あなたはいつか、私を忘れる(短編)

雨傘ヒョウゴ

あなたはいつか、私を忘れる

 


 真っ白なベールが静かに目の前を消し去った。ところどころ花をあしらわれたドレスは、歩く度に少しずつ散って、消えてしまう。まるで今の私のようだ。


「ファルシュ様、こちらへ」


 うやうやしく伸ばされた手にそっと手のひらを伸ばした。静かに、優雅に。馬車を降りる仕草は幾度も練習したものだ。しっかりと結われた髪には、きらきらとしたティアラが。耳元で揺れる輝くような大粒のイヤリングは、聞けばぞっとするほどの値段に決まっている。こつり、こつりと足を伸ばした。高いヒールには、もう慣れた。敷かれた真っ赤な絨毯を歩きながら色とりどりの花をしきつめたブーケを抱えて、少しずつ進んでいく。


 ぽろぽろと、ドレスにつけられた花が、歩く度にこぼれて散っていく。その度に、参列者達はわあ、と感嘆の声を上げた。綺麗だと聞こえた言葉がひどく遠くて、不思議だった。少し前なら、まさか自分がこんなことになるだなんて思わなかった。


 これから夫となる男を、初めて見た。白いタキシードを着て、私よりもずっと高い背の男だった。固く、冷たい風貌だ。金の髪がこぼれて、きらきらと輝いているようだ。男はそっと私のベールを持ち上げた。あっと息を飲み込んだ。同じく、周囲も息を飲み込んだことがわかった。美しいのだと。そう言っている。男の瞳も、そう告げていた。どうでもいいことだ。


 こうして、私は今日、見知らぬ青年と結婚する。合わさった唇はひどく冷たくて、祝福の声すらも白けて聞こえた。金で買われた結婚だった。私は今日、私のことを忘れることになる男との結婚を果たすのだ。



 ***



 ファルシュ・フローワ。

 いいところのお嬢様で、病弱だから表舞台に立つこともできなかった。

 そんな女など存在しやしない。私は金で買われた孤児だ。ボロのような服を着て、路地裏でドブネズミのように暮らした。そんな中、伸びた髪を売ろうと街を出たとき、この髪を売ったものを連れてくるようにと言われ、無理やり連れ出された。


 いや、無理やり、というと少し語弊があるかもしれない。金に釣られたのだ。こんなところにいるよりも、お腹いっぱいにご飯を食べて、暖かな屋根とベッドを提供して、綺麗な服を着せてやろう、と言われたから、その手をとった。私の髪は没落したフローワ家と同じく、類を見ないほどに美しい赤髪で、そして私自身の顔をじっと男は確認した。泥だらけにするようにいつも顔を隠していたのに、使いの男は清潔な布で私の頬を拭い、ほうと一つ息をついた。そして呟いた。とても美しいと。


 私は自身の顔と、髪の色で買われた薄汚い孤児だ。何をされるのかと思った。でもなんでもよかった。手をひかれるままに一年の時間を経て淑女として教育された。喋り方や歩き方、食べ方のマナーなんて初めてのものばかりで、一体これにどんな意味があるんだろうとため息をつくばかりだったのだけれど、これでお金がもらえるのだ。みるみるうちに健康な肌に変わる自身を鏡の前で見つめながらまあいいかと適当に呟いた。そして知った。私はある男の花嫁になるために教育されていた。


 男とは、この国の若くして家督を譲られ、魔法伯となった青年だ。絵画を見せられたときは、美しくはあるが冷たい顔つきで、きっと甘やかされて育った男なのだ鼻で笑った。私を教育しているのは、この男、ユース・ブラヴェルの父と母であり、その話をきいたときは、なんと過保護なことかとまた笑った。けれども違った。ユースは、愛したものの記憶を失う。そう誓約されている。ブラヴェル家に残された呪いのような祝福の力だ。


「バカバカしいわね」

「本当だな。つまり君は、ユースという青年に愛されなければいけないのかい」

「そうなるわね。この堅物を、どうやって落としてやるべきなのかしら。男の扱いなんて知らないけど、勉強通りにできるかしら」

「全てを忘れてしまう男に、本物の令嬢を与えるわけにはいかない。だから君というわけか」

「そうね。忘れた後に、あの女はなんてことのない孤児だから、気にすることはないというんでしょう」


 結婚するとは言っても、籍を入れるわけではないときいている。なぜなら私には戸籍もなく、結ぶべきものもない。


「それってどうなのかな。男のプライドというものがあるんじゃない?」

「さあ? でも結婚したところで、全部忘れてしまうんだからどうでもいいんじゃない?」

「なるほど」


 ユースは自身の呪いも、この結婚が嘘で塗り固められたものであることも知らない。一番愛した女を忘れるのだから、彼にとって愛しい女であるように私も嘘を作り上げなければいけない。愛される女になるって、なんだか難しいわね、と顔と髪色で買われた女である私は、こっそりと友人と窓際越しに話をしながら口元に指先を添えた。「演技力が問われるぞ」 友人に言われた言葉に、そうねと頷いた。この一年ですっかり美しくなってしまった自分の顔を鏡で眺めながら、「まあお金のためだから」と呟いた。見てみたところ、自身の表情は絵画の男と負けないほどに驚くほど冷たかった。


 旦那様に全てを忘れていただいた後は、ブラヴェル家の与り知らぬ、遠い場所に旅立つようにと指示されている。窓の外を見ると、高く高く、輝くばかりの国境が空を横断していた。与り知らぬところ、とは一体どこのことだろう。想像して、ため息をついた。そして友人とはここで別れた。せめてもと、こっそり手紙を出すように約束して、覚えた文字が役立つことが、少しばかり嬉しかった。



 ***



「旦那様、本日も大変お忙しゅうございましたね」


 男の趣味は知っている。いや、叩き込まれている。静かに微笑み、しずしずとかしずく。そんな弱々しい女が好きなのだと。結い上げられた髪は、清楚を演じた。言葉数も少ない。無口なつまらない男だった。「ああ」とソファーに座ったまま彼は頷いた。この男に愛されること。そして一番になれば、私はここから旅立つことになる。全身全霊で微笑んだ。男は青い瞳を僅かばかりに大きくさせ、ついと視線をそらした。つまらないやつだ。


 ――――清楚な女が、好みなのだと


 そんなものはつまらない。さて、とそっと青年に近づいた。口づけは二度目である。ただの儀式的な口づけの他には初めてのことだから、彼は私から離れると驚いたように瞬いた。その姿を見て、くすりと笑った。使った体は初めてのことだったが、このように真面目くさった男を取り込むには丁度いいことだった。いつの間にか乱れた髪をほぐしながら、ベッドの外から窓を見つめた。



『それで、その人ってどんな人なの?』


 ときおり友人から手紙が届く。器用に名前を変え、封を変え、怪しまれないようにと手元にとどくその手紙にいつも違う住所に向けて返事をした。


『つまらない堅物よ』


 にこりともしない。勤勉で、いつも机に座っている。食べるものもいつも同じ。することもいつも同じ。見ているだけでつまらない。そんな彼におべっかを使い、笑って、ときおりキスをする。決まりきった日常だ。


『そうなんだ。それで、君の魂胆は順調かい?』


 すこぶる、と返事をした。夜に眠るとき、窓から月を見上げた。いつの間にか指先は男とひっかかっていたけれど、面倒だからそのままにした。シーツの中で体をもぞつかせ乱れた髪を整える。一番愛されるとは、一体どんなことだろう。


 数ヶ月がたったとき、ふと不思議に思った。どうやって判断をすればいいのか、と雇い主に問いかけると、全ては魔法球が教えてくれるのだという。王宮には全てを見通す宝玉があり、その玉を覗き込むと、一番に愛しているものが映り込む。まだ男には、誰の姿も映らない。まあ、じわじわと。まだまだよ、と胸をはった。だからすこぶる順調なのだ。魔法球は、人の記憶を取り込む。そして、それを力とする。様々な悪意からこの国を守るための結界となり、ほころびを修復する。それが、近づいている。


 一つの力はいつまでも頼り切りにできるものでは到底無い。結界は、数百年に一度、定期的に掛け直さなければいけない。その任を得たものが魔法伯であり、彼はその子孫だ。愛するもの全ての記憶を魔法球に捧げて、この国の礎となる。それはとても名誉なことなのだと、彼らの父母は語っていた。けれどもそのことを本人には告げないとは、少しばかりのおかしさを感じたが、それは金で雇われた私が口を出すべきことではない。



 ある日、食卓の食事が変わった。

 テーブルの上には所狭しと敷き詰められていた食事が、素朴なスープやサラダに変わっていて、それを見たときにはまさか私が偽物のファルシュという女であると知られてしまったのではと一瞬ぞっとしたものだが、男も同じものを食しているようだったから、安心した。正直なことを言うと、こちらの方が食べやすくて三日に一度は変わるこの食事を、私はほっと息をついて覚えたマナーを披露し、淑女を演じた。


 自身が美しい女なのだと、鏡を見る度に知った。帽子を深くかぶって、路地裏を這いずり回っていた頃に比べると美しい肌と唇でにこりと笑えば、どんなものでも頬を赤らめて沸き立つのに、男はいつまで経っても変わらなかった。つまらないから、キスの回数を増やした。そうすると、またそれが日課になった。男はいつも同じことを繰り返した。


『で、順調?』

『もちろん、順調だってば!』


 手紙の返事はいつものことだ。


 愛されるとは、なんと難しいことなのか。

 人形のように微笑んで、都合のいい言葉を並べて、行動すればいつかは愛されるものだと思っていた。そうなのだと私にマナーを叩き込んだ教師は言っていたのに。幾度もベッドの中に入って、悔しさに歯噛みした。男の表情はいつだって変わらない。ときどき、難しく眉間に皺を寄せるくらいだ。しょうがないから、そこにもキスをしてあげた。抱きしめられるのはいつものことだ。


 まったく想像通りに進まないことに腹を立てつつ、そんな姿をおくびにも出さず、ただ時間ばかりが過ぎていく。毎日多くの書類にペンをはしらせるユースと言う名の男の背に、そっとブランケットをかけた。文字を勉強したものの、元来の頭がよくなるわけではなく、ちんぷんかんぷんである。まったくわからないわとインクの匂いを感じながら書類を覗き込んでいると、実のところ、瞳を伏せていた彼が起きていることに気がついた。薄く瞳を細めて笑って、キスをされた。悔しいからぷいとそっぽを向いてやった。


 ユースは、いつも書類と格闘していた。休む暇なんてきっとないのだろうと思った。一日まるまる休みができるのは、とてもめずらしいことだ。観劇に行こうと指先を絡められたものの、正直困った。だって行ったことがない。さすがの淑女教育でも、デートの方法なんて習わなかった。教えてくれてもよかったのに、と憤慨したところで仕方がない。


 予約していたチケットをユースがなくしてしまったと言ったとき、なんてうっかりした男だろう、と呆れてしまった。代わりとばかりに詰め込まれたのはバスケットの中にクッキーや、紅茶やパンにサラダを挟んだもので、重い荷物をユースは抱えて、私の手をひっぱった。バスケットにはふりふりしたレースがついていたから、どうにも似合わなくて間抜けな姿だったが、私は笑うことなくついていってやることにした。


 木陰に座って、膝の中に男の頭を載せてやる。硬い顔をしていると思っていたはずなのに、よく見ると可愛い顔をしている。かがんでキスをしてやろうと思ったら、いつの間にかされていた。譲ってくれてもいいはずなのに、いい年をした男がいたずらが成功したように声を出して笑っていた。こんな性格だ。きっと友人なんていないんだろう。私は恐らく、真っ赤になって怒った。ざわざわと草原が風の中で音をたてて通り抜ける。


 私は彼のことを、旦那様と呼んでいた。旦那様と過ごす時間が長くなる度に、次第に友人との手紙の頻度は減っていく。幸せなのかな、とある日届いたそれを、ふん、と鼻から息を出してやった。旦那様にも、私と同じようによくよく手紙が届いていることを知った。これだけ愛してやるそぶりをして、一向に愛されることもないのだ。きっと女に違いない、と恨みがましく彼の手元を見ていると、「友人だ」と笑われた。


 絶対女に決まっている。だって仕事ばかりの旦那様に、友人なんてできるはずがない。それを言うと、女もそうなのか? と冷静に考える部分があったけれど、それはそれ、これはこれである。私は勝手にすねてそっぽを向いて、ぷんぷん歩を進めた。待て待て、と最初よりも随分柔らかくなった旦那様の声と一緒に腕をひっぱられて、頭を撫でられた。まったくお前は、と呆れた言葉つきだ。とりあえず、髪が崩れるのでやめてくださいと理不尽に怒ってみた。



 瞬くように日々が過ぎて消えていく。陽気の中でピクニックに行った時間はとっくに遠いものとなり、木枯らしが吹き、頬が冷たくなるとちらほらと雪が降った。枝にどっさりと積もった雪がこぼれる度に窓ガラスに手のひらをのせて、じっと見つめた。その背にはいつも旦那様が重なっていた。またそして春になった。いつまでも、私は彼から愛されなかった。


 それが、いつしかほっと息をおとすようになった。よかった。今日もまた彼の隣で目が覚める。硬い、つまらない顔だと思っていたのに、可愛らしい寝顔をしている。よしよし、と撫でると、実のところ起きていて抱き寄せられるところまでがいつものことだ。ほっとした。愛さないで欲しい。いつまでもこうしていたい、と強欲なことは思いもしないけれど、少しでも長く、時間を過ごしたかった。


『なぜ、愛されていないと思うの?』


 順調かい、と時折聞かれる手紙の答えに、私は困って考えた。宝玉に姿が映らなかったときいたのは、しばらく前のことだ。今もそうなのかどうかは知らない。でも、私は愛されてはいないと思う。なぜなら、生まれてこの方愛されたことなんてないからだ。


 だから、何が愛しているのか、愛されることなのかわからなかった。ファルシュと名前を呼ばれる度に、そんな女は存在しないことを知る。私は金で買われた、ただの汚い存在である。それを思い出し、彼に愛されるはずがないと考え、ほっとする。二度目の冬がきた。暖炉にはあかあかと柔らかな炎が揺れていて、「お前は寒さが苦手だからな」と不器用な笑みを浮かべる彼を見たとき、気づけば私はひどく勝手に、涙がこぼれていた。


 ぼたぼたとこぼれた涙に、旦那様は驚いたように幾度も瞬き、すぐさま私のもとに来た。指先で涙を拭う程度ではたりなくて、手のひらのはらをつかって、それでもだめだからと抱きしめた。幾度もかいだ彼の匂いがする。このまま、ずっと一緒にいたいと願う匂いがした。


「ファルシュ、どうした」


 困っている声がした。ただ嗚咽ばかりが溢れた。「お前は、いつもわかりやすいのに、今回ばかりはわからない。どうした。言ってみろ」 ほんとは観劇なんて興味もないし、食事だって簡素なものがいいんだろう、と言われた言葉に、さらに泣いた。彼の中で、ファルシュという女が積もっていた。ぱくぱくと口にしようとしたものは、うまく声に出すことができなくて、愛して欲しいという言葉と、やっぱり愛さないで欲しいという言葉の二つがぶつかりあった。


 ただ、内に蓋をしていたものがある。こぼすまいと必死に抱きしめていたものが。「旦那様……」 けれども、だめだった。「わ、わたしを」 とにかく、怖かった。けれども、声にださずにはいられなかった。


「私を、忘れないで、ください……」





 ***



 ユースの父と母は、すでに彼に家督を譲り、遠い地で悠々と暮らしている。ただ美しさしか取り柄のない私という女を見つけ出し磨き上げ、息子に差し出した。驚くほどに見目が綺麗な女なら、きっと一番に愛すに決まっている、という愚かな考えを持っていた。私は一年もの間、彼らの屋敷で暮らし、厳しくしつけられた。


 国の結界を維持するために、息子には犠牲になってもらおうと、それが魔法伯の役割であると互いに語り、例え一番に愛した女の記憶が消えてしまっても、それはただの汚らしい孤児であったと言えば、記憶も消えてしまったあとだ。なんの問題もないだろう、とワインを片手に笑っていた。その姿を、扉の隙間から窺った。

 まあ、そんなもんだろう、と彼らの魂胆を理解し、扉の外であぐらをついて座り込んだのは、未だしつけが行き届いていない私という女であった。あくびをしつつ、会話をきいた。


「ユースの記憶を宝玉に差し出す前に、万一があっては困るからな。なるべく早く送り届けねば」

「そうね。けれどあなた、あの女はどうしましょう。忘れてしまっては用済みよ」

「そうだな。本来ならユースには公爵家の令嬢をあてがうつもりだったが、まさか本物の令嬢を粗末に扱うわけにはいかないからな。ユースが忘れてしまえば、捨て去るしかない。子ができては面倒だ」

「確かに、おぞましいことね」


 つまりは殺すという意味だろう。私にはたんまりと謝礼を与えて、幸せに暮らせるようにと告げながらも、彼らはワインと一緒に私の命を語っている。まあそうでしょうね、とあくびをした。この屋敷についてきたことで理解していた。私は賢くはないけれど、私という人間の命が何よりも軽いことは理解している。


(でも、一度贅沢というものをしてみたかったのよね)


 明日のご飯に困ることもない。ふかふかのベッドで寝ることができて、苦手な寒さもなくて、綺麗な服を着ることができる。そんなおとぎ話のような世界に住んでみたかった。決して、命が惜しくなったわけではなかった。いつ死んだって構わない。後悔することは色んなところに行ってみたかったな、と思うくらいで例えば結界の外にある、魔族の国とか、と冗談交じりに考えて、そのときはひっそり笑った。



 抱きしめられながらも、考えた。

 愛されることも、愛すこともわからないのに、一足飛びでなんとも自意識過剰な女だと思いつつも、万一、これからユースという男に愛されたことを想像した。彼は結界と引き換えに、私の全ての記憶を忘れる。すると、本来の正しく、美しい少女が彼の隣に来るだろう。偽りの婚姻はすぐに忘れ去られ、新たな記憶に塗り替えられる。ユースの隣にいるのは、どんな少女なんだろう。私よりも本当の意味で可愛らしく、おしとやかで、賢い淑女なのだろうか。想像の中の少女に自分が勝てることなんて、きっと一つもありはしない。なのに、悔しかった。いや、辛く感じた。


 旦那様は私と接するときと同じように、たくさん少女にキスをするのだろうか。優しくベッドで抱きしめるのだろうか。重い荷物を抱えて、ピクニックに行くのだろうか。


 辛かった。胸が張り裂けそうだった。私は死んだってどうでもいい。でも忘れないでほしかった。私という存在が、彼の中から消えてしまうのだと考えると苦しくて、苦しくてたまらなかった。


「忘れ、ないで……」


 ただ泣きじゃくりながら繰り返す女に、旦那様はどう思うだろう。彼は、自身の記憶をいつか失ってしまうことなんて、知りはしない。ぱちぱちと、薪が弾ける音が聞こえる。もうすぐで、期限が近づく。万一、愛されなかったとなれば、それはそれで用済みだ。汚れた血をブラヴェル家に混じらせるわけにはいかない。小さな命が芽生えていた。それを知った彼は、いつもは大きく表情を動かすことはないのに、驚くほどに顔を歪めて私を抱きしめた。それほどまでに嫌だったのだろうかと思えば、よくやったと褒めてくれた。


「忘れない」


 呟いた声はひどく小さなものなのに、しっかりと私の耳に残った。「忘れるわけがないだろう」 何を言っているんだ、と呆れたような声だった。一番愛している女のことを、忘れるわけがないだろう。

 続いた名前は、すでに誰も知らないはずの名だ。いいや、ただ一人きり。今は会うことのない、手紙の友人だけ。その名前を知っている。




 ***



 二人の男女が消えてしまったというその知らせに、一部のものたちは恐ろしく体を震わせた。その役割を知っているものはたったの一握りで、国王含め幾人もの家臣たちはどうするべきかと幾度も会議を繰り返した。


「さ、探せ! どうせ近くでくすぶっているに違いない。探せばすぐに見つかるはずだ!」

「それよりも新たな生贄を作ればいい。あの魔法は、魔法伯の血統にしか作用しない。ならば、その父の記憶を捧げればいい!」

「それはすでに試したあとだ! 宝玉には誰も映ることはなかった。本当に愛しているものがいなければ、結界は作用しない!!」


 狂ったような騒ぎだ。王は多くの言葉をきき、ただ疲れ果てたように玉座の中に座り込んだ。ことは、国を揺るがす。結界が解き放たれる。魔族がこの国に押し寄せる。たかが一人きりの血筋に頼り切りにするには恐ろしい話だったが、長い年月を経て、その血筋はいつの間にか消え失せて、結界のほころびが来るときが、まさか自身の代になるなどと思いもよらなかった。ほころびを知ったのは、つい数年前のことだ。


 愚かな王であった彼は、泡を食って魔法伯の父を呼び寄せた。そして息子に愛しい女がいるかと問いただし、すでに準備は整っていると言われた言葉に、ほっと息をついた。それがただ自身を有能に見せたいばかりに、口から出たでまかせであったと気づかない程度には、やはり彼は愚かだった。魔法伯の父はそれから慌てて孤児を探した。


 こつこつと足音が近づいている。疲れ切った王の前には、一人の息子がいた。「……お前か」 彼は王とは違い、様々な魔法を操る天才とも言える青年だった。溢れんばかりの魔力を持て余し、いつもふらふらと楽しげにしている。


「おつかれのご様子ですね」

「そうだ、今は疲れている。お前の相手などしている暇はない」

「ユースと彼女が消えてしまったことに関わると?」


 何かを知っている。まるでそんな口ぶりだった。息子は、彼にとってひどく得体のしれないものだった。いつも周囲をあっと驚かせる天才と言えなくもなかった。青年は様々な手紙を王に見せた。玉座と、その下に立っているものだから、距離はそれほど近くはない。だから青年は暗唱した。その言葉を聞き、王は震え上がりながらも声を振り絞り叫んだ。


「お、お前が、逃したのか……!!!」


 おかしなことだった。彼らの周囲には、警備を何重にも配置していた。その中をぬって、ある日あっさりと二人は消えた。女は身重だったとも聞いている。


「もちろんです。逃しました。彼らは俺の数少ない友人だ。変わり者の俺ですから、友達は選びます。ユースは唯一の親友です。その親友と嫁となれば、一目散に会いに行きました。そして彼女とも友達になったのです。もちろん、この国の王子であるなんて伝えてはおりませんが」


 あまりにもあっけらかんと笑いながら告げる黒髪の青年に、ただ王はぱくぱくと口をあけ、金魚のように不思議な姿を見せた。「ど、どこに!!」「安全な場所です。いうわけがありません」 なんせ友人の危機ですからと胸をはる。彼はユースにも伝えた。そしてわかりやすい奥方には、なるべく秘密とするようにことを進めた。


「お、おまえは、何をしているかわかっているのか……!!」


 ひどく恨みがましい声だった。それは魔法伯の父と、その母も同じだ。消えてしまった息子に怨嗟の声をあげ、そして自身には愛するものの一人もいないことを突きつけられ、屍のように唇を真っ青にさせて震えていた。

 魔族が押し寄せる、と王は叫んだ。なんてこともないように、そうですねと王子は頷いた。


「これで、国を守る結界は消えてしまうことでしょう。けれども、人一人を犠牲にして成り立つ国とは、どれほどの意味を持つのでしょうか」

「国とは、多くの人間が集まり、成り立っているものだ! 詭弁を言うな! 魔族が押し寄せれば、この国は終わる。消え失せてしまう!」

「そうでしょうね。いびつに育った国は、いつか滅びる運命というものです。民から甘い汁をすすり生きている、すくなくとも私達王家や貴族は崩壊するかもしれませんが、まあでも仕方のないことです。きっと人々には関係がない」

「レックス!!」


 王は息子の名を呼んだ。彼はただ笑った。ただ、王は叫ぶしかなかった。


「お前の、膨大な魔力を、私は思って……! お前の魔力は、すでに人を超えている。永い時を生きる。そのためには国が必要だ。お前のために、私は……!!」


 のちに賢者と呼ばれる青年は、わけもわからず叫ぶ父の声を遠くさせながらも、ふと窓の外を見つめた。暗く沈んだ中でもよくわかるほどに、空を横断する幕がある。その幕は、近々消えてしまうのだろう。押し留めていた時代は流れる。さて、と歩を踏み出した。


 時が流れ、城は朽ちた。国という名は残ったが、少しずつ形を変えた。時代とは留めるものではなく、流れるものだ。多くの子供達を前に、黒髪の青年が歌うように物語を紡ぐ。



 ***




「閉ざされていた結界が崩れ落ちると、多くの魔族が人の国に押し寄せた。最初はみんな驚いて、恐れもしたが、最初に彼らと縁を結んだのは商人だった」


 いつの時代も、一番商人が強いんだよな、と男は口元を緩めた。


「文字が違うし、言葉が違う。もちろん文化も。でも互いに知らないものを合わせるように、まずは商品の交換だ。恐ろしい文化は、きらびやかな輝きとなって、市井を賑わせた。貴族たちはその流れを押し止めることができず、もちろん争いも起こったけれど、人々は彼らと手をつなぐことを選んだ」


 へー……と子どもたちが静かに膝をついて、男の話をきいている。「昔々の話というやつだ」 調子よく、青年は指を振って語っていた。しかし一人の子供が、はあい、と手を上げた。


「“マゾク”って、なに?」

「んお?」


 そうそう。そこ、わかんなかった。なんだろ。きいたことあるかも?

 子どもたちの間でざわつきが広がる。ええっと、と男は頭を人差し指でぐりぐりさせて、考えてみる。「見かけが違う人間のことかな」「見かけ?」 また首を傾げる声がする。


 羊のような角をした少女が、隣の少年に声をかけた。「見かけが違うことは、当たり前のことよねえ?」 みんなお顔も、肌の色も違うもの。と続けた言葉に、青年はううん、と唸った。「ごめん確かにそうだ。次までにもうちょっとうまい説明を考えとく」「よろしくね」 なんだか一本取られたような気分である。やはり自分は古い人間なのかもしれない。


「それで、最初のお姉さんと、お兄さんは?」


 別の少女がわくわくと声を出した。金髪で、くりくりした瞳が可愛らしい少女だ。「そうそう。そこが重要だよな」 青年は頷く。


「逃げ出した男と女は、もちろん幸せに暮らした。女は男が貴族……ええっと、そういった市井での暮らしには慣れないだろうと心配していたけれど、案外男は強かった。二人は幸せに暮らしたし、かわいい女の子も生まれた。もちろん、賢者はときどき家に遊びに行ったりもした。これでおしまい」


 はー……とやっとの終わりに、彼らはパチパチと両手を合わせた。その中で、「なんで賢者は男の人と女の人を助けたんだろう」と小さな疑問の声があがる。「あなた、きいてた? 友達だって言ってたじゃない」「だって! 友達っていっても、他のたくさんの人が関わるのに。そんな簡単な話じゃないよう」「お話にそんなこと言ったって仕方ないでしょ! もしくは友達が本当にいなかったんじゃないの?」 なんだか耳の痛い話をしている。はは、と出てくるものは失笑しかない。


 さて終わった終わった、と満足して消えていく子どもたちの中で、ただ一人、女の子が残っていた。さきほど彼に話しかけた、くりくりした瞳の女の子だ。「どうかした?」 青年が問いかけると、少女は少しばかり心配したように、眉毛をちょっとハの字にした。「ねえ、賢者さんは?」 悲しげな声をしている。


「賢者さんは、それからどうしたの?」


 男女二人は、幸せに暮らした。そして、賢者は。


「賢者は永い時を生きたよ。とても膨大な魔力を持っていて、無限の命があるからね。移り変わりを、全部その目で見てきた。それで、ときどきちょっと心配になって、友人たちの子どもたちを見に来るみたいだ」


 女の子の頭をなでながら、そう告げる。

 忘れないでと彼女は言った。忘れられることが、何より苦しいのだと。夫に忘れられてしまうことが、命よりも、そのことが辛くて仕方がないと。


 賢者と呼ばれる青年は、様々な国を旅した。そして多くの物語を語った。移り変わる時を足で踏みしめ、とっくにボロボロになって消えてしまった手紙の文字を思い出した。彼らはいなくなってしまったけれど、彼の記憶には、今もその顔が写っている。愛しく、互いに手を重ねる男女の姿が。



 さて、これからまた、どんな国に変わっていくのだろう。それは彼にだってわからないが、彼にできることは、ただ見届けることだけだ。ただ幸せな話を祈った。

 優しい物語となりますように。


 誰しもが、愛しい人と離れ離れになることがありませんように。

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あなたはいつか、私を忘れる(短編) 雨傘ヒョウゴ @amagasa-hyogo

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