時を超えて、戦国に生きる

藤原あみ

第1話 はじまりの時

もう少しで、彼の夢は実現できたのに。

裏切りが続かなければ、それぞれの事柄が叶えられたのに。

もっと早く、国々を治められたのなら。

もっとゆっくり、時が流れていたのなら。

ーこの国々に、あゆちの風を吹かせたいのだー

殿は若い頃、時々そう言って、空を仰いだ。

なのになぜ、こんなことになって仕舞ったのだろう。

ただただ、ひたすらに生きてきた。

わたしも、殿も。


既存の勢力を敵に回しても、四方八方を敵に囲まれても、

目的達成の為、目指した道を、なりふり構わず必死に走った。

それが、彼に課せられた使命だと、わたしは知っていたからだ。

そう信じていた。


立ち止まることも、振り返ることもなかった。

殿は、自身の自由や、やすらぎ、遊興などを犠牲にして、常に鍛錬にいそしんだ。すべては戦乱の世を終わらせ、新しき世を造るため。


理想の国造りは間近だったのに。

あの日の裏切りさえなければ、

あの人が、殿を裏切りさえしなければ、殿は目標に辿り着けた。

殿は、あの人を信頼していた。

いやっ、あの方だけではない。殿は人を信用しやすい性格だった。

しかし、幾度も裏切られ、その繰り返しにより、殿は心を閉ざして行った。

明智惟任日向守、なぜお前は殿を裏切らなければならなかったのだ。





「織田信長という人物の出自は、尾張の国、現在の愛知県だな。そこは八郡に分かれていて、そのうちの四郡を任された三奉行のうちのひとりに過ぎない父親、織田信秀の、一応は長男として生まれた。すなわち信長は、大名家でもない家の侍、はっきり言うと、身分の低い田舎侍ということになる」

そう興奮気味に語るのは、わたしの通う高校の担任教師である。彼は、丸ぶちの眼鏡の奥にある、まるい釣り目を、見開きがちに、額と喉に青筋を立て、身振り手振りを加えて熱弁している。スーツ姿、東大卒を誇るその教師は、信長を嫌いなのだろう。たとえば、信長の身分の低さや、乱暴なところを、ことさら強調しているが、彼の主張は、そういう事が重要なのではなく、その教師の持つ、強者への偏見的な思想が、言葉の端々に強く表れている。たかだか18歳のあおいでも、その程度の人間観察の能力は備わっている様だ。彼女はその教師が好きではない。チャイムが鳴ると、教師は教壇に両手を広げ置いて、窓際の席に座るあおいを、ちらりと見た。肘をつき、掌に顎を乗せて授業を聞いていたあおいの態度が不満なのだろう。あおいは彼を無視するように、目線を窓外に向けた。

校庭の眺めから、河川敷に広がる桜並木が視界に広がる。春の日差しが、やわらかだった。


暖かい


目を閉じた。

親しい友人の声がする。

あおいに歩み寄り、名前を呼んでいる。

幼少期から、近所に暮らす智香の声だった。同時に、孝一の声がした。孝一に話しかける遥(はるか)の声も近づく。3人が、あおいの机に手を置いた時、あおいは、心地の良い眠りに堕ちた。

「あおい」

聞きなれた声が、あおいを呼んだ。

ウトウトと眠ってしまった。

教室?ん、違う。足元に、液体がしたたる。

「ここはどこ?」

頭を上げ、上半身を少し起き上がらせた状態で濡れた足元を見る。

「芝生?」

足が濡れていることよりも、草の上に横たわっていたことに驚き、はっと上半身を起こした。

わたしなんで河原に寝ているの?

周囲を見渡すと、地元では馴染みのない景色が広がっている。

整備が行き届いてない、草ぼうぼうの土手に、河原。あおいは、草木に埋もれるような状況であった。怖くなり、両腕を身体に絡め、全身を縮めた。その時である、

「お前、どこから迷い込んだ?名はなんと申す?」

矢継ぎ早に問いかける男の声。あおいは顔を上げ、声の主の方を見た。

なに、この人

そこにいたのは、10代後半に見える仮装した青年だった。仁王立ちで腕組みをし、あおいを見下ろしている。

男は派手な湯帷子を袖脱ぎにして、半袴を着用。縄を巻きつけた腰には、火打石袋、瓢箪(ひょうたん)などを複数ぶら下げている。

「なにやら化け物にでも遭遇したような顔をしておる」

男はそう言うと、腰を落とし、あおいの顔を真正面から見た。茶筅曲げに結い上げた髪を束ねる糸も、色鮮やかである。腰に差している朱鞘(しゅざや)の太刀に右手を置いていた。

「言葉が話せぬのか?」

男が再び問いかけるが、あおいは、その大きな目を見開きがちに、男の両目を凝視しているばかりで何も話さない。

「この国の者ではないのか?おかしな格好をしている」

男はあおいの全身を眺めるようにして、そう言った。

あおいはその時、高校の制服を着ていた。あおいの高校は、現代では珍しくセーラー服である。上下セパレート型のセーラー服は、薄い水色を基調とし、襟には濃い青の二本線、白いスカーフはリボンになっていた。

「奇妙な恰好だな」

怪訝な顔をし、あおいの足元に目を止めた。

なに見てるのよ

あおいは膝を抱えて、両足を引いた。

「やめとけ、濡れる」

男が慌てたように静止した。

(濡れる?そうだ、なんだか右足だけがびしょびしょに濡れている

あおいは、濡れている方の足を見た。

「あの、すまない」

ん?すまないって?

男の顔を覗き込んだ。

「お前が、横たわっているのが見えずに、その、小便をかけてしまった」

悪意はないのだと、男は両掌を顔の前で合わせ、拝むようにした。

そういうことね、しかたがない。ここで寝ていたわたしも悪いし。しかし立ちしょんとは

「すまぬ」男がもう一度、謝った。

罰が悪そうにしている男の顔を見て、「なぜ、謝るの?」あおいが言うと、

「お前、話せるのか?」

男は声を弾ませ、そう言った。

「話せるわよ、もちろん。ただ、いろいろな状況が掴めなくてね。そこに仮装したあなたでしょう」

「仮装?」

男は顎下に手をやり、眉間を寄せた。

「織田信長でしょう?その恰好。その位わかるわよ、どこかで見たことがあるもの」

そう、言い捨てると、あおいは立ち上がった。同時に男も立った。

身長167センチのあおいより気持ち、背の高い男は、薄っすらと口角を上げ、こう言った。

「わしを織田信長と呼ぶ者は珍しい。大抵は、織田の大うつけと、そう呼ばれる」

「はいはい、そうなのね。ご苦労なことです。うつけって何よ」

信長気取りの男には、これ以上関わるのを辞めようと、あおいは思っていた。

とにかく家に帰りたい。

制服についた汚れを手のひらで落とし、空を見上げると、もう夕暮れ時だった。スカートのポケットに入れていた携帯電話も見当たらない。

見知らぬ場所で寝ていたことへの恐怖よりも、心細さが襲ってきた。

お母さん

一人っ子のあおいを懐に入れるようにして、大事に育ててきてくれた母親と、単身赴任で海外にいる父親のことを思っていた。

「一人で帰れるのか?」

男が聞いた。

わからない、けど帰りたい

「ここは、どこですか?」

「清洲じゃ」

「清須?清須は名古屋じゃない。ここは東京だよ、東京の吉祥寺なのよ。真面目に答えて、ここはどこ?」

「ん、だから尾張国の清洲じゃ」

 もういい

ふざける男に腹が立ち、伸びきった草を手でかき分けながら、あおいは土手をあがろうとした。

普段なら体力はある方なのに、こんな緩やかな土手くらい、軽く登れるのに、力が入らない。

「送ろう」

男の声はやさしかった。

足も片方濡れているし。いまは、この人に頼ろう。素直にそう思った。

「道がわからないの。歩いて行けるのなら、駅まで送って欲しい、携帯で、タクシーを呼んでくれてもいいの。そうだ、携帯を貸してくれない?お母さんに電話するから」

片腕を男に支えられ、土手を上がりながら、あおいは早口でそう言った。

「携帯?なにを携帯していると?」

そう言いながら、男はある方向を指さした。

男の指さす方向には、一頭の馬が。

「馬、田舎、時代劇。どういうこと?」

あおいが横たわっていた河原を上がり切ると、木造建築の巨大な屋形が姿を現した。周囲にコンクリート造の建物などなく、付近を歩く人々の恰好は時代劇さながらだ。しかし、仮装や演劇といった雰囲気はなく、異次元の空気が漂っているのを感じる。

「うそでしょう」

頭のてっぺんから、血の気が引いてゆくのがわかる。

あおいは、意識を失った。


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