第3話・二年ぶりの再会
妊娠が分かった時、簡単におろせと言ってくる人がとても多く、一人で産むと決めたと同時にたくさんの人との縁を切った。否、瑞希の方が切られたことも多かった。誰も味方なんていないと思ったから、携帯番号を変更することに躊躇いはなかった。
実の親なんて世間体を気にした挙句に、同じ姓を名乗って欲しくないと母方の祖父母との養子縁組を勧める始末。おかげで、相沢瑞希は田上瑞希になってしまった。
「瑞希の実家にも行ってみたけど、うちにはそんな娘はいませんとか言って追い出されたよ」
「勘当というか、縁を切られたからね」
自分で言ってて、情けなくなってくる。拓也を身籠ったことで、それまでの周りとの関係の希薄さを思い知った。養子に入れてくれた祖父母でさえ、渋々という風で誰も助けてはくれなかった。唯一の救いは、実家暮らしの二十台後半ってことで、貯金がそれなりにあったことだけ。それまで地味に生きていた自分をめちゃくちゃ褒めてやりたい。
産院で教えて貰ったシングルマザー向けの支援団体に助けを求め、一人で息子を出産し、部屋も仕事も保育園も必死で探した。特に部屋を探す時に、この世界が思っていた以上にシングルマザーには優しくないことを思い知らされた。ファミリー向けは家賃が高くて手を出せず、ワンルームだと夜泣きする可能性のあるからと乳幼児は断られてしまう。
その間、消えてしまった伸也のことは風の噂すら聞かなかった。
「本当に、ごめん。瑞希には謝っても謝り切れない」
ちゃんと話をする前に、無理矢理に渡米させられたと言う元彼の言葉を、「はい、そうですか」と受け入れられる器は瑞希には無い。素直に信じて、また傷付いたり悲しい思いをしたりするのは勘弁だ。
「ちゃんと説明したくて、いろいろ持って来たんだけど、家に入れて貰えるかな?」
話しながら歩いている内に、瑞希の住むアパートの前に着いていた。いろいろ調べたというだけあって、伸也は彼女の家まで把握しているようだ。築年数が想像できないような年季の入った建物にも、特に驚いた素振りは見せていない。瑞希でさえ、不動産屋から初めて連れて来られた際は、その古さと廃墟感に言葉が出なかったくらいだったのに。
チャイルドシートで眠る拓也をちらりと見ると、瑞希は諦めたように頷き返す。小さな子供をいつまでも外に連れ回している訳にはいかないし、このまま眠ったままなら、きちんと着替えさせてから布団に寝かせてあげたい。
駐輪場所に自転車を停めてから、102号室の鍵を開ける。たいした家具もない殺風景な部屋に、伸也はさすがに驚きを隠せなかったようだ。靴を数足並べただけで一杯になってしまうような、名ばかりの玄関で、目をぱちくりさせて立ち尽くしていた。
テレビすらない1DKの部屋には小さなテーブルと、折り畳まれた布団。それでも、部屋の片隅に置かれた籠の中には子供の玩具が詰め込まれていて、唯一の収納家具とも言えるカラーボックスには絵本が並んでいる。部屋全体を見回すのに数秒も必要としない。
瑞希に促され、フローリングの上に直に座りながら、伸也はネクタイを少しだけ緩めてから部屋の中を改めて見渡した。部屋を見るだけで、瑞希が拓也の為に頑張っていることが一目瞭然だった。
壁に掛けられた女性物の洋服のほとんどに、伸也は見覚えがあった。2年前にも彼女は同じ物を着ていた。つまり、伸也が消息を絶っていた間、瑞希は拓也の為だけに生きていたのだ。自分自身のことは後回しにして。
子供用の小さな布団に拓也を寝かしつけている瑞希の後ろ姿をじっと見つめ、膝の上で拳を強く握り締める。全てを軽く考えていた自分が情けない。自分と彼女とは全く別の時を過ごしていたことに、この時初めて悟った。
保育園から持ち帰って来た荷物を片付け、洗面所で部屋着に着替えた瑞希は、冷蔵庫の中から休日に仕込んでおいたらしき食材が入ったタッパーを取り出して、伸也の方を振り返った。
毎日当たり前のようにこなしているのだろう、台所に立っている動きに無駄がない。
「夕飯まだだったら、簡単な物しかできないけどいい?」
「あ、うん。ありがとう……じゃなくて、先に話を聞いて欲しい」
「無理。私がお腹ペコペコだから」
2年ぶりの再会なのに、すっかり瑞希のペースだ。これが母の強さなのかと、伸也は感心しかけ、否、強くならざるを得ない状況に追い込んだのは自分だったと気付く。
予めに野菜等を切っておいたらしい材料で手早く八宝菜を作ると、瑞希は不揃いな器二つにご飯を盛り、その上に乗せた。洗い物も少なくて済むのに野菜たっぷりな中華丼にすると、割り箸を添えて伸也の前に置く。
「ごめんね、食器とか全然揃えてなくって……しかも、全部100均だし」
恥ずかしそうに笑いながら伸也の向かいに腰を下ろしてから、いただきますと両手を合わせる。伸也が離れていた2年の間に強く逞しい母となっていても、礼儀正しい瑞希の所作は少しも変わらない。正座して真っ直ぐに伸ばされた背筋と、きちんと躾けられたのが分かる箸使い。
一度は手に取った割り箸を伸也はテーブルへと置き戻した。そして、崩していた足を正して、瑞希に向かって頭を下げる。
「ずっと連絡が取れなくて、ごめん。瑞希一人に苦労させてしまって、ごめん」
中華丼を頬張ったまま、瑞希は頭を下げている元彼のことを見ていた。しばらくして頭を戻した伸也の顔は、泣く寸前で我慢している時の拓也の顔とそっくりだった。そんな顔を見せられてしまったら、怒る気は失せる。
「とりあえず食べて。その後に一から順に説明してくれる?」
「……分かった。いただきます」
先程の瑞希に習って、伸也も両手を合わせる。割り箸を二つに割って口に入れた中華丼は、温かくてとても優しい味がした。
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