」
「ヴァ……アウ……」
ユグムは話してみようと試みた。しかし、口の形が大きく変わってしまっていることが原因で、うまく喋ることができない。
彼のおかしな様子に対し不審に思った老婆は、ユグムを隠す布をどかすことなく、ユグムのそばにしゃがみ込んだ。
「皇太子殿下で間違いないのじゃな?」
そのように問われて、ユグムは頷いた。その動作は老婆にも伝わったようだ。
「おかしな輩が森に入ってきたとな、蛍に急かされてきたのじゃ。『甘く好ましい匂いもするが、同時に嫌悪感を覚える気配もする。どのようにすべきか』とわしに相談に来たのじゃよ」
周りに浮かぶ光は蛍だったのか。蛍は老婆とユグムの間を行ったり来たりしている。しゃがれた老婆の声が頼もしく聞こえた。
また、老婆は杖でユグムをつついた。
「お前さんに何が起きているのか分からないから、わしもどうしたらいいのか分からんて。いい加減にその布を取っ払ってくれんか」
そうして、老婆は杖を使って垂れ幕を捲った。
ユグムは抵抗をやめた。もう自分自身ではこの状態をどう打開したら良いのかわからなかったからだ。鬱蒼とした森の中、蛍と共にやってきた、得体のしれない老婆。普通とは一線を画した存在である彼女なら、この異常事態について何か知っているかもしれない。そこまでユグムが考えられていたか定かではないが、彼が小さな希望に縋りたかったのは間違いない。
そして、老婆の前にユグムの姿が露わになった。
瞬間、蛍がユグムと老婆の側から音を立てて一斉に木陰へ散った。その際、ようやく老婆の容貌を覗くことができた。顔中に皺が深く刻まれ、浅黒い肌と深く落ち窪んだ緑の瞳が印象的な老婆だった。老婆はユグムを一目見て、ぐっと前屈みになった。体に力を入れているのか、老婆の握る杖から顫える振動が伝わる。表情は硬く厳しいが、ユグムから目を逸らすことはなかった。
「……醜愚の呪」
老婆は低い声で呟くと、皺のある硬くなった手でユグムに触れた。老婆が何をしているのか理解できなかったが、触れている部分から何かを探っているようだった。
「最近、やけにきな臭いと思ってはいたけどね」
誰に言うわけでもなく、老婆はぼそぼそと呟く。ユグムは大人しく老婆の好きにさせた。老婆がひとしきりユグムを吟味している間、ユグムは周りに多数の気配があることに気がついた。森の中から視線がする。 一つや二つではない、相当の量だ。ユグムは緊張する。今まで気がつく余裕がなかったのだろうか。恐らく森全体の生体が、ユグムを見張っていたのだ。
すると、老婆が聞き慣れないような発声で周囲に呼びかけた。
『危害を加える輩ではない。我らの祖の血、我らのはらから』
ユグムは驚いた。老婆のそれは耳に聞きなれない言葉だったが、意味を理解することができたからだ。その様子が老婆に伝わったようで、老婆は軽く笑った。
「ふん、環言語も知らないでそんな格好になってんのかい。まったくね、よくもまあ、そんだけ手酷くやられて自我を保ってるもんだね……」
老婆が不思議な言葉を発してから、今まで沈黙を保っていた森の空気が変わった。ユグムを監視していた気配たち、各々が元の生活に戻ったのだ。蛍も再び老婆の元へやってきた。
「ここで立ち話してもどうにもならん、布は被ったままのがええじゃろう。そのままで、わしについといで」
老婆は再びユグムに垂れ幕を被せた。それからユグムから離れ、奥の方へ、草をかき分け進んでいく。背の小さい老婆であるから、一歩が短い。長い垂れ幕を引きずるユグムでも彼女についていくのは容易かった。
大木の連なる暗い森を歩いているからか、蛍たちの灯がよく映える。垂れ幕を被って視界が狭くなっているユグムにとって助かる存在だ。時折垂れ幕の中に入ってきて、ユグムの様子を伺うように飛ぶ。蛍の光は淡く儚く点滅する。その幻想的な様子にユグムは惹かれた。蛍を目で追っている間、自分の容姿について忘れることができた。
「ここじゃ」
ユグムは不思議に思った。老婆が立ち止まったのは、背の高い草が無造作に生えているだけの場所だったからだ。こんなところにユグムを案内して、老婆は何が目的なのだろう。
蛍の光に包まれた老婆は、自身の足元にずんと杖を刺した。
「わしの肩に手をおやり」
ユグムは言われた通りに老婆の隣まで歩いて行った。その間も、蛍はユグムの足元を照らすようにしていた。
ユグムが無事に老婆の肩に手をやることができると、老婆は唇をすぼめてヒュウと風を切るような音を鳴らした。それを何度も繰り返すと、音に共鳴するように目の前が霞がかり、最後にふぅーと老婆が長く息を吹きかけたと思うと、霞が晴れて小さな家らしきものが姿を表した。
(魔導師か)
家がまるまる一軒隠されている。城内でも稀に見るような見事な技だ。
「家に入るまで、わしから離れるんじゃないよ」
驚いているユグムを意に返さずに、老婆は当然のように扉へ歩き進める。ユグムは手が老婆の肩から外れないように、老婆に歩を合わせる。すると、あれほど纏わりついてきた蛍らが、杖の立っている場所からこちらまで来ようとしないことに気がついた。
「流石に我が家が虫だらけになったら、わしが住めんくなるからの」
老婆は木製の扉を開ける。ユグムは家に入る際に、礼儀正しい蛍たちに感謝を述べた。普段と違う口だからだろう、めちゃくちゃな発音になってしまったが、蛍たちの灯の点滅が、彼の気持ちに答えたかのように感じられた。
老婆の家は、こじんまりとしていたが様々な器具で溢れていた。そして、独特の匂いが立ち込めている。城内で使われるような上品な香りではなく、名状し難いのだが、つんとした不思議な匂いだ。その匂いは、ユグムには少しきつかった。
ユグムは居間に通され、椅子に座らされた。老婆は窓幕を閉じてユグムを残し別の部屋に移動してしまった。
ユグムは老婆を待つ間、律儀に垂れ幕を頭から被ったままで、その隙間から物珍しくてあたりを見渡した。床には何層にも積まれる分厚い本、机の上には見慣れない文字で書かれた紙が散乱している。なんとなく、古くに使われていた文字と似ているとユグムは思った。
深緑のてらりとした光沢のある棚には、色とりどりの瓶で溢れている。
(本当に不思議な方だな、あの老女は)
王城のある都からあまり離れたことがないユグムにとって、もし彼が一般人であったとしてもそのように思うに違いないが、老女の家はまるで別世界だった。
壁に掛けられている見慣れた顔の肖像画だけが、ここが現実であることを証明していた。
ユグムが大人しく部屋を物色していると、老婆が大鍋を持ってやってきた。ずしりと重たそうな鍋を彼女が持つのは負担だろうと、ユグムは老婆の代わりにそれを運ぼうと席を立とうとした。
「あ、動くんじゃないよ!」
老婆に大きな声で立つことを咎められたユグムは、腑には落ちなかったが大人しく重そうに運んでくる彼女を眺めた。だが、その視線は次第に、老婆が持っている大鍋の中身に移った。
「このままじゃ、貴殿とお喋りもできんからの、少々荒っぽくなるが、我慢するのじゃ」
大鍋の中身には、これまた見たことのない光景が広がっていた。
鍋の底には鈍色の泥のようなものが、のろく泡ぶくを立たせ白い炎を纏って燻っていた。鍋の淵は白い炎の照り返しで薄緑色に光っている。
老婆は顔の前で何回か片手の指で形を作り、ぶつぶつ呟いていた。今度は、彼女が何を言っているのかわからなかった。
そして、その手を大鍋に突っ込んだ。
「ゥァア!」
驚いて思わず声が出た。得体の知れない炎に素手で突っ込んだのだ。老婆は涼しい顔のまま泥を掬って、ユグムの額に押し付けた。
「アアア!」
「これ、動くんじゃないよ。後でうまい茶でも入れてやるからね、今は我慢するんだよ」
額に押し付けられた、炎を纏った泥は不思議と熱くはなかった。しかし、皮膚は焼かれているようで、肉の焼ける音がする。とてつもない不快感がユグムを襲った。吐き気が込み上げる。これを取ってしまいたい、これから逃れなくてはならない、苦しい、外せ、外せ!頭の中で何かが叫んだ。それが主張する度に、ユグムは泥から逃れようと抵抗した。
老婆は容赦なくユグムの額に泥を追加して擦り付ける。炎で皮膚が焦げるような匂いがしてきた。顔の輪郭に沿って、ぼやぼやと定まらない自分の魂が炎の揺らぎと共に引っ張られるような、ひどい感覚が続く。
最終的に顔中に泥を塗られたところで、老婆は泥だらけのユグムの顔に水を思いきりぶっかけた。水をかけられたところから、泥は形を保てずぼとぼとと地面に落ちる。ユグムはたまらず顔を背けようとすると、老婆は容赦なくユグムの前髪をぐんと引っ張って無理やり水をかけ続けた。
「あり合わせのものでやってるから、その場しのぎになってしまうのは否めないけどね。男前が戻ってきたかねえ……」
ユグムはようやく解放された。全身の力が抜ける。ものすごい疲労感だ。ユグムは床に座り込んだ。うまく息が吸えなかったので、新鮮な空気を得ようとぜえぜえしている。
老婆はユグムの側に膝をつき、ユグムの状態を確認する。
「何か言ってみてごらん、どうじゃ、喋れるか」
ユグムは気がついた。顔に当てられた不快感で気がつかなかったが、先ほどよりも、老婆の大きさが違うように見える。いや、老婆の大きさが変わったわけではない。老婆が小さいことは以前のままだが、ユグムの体格が小さくなったのだ。
ユグムは自分の掌を見てみた。形はまだ歪であり、痣のようなまだら模様が貼り付いているが、短い爪の指が五本、慣れ親しんだ形に戻っていた。
それから自分の全身を確認する。ユグムは自分の顔に触れてみた。そこに恐ろしく醜い鼻はなかった。
ユグムは床を見回すと、そこには先ほど泥だったものが真っ黒に変色し、煙をあげながら散乱していた。
「あー、あー……」
ユグムは喉元に手をやり、問題なく発声できるか試した。さっきと比べると、明らかに普段の状態に近い。
老婆は皺を深くして微笑んだ。ユグムが問題なく喋れることを確認すると、老婆は立ち上がりその場を離れた。
「床に落ちた土には触るな。掃除道具持ってくるから、待っていなさい」
奥の部屋で棚と格闘している老婆を、言われた通りにその場を動かない、というより強い疲労感で動けないので、ユグムは呆けた顔でそれを見ていた。
「何故、私のことが分かったのですか?」
「貴殿に流れる水の大精霊の血を、蛍は好むのじゃ。特に、ここはゾルノムと縁が深い森であるからして、この森の住人は王家の者とそうでない者とを判別することができるのじゃ」
老婆の目が伏し目がちになる。
「……もう王家の人間は、貴殿しかいないからの」
老婆がユグムを何故家に招いたのか、ユグムは理解した。
「貴方は、父上を知っているのですね」
そう、居間の壁にかかっている肖像画にはユグムの父、ハリム王が描かれていた。ユグムが知っている姿よりも、少し若いように思える。
老婆の家の中はとっ散らかっていて、部屋の四隅には蜘蛛の巣がかかっていたりしている。しかしその肖像画の付近の埃は払われていて、大切に飾ってあることが伺える。
「わしはね、宮廷魔導士だったんじゃ。最終的に異端者として追い出されたがね」
老婆は昔を懐かしむように目を細めた。
「私は、日付が変わる頃、突然全身が酷く恐ろしい状態になったのです。その後、どうしたら良いのか分からず彷徨って、あそこにいました」
ユグムを椅子に座らせて、老婆は独特の強い香りのするお茶を淹れた。老婆の好みには癖があるようで、ユグムは一口以上手をつけられずにいる。
ユグムは自身に起こったことを老婆に話した。老婆はお茶を噛みながら啜っている。妙な癖だな、とユグムは心の中で思った。
「古の禁呪によって、呪われたんじゃ。手が込んだ、厄介な術さね」
老婆は砂糖の入った器をユグムに差し出した。ユグムはそれをやんわりと断ると、老婆は自分のお茶に砂糖を匙三杯分入れた。
お茶を飲み干して、老婆は深いため息をついた。長い沈黙が流れる。ユグムはその呪いについて聞きたかったが、老婆の重たい雰囲気に話を切り出せないでいる。
「……申し訳ないがね、その呪いを解く方法は、……わしは知らんのだ」
ユグムは何も言わない。そのような気はしていた。先刻の『荒療治』を経てもなお、ユグムの体、主にひどいのは顔だが、青紫色の痣が散らばっている。おそらくその呪いはまだ生きていて、水面下に潜っている状態なのだろう。
「お前さんが、自我を保っているのが不思議なぐらいじゃ。普通の人間であったら、既に貴殿は人間と呼べるものではなくなってるじゃろう」
「一体、私に掛けられた呪いというのは何なのでしょうか?」
ユグムは尋ねた。
老婆は深い息を吐いて、瞳を閉じた。重苦しい雰囲気が辺りを包む。
一方ユグムは冷静だ。いや、冷静を装ってるのかも知れない。ユグムは責任感の強い男である。人前で取り乱すことは有り得ないことだ。目の前に老婆という存在がいるから、ユグムは自分を律しているのだ。
老婆が長い沈黙を破るまで、ユグムもまた口を閉ざした。この膠着状態を打開するのは老婆であって、自分ではない。
とうとう老婆は口を開いた。瞳を閉ざしたまま。
「……醜愚の呪と呼ばれておる」
彼女はそれから、ユグムにそれがどんな恐ろしい呪いであるか語った。
ーー醜愚の呪、それは呪う対象を内側から破壊する呪い
強い怨嗟と執念を要する呪い
対象者の精神に巣食い、蝕み、最終的にそれは外見に発露する
人は人ではなくなり、もはや精霊界の命の循環から外れ、『外なる』怪物と化す
危険思想によって生み出された術であるために、歴史から抹消された秘術
対象者の外見に発露した呪いは、術者を写す鏡
術者の精神をそのまま顕す
愚かで醜い術者の心を、対象に具現化させる術
よって、『醜愚の呪』と呼ばれる
老婆は地の底に響く声で、ユグムに掛けられた呪いについて捲したてた。
その声には怒りや憤りが孕んでいた。額には汗が浮かび、肩で息をしている。
「長い時間を必要とする呪いじゃ。おいそれと使用することはできん。つまり、貴殿は何者かによって攻撃を受け続けていたことになる。かなり周到に、執拗に」
ユグムは背筋が凍った。それはつまり、誰かが自分に相当の憎悪を抱いていたということだ。ユグムは一国の王子という立場上、様々な方面から狙われる。しかし、それ以上に強く庇護されていた。王族を失うということは、大精霊との絆を失うことと同義だ。だから重宝され、守られる。
ユグムはそれを熟知していたし、実感していた。だからこそ、得体の知れない相手から攻撃を受けたという事実が、薄気味悪かった。
ユグムはまず、簡単な疑問から尋ねることにした。
「精霊界とは、一体なんでしょうか」
老婆は「あぁ」と声を漏らす。捲したてて説明したために、話に熱が入ってユグムを置いてけぼりにしてしまったことに気がついた。
「精霊界というのは、大精霊たち同士の緻密な繋がりによって保たれているこの世を指す、わしらの専門用語じゃ。『外なる』世界と対比して、精霊界と呼んでいる」
それから、老婆はユグムに、なんとか素人に分かりやすいようにと考えながら説明した。
「我々の世界は、どうやって成り立っていると思う?」
老婆は質問を提示した。ユグムには老婆の意図がよくわからなかったが、自分の知っている範囲で正解を探した。
「それは、大精霊と血の契約を交わした大精霊と交信することを可能とした者たちが各々、一等星泉の上に国を作り、それを世襲によって受け継ぐことによって」
これがこの世界の一般常識である。星泉とは、地上に張り巡らされた大精霊たちの命が、換言すれば大精霊たちのエネルギーが、特に噴き出してきている場所のことである。星泉は規模の大きさによって、一等、二等、三等の順に格付けされている。
可視化することはできないが、特殊な技術で感知することができる。その技術によって計測された星泉を地図に書き起こしてみると、近隣の星泉同士に結びつきがあることがわかる。それを表した図が星座の図のように思えることから、星泉と名付けられた。
ナゾル王国の建国の歴史では、血の契約によって、水の大精霊の庇護が及ぶことのなかった場所に、水の星泉が生まれたと解することもできる。
大精霊の血が濃いものは特別な方法を使わずとも星泉の位置がわかると言われているが、恐らく現代にそのような人物は残っていないだろう。
老婆は意地悪な笑みを浮かべてユグムの回答にケチをつけた。
「それは、人の枠を超えない答えじゃて。そうではなく、世界そのものがどのように成り立ってるのか、という話じゃ」
「それは、……わかりません」
老婆は空中に筋張った指で、ぐるっと丸を描いた。
「世界は一つの大いなる存在である、とわしらは考えておる」
老婆は続ける。
「大いなる存在とは、大精霊たちが集合した概念、いわゆる世界そのもの。大精霊たちは世界を構成する、いわゆる精神や骨格の役割を担っている存在であると考えることができる。大精霊たちの最大目的は、大いなる存在の繁栄なのじゃ。ここに言う繁栄とは、精霊界に存在する生命の繁栄と同義である。生態系の繁栄は、世界の繁栄を示す指針となり得るからじゃ。世界は大精霊なくして存在せず。故に我らの世界を精霊界と呼ぶ」
老婆はユグムに「ここまでは理解できたかね」と尋ねる。ユグムは頷いた。老婆の話は初めて聞くものばかりであるが、なんとなく理解できる。
「よって、精霊界は生態系を破壊せしめんとする存在に対して不寛容である。精霊界から不要とされる、敵視される全てに『外なる』という言葉が冠せられるんじゃ」
老婆はユグムに目配せした。その先を言うことを躊躇ったようで、老婆は一呼吸を挟んだ。
「つまり、貴殿はその外なる怪物に成りかけている」
ユグムは俯いた。そうであろう、と老婆の説明から察してはいたが、実際に口で伝えられると堪えるものがある。
「私は、大精霊らに必要とされなくなったと言うことでしょうか」
老婆は、ユグムのその質問を直ちに否定した。
「答えを急ぐな、わしは今、『成りかけている』と言ったのじゃ」
ユグムは、少し困惑した。しかし、既に話は一般の範囲を超えている。ユグムは老婆の話を聞くしかない。
「普通に考えて、この呪いが外見に発露するまで進行してしまったのであれば、対象者の自我などとっくに壊れているはずなのじゃ」
老婆は難しい顔をした。老婆が難しいと感じるならば、ユグムに理解できなくて当然だ。老婆は喋りすぎて喉が乾いたのか、お茶をお代わりした。
「遠慮せんと、お飲み」
老婆はユグムのお茶があまり減っていないことに気がついた。あまりユグムの得意な香りではないので、進んで飲みたくはなかったが、老婆に気を遣って数口啜った。
その様子を見て、老婆はユグムに指を指した。
「今、そうやってカップを用いて茶を啜れることが、貴殿がまだ人の枠内にいることの証明じゃ。椅子に座り、姿勢を正し、カップを用いて茶を飲む。外に連なる怪物になってしまったら、このように人らしい行動が取れなくなる。しかし貴殿はそうではない」
「つまり、人ではなくなる、と言うのは見た目だけではなく、それは行動や思想にも現れると言うことですね?」
老婆は頷いた。
「人らしくあることが、非常に重要なことになるじゃろう。逆に、負の感情に囚われれば囚われるほど、貴殿はより精霊界から追い出されることになる。お前にかけられた呪いが発露した時のことを考えてみなさい。お前自身が揺らいでしまうような、大きな出来事があったはずじゃ」
老婆の提示した、呪いが外見に発露した要因について、ユグムは直ぐに頭に浮かんだ。
「父が亡くなりました」
「そうじゃ。それは当然、相当にして最大の衝撃を貴殿に与えたはずじゃ」
そういえば、父が亡くなったその日の夜、アリーシアと一緒にいた時に、酷い吐き気に襲われた。異変は、あの時から始まったように思える。
医師からは障界症と診断されたが、果たして本当にそうだったのだろうか?
呪いが強く進行してしまった、その反応が出たものではないだろうか?
老婆を見やると、彼女はこめかみに深く皺を寄せ、ワナワナと震えた。
この感情は怒りだ。ユグムは老婆から強い怒りを感じた。それを強く感じるのは、呪いを受けているせいなのか。
「貴殿の父が亡くなられたことは、偶然でなかったのではないかと、わしは考える」
そんな、とユグムは声を漏らした。珍しくユグムが動揺を外に漏らした瞬間だった。思わず立ち上がった。
「しかし、王を守るための防衛措置が幾重にも施されています。父が攻撃されていたならば、誰かが気がつくはずです!」
ユグムは声を荒げた。その際、皮膚の下でぞわぞわと何かが蠢くのを感じた。
ユグムが凄むも、老婆は身じろぎもしなかった。
「相手は歴史から消されたはずの禁呪の使い手じゃ。王城に集う精鋭たちがいかに粒揃いでも、敵う相手ではないじゃろう。現に、同じ居城に住むお前も、呪われた。誰にも気づかれることなく、な」
ユグムは黙る。相手が強大な力を持っているということを、ユグムは身をもって証明してしまったのだ。
「醜愚の呪というものは、相当な時間を要するのじゃ。一朝一夕で術をかけることはできん。それこそ、十年という月日を用いる呪いなのじゃ。だからこそ術を完遂させることが難しく、恐ろしい技量、そして対象者に対するすさまじき執念が必要とされるのじゃ。この呪いの恐ろしさは、そこに由来している。恐らく、貴殿のお父上を殺すことも、貴殿を呪うための計画の一部だったのじゃろう……」
ユグムは再び椅子に力なく座った。最初から、狙いは自分だったのだ。父は自分にかけられた呪いを完遂するために、得体の知れない術者によって殺されてしまったのである。ユグムは頭を抱えた。老婆はその様子をやるせない気持ちで見ていた。
「今宵は満月じゃ。満月は術者に力を与える。人々に安らぎや癒しを与えることもあるが、月は貴殿の味方をしなかったようだね…」
それから老婆は、月光に当たらないようにユグムに指示した。老婆が窓幕を閉じたのは、そう言うことだったのか、とユグムは彼女の行動を思い出していた。
「私はどうしたら良いのでしょう。ナゾルの国は、王を失ってしまいました。本来ならば私が次期王として、これから生じるであろう災に備えなければなりません。しかし、私はこのような状態になってしまいました。これは、私だけの問題に収まりません」
老婆は唸る。老婆は呪いを解く方法について知らないと言った。しかし、ユグムは老婆を頼るしかない。王子という特殊な立場も相まって、ユグムが頼りにできる相手は城と離れた場所にいる老婆しかいないのだ。
ーーユグムにこのような呪詛を掛けた人物は、恐らく王城に属する誰かだ。いかに熟達した術者といえども、時間と手間隙をかけてユグムを呪うには、魔術の面からは宮廷魔導士や神官、物体の面から医官や衛兵といった、様々な防衛機関の目を掻い潜らなければならない。それができる立場にあるということは、つまり、城を出入りできる人物だろう。
「私は、父上から託された国の、民のために尽くしたい」
それが、どうしてもユグムの譲れないものだった。それは、ずっと王になるべくして教育されてきたからかもしれない。ユグムにとって、良き王になるということはずっと目標にしてきたことだ。
「貴殿は、王になりたいか?」
老婆が尋ねる。ユグムは頷いた。頷く他に選択肢など持ち合わせていないのだ。
その意思は力強く、呪いによる青痣が彼の顔に這っていたとしても、彼の精悍で真摯な表情は他に有無を言わせない。老婆はそれを見やると、どこか懐かしい気持ちになった。彼は確かにこの国の王子であるのだと、老婆は確信した。
「わしもできるだけ、貴殿にかけられた呪いを解く助けをしたい」
老婆は椅子から立ち上がり、ユグムの側で床に手をついて首を垂れた。
ユグムは驚いたが、老婆が自分を未来の王として扱ってくれていることに気がついた。先ほどまであった、老婆の彼に対する気安さは今ここにはない。
「この私、マエラ、再びナゾルの民として、貴方様を支えさせていただきます」
ユグムは、王が臣下を新しく迎える際にやるように、手のひらを彼女の頭上にやり丁寧に握った。握られた拳から絞った血を、彼女にかける素振りだった。
ユグムは手を貸して、老婆を、マエラを再び椅子に着かせた。
「しかし、醜愚の呪を解くことが、王になる最低条件であって、解けたとしてもその先がどうなるかは、わしには見当がつかん」
マエラは渋い顔をした。
「貴殿が人格を保っているのは、ゾルノムの血による所が大きいじゃろう。呪いが一度発露して、人として生きれた存在など記録には残っていない。少なくともわしの知る範囲ではな。であるからして、霊山まで行って直接ゾルノムに呪いを解くように頼む他、わしに思いつく解決策はない」
霊山とは、水の大精霊ゾルノムが住むと言われる、水の大精霊の総本山。ずっと北にあるゾルディオ山のことだ。伝説では、そこに赴いたアモラがゾルノムと接触したことになっている。
「しかし、私がゾルノムと交渉できるようになるまで、あと五年の年月が必要です。その間、私がゾルノムとの接触を試みようとしていることを誰にも知られてはいけない」
「だがな、貴殿がその姿を保ってられているのも、一時的なものじゃ。恐らく再び満月の夜を迎えれば、どのような方法を用いても、呪詛を抑えることが困難になる。ただでさえ、呪詛は未だ成長しているのじゃ。それこそ些細なきっかけで、直ちに先程の姿に戻るじゃろうて」
「つまり貴女は、城を出ろと」
マエラは頷いた。
「呪いは負の感情に影響される。それを鑑みても、貴殿は人里から離れた方がいいと考える」
ユグムは納得したが、耐え難いものがあった。呪われた身で王城を汚すわけにもいかない。そして不要な混乱を与えるわけにもいかない。しかし、自分が城を離れたら、どうなるだろうか。恐ろしい禁呪の使い手を、自分が不在の期間に野放しにしてしまうことになる。
父を殺して、自分に呪いをかけた相手の目的は一体何だ。ゾルノムの血を受け継ぐ王族を退ければ、国とゾルノムとの絆が絶たれる。水の星泉の力が急速に弱まるだろうし、本来ゾルノムとの契約によって星泉が生まれたとするならば、最終的には消えて無くなってしまうかもしれない。国を滅ぼす、それが犯人の目的だろうか。
だがいくら考えたところで、結局のところユグムには五年間の月日という問題があるのだ。呪いを解く可能性を秘める存在、大精霊ゾルノムとの接触には、成人するまで待たねばならない。もしかすると、心身共に十分に成熟させることができるならば、年齢的に成人を迎えるより早くに彼の存在と接触を可能とするかもしれない。しかし、それは確実な方法とは言えない。
「貴殿にとって一番重要なのは、自己を安定させることじゃ」
「……はい、それは理解できます」
考え込んでても仕方がないので、ユグムは自分の不安をマエラに伝えることにした。
「私は、王になると言いましたが、私が一番に考えているのは国のことです。民が穏やかに暮らせるようになれば、国主は私でなくとも良いのです。だから、城を離れること自体はそれほど苦にはなりません」
マエラはユグムの発言に眉を上げて反応した。
「それは、ゾルノムの血を引き継ぐのは貴殿だけだと理解している言葉であろうな?」
ユグムは首を振った。老婆は黙ってユグムの言い分を聞く。
「それは本当の意味で正しくないのです。確かに最も血が濃いのは私たち王族でしょう。交信の儀によってゾルノムの血を継承してきたのですから。しかし、ゾルノムの血は私たち王族が独占している訳ではありません。王城から離れ市井に下った王族も存在しますから、ゾルノムの血を受け継いでいるということに限って言えば、国中に存在するのです。そして、何よりナゾル王国には神官の家系が存在しています。彼らも広い意味で捉えれば、王族です。交信の儀をせずとも、大精霊に身を捧げることによってゾルノムの濃い血を継承することに成功した者たちです。彼らはその力を用いて、王を補佐する役割が与えられています。『仙』と呼ばれる者が、その代表です。そして彼女の後には、後を継ぐ娘が控えています」
「しかし、ゾルノムと直接交信できる力を備えるのは貴殿だけではないか」
「そうですね。しかし、他に方法がないわけではないのです。いえ、これもまた確実なものではないのですが」
「どんな方法じゃ」
「霊山に赴けば良いのです」
ユグムはキッパリと言い放った。老婆はまた少し眉を顰めたが、「なるほど」と声を漏らした。
「確かに、常人が大精霊と接触するのは危険が伴います。しかし、彼のアモラも最初は常人だったのです。そして、神官の家の者たちは、ゾルノムの血を薄くも受け継いでいます。そうであるならば、ゾルノムに受け入れられる可能性が高い」
そして新しく血の契約を交わすのだ。そうすれば、ユグムがいなくなったところで、代わりに王として国を御する存在が別に誕生する。国で重要視される神官の家の者が、消えた王子の代わりに国主を務めることは、さほど民に違和感を与えることはないだろう。王族の次に、ゾルノムの血が濃いのであるから。
「私が心配しているのは、私が留守にしている間、国に脅威が迫っていることを誰も知らないことです。父や私を攻撃してきている以上、犯人の目的は国の転覆です。私が姿を消せば、次は神官の家の者たちが攻撃を受けるかも知れない。そして、攻撃はより苛烈になるかも知れない。私が呪いを解いて帰国する際にはすでに、国が滅んでしまっている可能性がある」
意外にも、老婆はユグムの言葉に「そうとも限らない」と意を唱えた。
「どういうことですか?」
「まず、術者の目的は本当に国の転覆であるのか疑問じゃ。醜愚の呪が扱える技量があるのであれば、そもそもこんな周りくどくて面倒臭い方法を取るじゃろうか」
ユグムは老婆の言い分にぴんと来なかった。老婆は話を続けた。
「わしは、あくまでも目的は貴殿なのではないかと思っている」
「国は関係ないと?」
マエラは頷く。
「無傷ではいられないかもしれないが」
彼女には妙な自信があるようだった。
「言ったじゃろう、数多の呪詛の中から、犯人は醜愚の呪を選んだのじゃ。対象者に相当の執念を燃やさねば、術は完成しない。わしは呪術は使わんが魔術を扱うからね、それがとんでもない熱量だということがわかるよ」
その感覚はユグムにはわからない。この類の話はマエラ頼みだろう。
「だからこそ、王城を離れた方がいい」
「犯人が、私を追ってくるということですか?」
「直接本人が来るかはわからんが、何らかの行動を起こすじゃろう。貴殿を狙ってね」
ユグムは口内に溜まった唾を飲み込んだ。肌がひりひりつっぱって、緊張するのがわかる。
もし犯人に消えたユグムへ意識を向けさせることができたら、王国から脅威を少しでも離すことができるかもしれない。
更に言えば、姿の見えなかった敵が判明するかも知れない。簡単にできるとも思えないが。
ーーただ一つ確実なのは、王城に留まることは、相手の掌の上に居続けるということだった。
「準備が必要です」
「具体的にはどういったものじゃ」
「最低でも、私が帰還した際に身分を証明できる、ある道具を持ち出さなければなりません。また、誰かが悪戯に国庫を触れないように封印する必要があります」
マエラは承諾したが、緊張した面持ちで指を一本立てた。これから言うことに注意しろ、そういうことだ。
「明日、日が落ちるまでに全てを終わらせなさい」
ピリリと張った空気が流れる。体が強張るのを感じる。
「一日で全てを終わらせよ。そして、王城に戻っている間、誰にも例の姿を見られるな」
ユグムは目線を落とす、強く感じる不安と緊張を、マエラに悟らせないためだ。
マエラは席を離れ、しばらく帰って来なかった。
一人になったユグムは、浅い呼吸を繰り返した。
自分を守ること、国を守ること、犯人と犯人の目的を暴くこと。ユグムの頭には、ずっとそのことがぐるぐる回っている。
やれるか、ではなく、やらなければならない。
そして時折、銀髪の彼女の顔がちらついた。
(アリーシア)
ユグムが王城から姿を消すことで、恐らく彼女に多大な負担をかけることになる。
ーー彼女はなんて思うだろうか。
それから程なくして、マエラは居間に戻ってきた。
彼女は真っ直ぐユグムの元に向かい、ユグムに自身の手に持っていたものを握らせた。
「それで完全に呪いを抑えることは、到底できないだろうが、ないよりマシじゃ。それを持っておいき」
マエラがユグムに渡したものは、異様な雰囲気を放つ、鳥の嘴を思わせるような意匠が施される仮面だった。
「これは、何ですか?」
「あれで作られたものさ」
マエラは顎を使って、大鍋を示した。あれは、先ほどユグムの顔に塗ったくった炎を纏った泥が入っている。
「これは燃えていませんが……」
「当たり前さ、燃やしてないからね。これは『マドゥーヌルの土』じゃ。さっきの白い炎は『イシュタブルの炎』、水は『ゾルノムの水』。それぞれの大精霊たちに深い縁のある星泉で採取されたものを使用し、貴殿の表面に出てきた呪詛を祓ったのじゃ」
数多の大精霊の中で、四大精霊と呼ばれる存在がいる。火の大精霊イシュタブル、水の大精霊ゾルノム、土の大精霊マドゥーヌル、そして風の大精霊フィスティーナ、これらが該当する。ゾルノムの水とは、この国で霊水と呼ばれる代物のことだろうとユグムは察する。
「純度には少々難があるがね、この仮面はマドゥーヌルの土で作られたものじゃ。この仮面をつけている間は、その忌まわしき呪いを多少なりとも抑えることができるじゃろう。もし、城の中で呪いが表面に発露しそうになったら、これを着けなさい。人の形を保つための補助の役割をしてくれるはずさ。ただし、先ほども言ったように純度には難がある。仮面の許容を超える呪詛が湧き上がってきたら壊れてしまうだろうし、不確定な要素が強い。これは保険と思ってくれ」
ユグムは頷いた。そして、マドゥーヌルの仮面を受け取った。
「わしは貴殿が王城でするべきことを成すのを、この森で待っている。一仕事終えたらまたこの森まできなさい。わしへの場所は、蛍が教えてくれるじゃろう」
ユグムがその言葉に対して意外そうな顔をしたので、マエラは声をあげて笑った。
「中途半端に呪詛を払って、これまた半端な仮面を渡すだけで、わしがあんたを放り投げるとでも思ったのかい。どうせ貴殿が王城から姿を消したら、王子の協力者として疑われ、わしも件の術者に目をつけられることになるだろうからね」
ユグムは彼女に申し訳なく思うものの、同時に頼もしく思った。ユグムは彼女に頭を下げた。それを見やって、マエラは苦い顔をした。
「わしは、あわよくば貴殿のお父上を殺したやつを、殺してやりたいのさ。だから、全部が全部親切心で力を貸そうってわけじゃあ、ない」
「だとしても、嬉しい申し出です」
ユグムは、彼女と父はどんな間柄だったか気になった。しかし、それを聞くのは別の機会になるだろう。
夜明けが近づいているのだ。
「これから、貴殿の体の痣を化粧で隠すよ。多少マシになる程度だろうけどね」
月光が陰ると共に、ユグムは城と決別しに行く。
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