夢枕

早河縁

第1話

 彼は父親から暴力を受けて育った。

 もう彼は三十も手前なので一人立ちしてもよかったのだが、数年前に父親が体を悪くして働けなくなった。一応養ってもらった恩もあるし、一人息子である彼は養わざるを得なくなった。体を悪くしても、父親の暴力や暴言がなくなることはなかった。

 近頃とうとう父親が亡くなったので、彼は大層喜んでいた。母親は幼い頃に亡くなってしまっていたので、兄弟のいない彼はひとりぼっちになったが、彼にとってそんなことはどうでもよかった。

 父親の暴力から解放された幸福感で心がいっぱいだったからだ。

 だが彼にはいま、別の悩みがあった。

「最近、よく夢を見るんだ」

「夢っていうと?」

「親父が出てくるんだよ、そして言うんだ。『お前は不幸者だ』って」

 彼は友人に相談を持ちかけた。あれだけ憎んでいた父親が亡くなって嬉しかったはずなのに、毎晩のように夢枕に立つことが不思議でたまらなく、その内容がまた、気味の悪いものだったからだ。

「なんだかんだで父親が亡くなるっていうのはショックだったんじゃないか」

 どうも腑に落ちなかった。彼は本当に心の底から父親の死を喜んでいたからだ。

 友人は彼の幼い頃からの事情を知ってはいたが、まったく同じ人生を歩んできたわけでも、同じ経験をしたわけでもないから、想像は出来ても理解は出来ないだろう。それは当然のことなのだが、どこかで理解してくれていると感じていたから少しだけ悲しかった。

「悲しみも驚きもないさ、あるのは喜びと解放感だけだ」

「そういうものかな。それで、夢の内容っていうのはそれだけか?」

「いいや、まだある」

 友人は「ほう」と相づちを打って、腕を組んだ。

 夢の内容は毎回少しだけ違っていたが、大体似たようなものだった。

「布団に横になっている僕の頭の方に、親父が立っていて指をさしてくるんだ。でも、夢に見たはじめの頃ーー数週間前は、声しか聞こえなかった」

「声だけ?じゃあ、いつから姿を現すようになったんだ」

「ここ数日だよ。それで僕は気付いたんだ、はじめは遠くから俺に声をかけているだけだった親父が、だんだんこちらに近づいて来ているってことにね。あんまり気味が悪いから、君に相談したんだよ」

「そうか。それでいまは、君のすぐ側まで来たってことか」

「ああそうだよ。夢を見ている間、夢の中の僕は動けないから余計に怖いんだ」

 彼の昨日の夢はこうだ。布団に入り眠っていると「お前は不幸者だ」という声がして目が覚めて、目を開けると体が動かない。どうにか頑張ってみるが、そうしているうちにまた父親の声がする。「おい、おい」と呼びかけてくる。そしてひたひたと足音がして、気がついたら横になっている彼の枕元に父親のごつごつの足が見えたのだ。

 詳細に説明すると、友人は興味深そうにうなずいて言う。

「近づいて来ているのなら、今晩の夢はどうなるのかな」

 友人は彼がもっとも恐れていることを的確にたずねてきた。

「それがわからないから怖いのさ。顔を覗きこまれでもしたらどうしたらいいか」

「生前は憎かっただろうし、話を聞くかぎり不気味ではあるけれど、そこまで恐れることでもないんじゃないか。きっと、疲れているんだよ」

 友人は彼を諫めるように言った。そしてその話題は途切れ、その後は談笑して過ごし別れそれぞれの家に帰ったが、どうも彼は煮えきらない気持ちで、ずっと悶々としていた。

 その晩、彼は眠れずにいた。

 だんだん近付いてくる父親が、もうすぐそこに来ているのだ。今日はどうなってしまうのだろう。「不幸者」とはどういう意味だろう。考えれば考えるほど、彼は恐怖と不安で眠れなくなった。

 いずれ彼は眠るのをやめた。

 眠ればまた夢に父親が現れるかも知れないと思うと眠れなかった。

「君、最近ちゃんと寝ているのか?あまり、いや、かなり顔色が良くないぞ」

「ああ……あまり眠れていないんだ」

「少しでも休養をとらなければ、体を壊すぞ」

 友人の言うことはもっともだった。

 しかし体が限界を迎えてうとうとしても、父親の声を思い出して、はっと目が覚めるのだ。そんなことを繰り返すうち、彼はまったく眠らない生活を送るようになっていた。

「わかっている、わかっているんだ、でも」

 目元の隈はどんどん濃くなってゆき、酷い眠気とめまいで仕事することもままならなくなった。彼はとうとう家に引きこもるようになってしまった。

 するとある日、ついに彼の体は限界を迎えた。

 彼は消えゆく意識のなかで「死ぬときはこんな感じなのだろうか」と感じながら、眠りについた。

「おい、おい」

 彼はその声で目が覚める。布団から起き上がると、そこには父親が立っていた。父親はしゃがみこんで彼の目を見つめるとこう言った。

「お前は不幸者だ」

 彼は恐れや憎しみよりも強い怒りが沸いてきた。

「その、何度も言っている不幸者っていうのはなんなんだ!僕はお前が死んでようやく幸せになったんだ!もう関わらないでくれ!夢に出てくるのもうんざりだ!」

 彼は思っていたことすべてを吐き出し、ぶつけた。

 すると父親は憐れみに満ちた顔をした。彼は父親のこんな表情を初めて見た。なぜなら生前の父親は、ずっと怒り顔で彼に暴言を吐き続けていたからだ。

「お前は幸せにはなれない」

「そんなことはない!あんたがようやく死んだから僕は、僕は」

「いいや、死んでしまえば幸も不幸もない」

 彼はちぐはぐな会話にさらに苛立った。

 父親の言うことの意味がわからなかった。

「お前は本当に不孝者だよ、親より先に死んじまって」

 その言葉を聞いて、彼はふと思い出した。

 本当は、父親は死んでなどいなかったということを。

 そして彼は気が付いた。

 父親が死んだと思いこんで、不気味な夢に追い込まれ眠れなくなったあと、体が耐えられずそのまま死んでしまったのだということを。

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夢枕 早河縁 @amami_ch

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