第4話・元彼からの話

 食事を終え、手早く洗い物を済ませて再び戻った瑞希の前に、伸也は持ち込んだビジネスバッグの中から分厚い資料の束を取り出した。


「2年前、母方の祖父が急死して、後を継ぐ為の修行に行けって言われて、考える間もなくロサンゼルス行の飛行機に無理矢理乗せられた。二日酔いで朦朧としてる内に、気が付いたら雲の上飛んでた……」

「え……」

「ほぼ、拉致だったね。前日の飲み会も、祖父の会社がらみの人とだったから、計画的犯行」


 社内派閥の関係でどうしても血縁者である伸也を次期社長にしたい者達に仕組まれたということが分かったのは、それから随分経った後だった。手持ちの鞄一つで渡米させられた彼は、その唯一の荷物さえも空港内で失ってしまった。


「海外って、怖いよね。二日酔いで頭痛くてぼーっとしてる内に、鞄ごと持ってかれたよ」

「……」


 思い出しておかしそうに伸也は笑っていたが、聞かされた瑞希は笑って良いものかどうか分からず、無言のまま顔を引きつらせた。

 空港まで迎えに来ていた関係者によってその後のフォローもあり、携帯やクレジットカード類の利用停止の手続きは出来たが、肝心の瑞希への連絡手段が無くなってしまった。

 不幸中の幸いなのは、パスポートは付き添っていた会社の人に管理されてたから盗られず済んだことくらい。おかげで大使館の世話になることはなかった。


「隙を見て一旦帰国するつもりだったんだけど、そんな余裕すらなくてさ。せめて一日でも早く修行を終わらせようと、必死で仕事を覚えたよ」


 結局、帰って来れるまで2年もかかった。そして、日本に帰って来て継ぐことになったという会社のパンフレットを瑞希の前に広げて見せる。付き合っていた頃に彼が勤めていた会社の親会社にもあたる、KAJIコーポレーション。全国に支社を構える大企業だ。

 刷り上がったばかりだという最新のパンフの裏表紙には、目の前にいる伸也のすました顔が代表取締役CEOとして掲載されていた。就任日が先月の日付になっているので、本当に帰国したばかりなのだと分かる。


 帰国後すぐに携帯番号を復活させて、連絡先の分かる知り合いを伝手に自力で瑞希のことを探してはみたが、どうしても見つからなかった。共通の友人は元から少なかったが、その誰もが瑞希の居場所も連絡先も知らないと言う。絶望的だった。

 ただ分かったのは、瑞希に子供がいるかもしれないということだけ。無事に生まれているかどうかの情報を持つ者は誰一人としていなかったが。

 けれど、間違いなく自分との子だと思った伸也は、必死で瑞希達親子を探し続けた。


「で、ごめん。どうしても早く会いたくて、興信所を使った。これが受け取った資料」


 冊子状に綴られた分厚い調査報告書には、住所や勤務先、改姓したことなどが記載され、つい最近の瑞希と拓也の写真も貼られていた。パラパラと捲ると、拓也を出産した産院の情報や今月の勤務シフト表まであった。


「うわっ」

「ごめん、俺もここまで調べてくるとは思わなくって……」


 あまりの個人情報の漏洩っぷりに、ドン引きだった。怖いを通り越して、すごいと感心してしまうレベルだ。下手したら瑞希本人が知らなかったことまで記載されていたりする。

 そして、拓也の出産にまつわるページには、父親と思われる人物として伸也の名が書かれていた。妊娠の可能性がある時期の交際歴から推測されたのだろうか。瑞希がそこで目を止めたのに気付いた伸也が、嬉しそうに笑った。


「DNA鑑定する必要の無いくらい、そっくりですよって言われたよ」


 また改めて、瑞希に向かって頭を下げる。興信所で言われたからじゃなく、瑞希のことをよく理解しているからこそ、この子の父親は自分以外にはいないと確信していた。


「拓也を生んでくれて、ありがとう。一人で苦労させて、ごめん」

「それはさっき聞いた」

「そっか、じゃあ――これからは俺に二人を守らせて下さい。俺にはそうする義務があるし、そうしたい」


 興信所の資料の上に、伸也は必要事項の記入を終えた婚姻届と、拓也の出生に関する認知届を重ねた。驚いて目を丸くしている瑞希の顔は、徐々に困惑したものへと変わっていく。


「こっちは瑞希が承諾してくれれば、明日にでも出してくる」


 母親の欄以外を全て埋められた認知届。瑞希自身も、拓也の戸籍に父親の名がない状態は申し訳ないとは思っていた。嬉しいと思う反面、それでいいのかとも思った。


「伸也は、困らないの? 今の立場的に……」


 国内に何社も支社を抱える会社の代表に隠し子が居たとなれば、大問題にならないだろうか。瑞希の心配をよそに、伸也は部屋の隅に敷かれた布団で眠る息子の顔に視線を移し、穏やかに微笑み返した。その笑顔もまた、拓也と瓜二つだった。


「瑞希との連絡手段が無くなった時ほどは、困る事なんてないよ」


 一人で考える時間も必要だろうと、無理に急かすことはせずに伸也は瑞希のアパートを出ていった。

 いくら何でも、急に目の前に現れた元彼の言うことを鵜呑みにする訳にはいかない。子供を産みたいと思う程に愛した人だったが、この2年間の彼のことは何も知らないのだから。


 テーブルの上に積み上げられた資料の山が、明日の朝には夢となって消えている予感さえした。嘘っぽい、とても都合が良過ぎる夢だ。


 眠っている拓也の頭を優しく撫でていると、この子を産んでからの1年半の出来事が走馬灯のように脳裏へ流れていく。あの思い出の中に伸也もいてくれたら、どんなに心強かっただろうかと。

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