僕とハカセの日常
ゆーき
ストロベリー・ブラックホール
そのころ僕は、諸事情により(それについてはいつか語る日が来るだろう)友達を失っていて、友人と呼べるのは彼しかいなかった。
僕は彼のことをハカセと呼んでいた。もちろん本名ではない。ただ彼については、そう呼ぶのがふさわしいと、今でも思っている。
ハカセは古いがとても大きな家を借りて住んでいた。古いせいかとても広い庭もあった。地球に帰ってきたばかりだった僕は収入が不安定だったこともあって、これだけ広いのなら一緒に住ませてもらえないかと考えたこともあったが、「それは危険だから辞めたほうがいい」というハカセの忠告を受け入れて断念していた。徒歩数分のアパートに住んでいた僕は、それでも、ハカセの家に入り浸っていた。
「ちょうどいいところに来た」
いつものように訪ねて行くと、ハカセは、いつものようにそう言った。
「今日は何を作ったの?」
いつものように呆れた口調で僕が聞くと、ハカセはやはり、いつものようにニコリともせずに言った。
「イチゴが食べたいと思ってね。腹いっぱい」
そう言うとハカセは、僕を玄関から追い出し、自分もサンダルを履いて出てきた。そして僕を先導し、広い庭がある方へと向かった。
「ちょうど収穫時だ」
僕が思い出したのは、ハカセが庭に作っていた、立派な菜園だ。ハカセは自ら農作業をするタイプには見えないが、まったくもってその通りで、以前に畑を見た時に農作業をしていたのは、ごみ捨て場から拾ってきた小さな耕運機を、ハカセが改造したロボットだった。自動で綺麗に耕した上で、ウネまで作ってくれるすぐれもの。僕は量産すれば絶対に売れると進言したのだが、ハカセは一度作ったものには興味を失ってしまうタイプで、残念ながら商売人向きではなかった。それが彼のいいところでもあるのだけれど。
あの菜園をいちご畑にしたのだな、と僕は思った。ハカセのことだ、きっとイチゴがたくさんできるような薬を独自に開発したのだろう。
頭には、小さなイチゴがたくさんなった、カワイイいちご畑の姿が浮かんでいた。住宅街にある自宅でイチゴ狩り、もぎ放題食べ放題。なんと贅沢だろう。
期待に胸を膨らませ、庭にたどり着いた僕が見たものは、想像したのとはまるで違うものだった。
イチゴはひとつしかなかった。それはすぐにわかった。
庭には、いや、たぶん畑には、見上げるほどのサイズのイチゴが、ひとつだけ転がっていた。
「どうだい、立派だろ」
アフリカゾウぐらいの存在感を前に、ちょっと自慢気に言うハカセに、僕は答えた。
「美味しくなさそうだね」
「なにを言う」
心外だ、という顔で言うと、ハカセはポケットから小さな機械を取り出し、イチゴに近づくと、それを向けた。
「糖度は35」
どうやら糖度計だったらしい。
「って、35!? 高すぎるんじゃねえ?」
僕の言葉に、ハカセは首を傾げる。
「糖度は100グラムあたりの糖分の量を100分率で示したものだ。高ければ高いほどいいだろう。イチゴは普通、特に甘いもので18ぐらいらしい。二倍近くある。最高に美味いイチゴになったはずだ」
全然食べる気にならなかった僕は話をそらそうとした。
「ずいぶん大きいな。全長は? 3mぐらい?」
「高さはそのぐらいだ。全長は4m。新開発の薬を使った。農作物ならどんな果物でも野菜でも、大きく育てることができる。大きさに比例して糖度も高くなる」
「糖度も?」
ハカセは頷いた。
「最高に甘くて大きなゴーヤーを作ることも可能だ」
「最高に美味しくなさそうだな」
「そうだね」
ハカセの顔を見ると、彼はわざとらしく首をすくめた。
「まあとにかく、今日になって君が来てくれて本当に助かった。心配しなくてもこのイチゴは本当に美味しい。一緒に食べよう」
そう言うとハカセは包丁を取り出して、イチゴを片手でつかめるぐらいのサイズに切り取って、差し出してきた。僕は食べたくなかったけど、仕方がないので受け取って、かじりついた。
意外にも、イチゴは美味しかった。ものすごく甘かったが、適度な酸味があって、ちゃんと果物の、イチゴの味がした。
「本当だ、美味しいな」
「だろう?」
ハカセも自分の分を切り取って食べ始めた。
「ところで」
僕は食べながら聞いた。
「助かった、って?」
「うん、食べきれなくてね」
「ああ、うん、大きいもんね」
「昨日も食べたんだけど、全然減らなくてね。んで今日になったらこのサイズだからさ、ちょっと途方にくれてたところで」
「ちょっと待て。今日になったら?」
僕の食べる手は止まっていた。
「昨日は?もっと小さかったのか?」
「うん」
「それを、食べた?」
「まあ、食べられたのはちょっとだけだけどね」
「食べたイチゴが、今日はまた大きくなっていたのか?」
「そう、なるね」
「昨日の大きさは」
「えーっと……」
ハカセは両手を曖昧に広げていたが、僕の睨みつけるような視線を感じたのか、観念したように言った。
「2mぐらい?」
「……今日は4m?」
「うん」
「昨日は2m」
「そう」
「その前は?」
「1m」
「つまり、一日で概ね倍の長さになってる? 体積だとええと」
「一般的には3乗倍っていうね。2の3乗だから8倍だ」
「毎日8倍の重さになる」
「そう」
「今の重さは?」
「どうかなあ」
ハカセは僕の心配になど気づいてない様子で、明るく言った。
「計測してないけど、単純に計算すると……普通のイチゴが4cmぐらいで20gってとこかな。長さが100倍だから体積は3乗の100万倍、かける20で二千万グラム、つまり2万キログラム、20トンだ」
ハカセは嬉しそうに言った。
「ハハハ、すごいな!」
「すごくねーよ!」
僕はいきなりキレた。
「明日にはまた8倍、つまり160トンだ!どうすんだよこれ!」
「だからさ!」
ハカセは言った。
「早く全部食べてしまわないと」
「食べきれるわけねーだろ!」
ハカセはなぜか驚いた顔をしていた。
「無理か?」
「無理だ!」
ハカセは顎を手で抱えるとうーん、と唸った。
「……困ったな」
「今頃かよ!」
現在で20トンの重さのイチゴ。20人集めてきても一人あたり千キロ食べなければならない。無理だ。
「っていうかさ、イチゴなんだから、もげばいいだろ? そうしたら成長は止まるんじゃ」
僕の提案に、だがハカセは首を横に振った。
「すでにもいである。だが成長は止まらない」
「なんでだ」
「それはわからない。ボクの作った薬の効くメカニズムは、よくわかっていないからだ」
胸を張って言うハカセの後頭部を僕は思わずどついた。
「痛い! 頭を叩くな! ボクの天才の頭脳が失われたらどうするんだ!」
「どこが天才なんだこのアホ! 成長を止める術はないのか!? 薬を無効にする薬は?」
「そんな便利なものがあるわけないだろう」
「すぐに開発をはじめろ!」
「間に合うかな。無理じゃないかな。そもそも成長する薬の効果が……」
悠長に言うハカセに、僕はしゃがみこんで頭を抱えた。
「くそ! どうすればいいんだ。二千人集めても一人あたり10kgも食べなければいけないんだぞ。そんなに食えるはずが……1kgだって無理だ。その半分、500gなら……四万人にこれを分ける? 一日後には8倍の大きさになるんだ、とてもそんな時間は……」
そもそも明日には160トン、その翌日には更に8倍になるんだ。160トンの8倍……1280トンだ。その翌日には1万飛んで240トン、その翌日には更に8倍の8万――
ハカセが言った。
「どこか遠くに捨てに行こう」
「遠くに? しかし、捨ててもどんどん大きくなるんだ。そう遠くない未来に発覚するぞ。その時にはもうどうしようもない、富士山よりもエベレストよりも、この地球上にあるどんな山よりも大きくなって、最後には――」
最後? 最後なんてあるのか?
「いや、もっと遠くに」
どうやら、ハカセは解決法を思いついたようだった。彼はその顔に確信を浮かべ、言った。
「宇宙に捨てよう」
僕は家に向かって歩き出したハカセの後を追いかけた。
「だけど、どうやって?HII−Bロケットでも、マックスペイロードは確か19トンぐらいだ。しかもせいぜい低軌道。そんなところに放り出したら、質量増大に伴って発生する引力で、ヘタをすると地球や月の軌道を変えかねない。もっと出力の大きなロケットブースターなんてそうそうないし、あったとしてもどうやって使わせてもらうんだ?」
ハカセは僕の疑問には一切答えず、家の中に入っていった。外から見たら日本のどこにでもある普通の家だが、中はかなりおかしな改造を施してある。彼は廊下を突っ切ると、その奥にあった地下への階段を降り始めた。
「まさか、地下にロケットが隠してある、なんていうんじゃないだろうな?」
「そんなものあるわけないだろ」
ハカセならありうると思ったけど、サターンV並のロケットブースターが隠してあったとしても、打ち上げ設備は住宅街には無理だろう。だがハカセの答えに続いた言葉は驚くべきものだった。
「ロケットはない。だが、マス・ドライバーがある」
「マス・ドライバー?」
ハカセは力強く頷いた。
物体を宇宙まで持ち上げる方法はいくつかあるが、その目指すところは常に、その物体をある速度まで加速させることだ。よく知られているロケットは、大量の燃料を燃やしゆっくりと加速し、最終的にその速度を獲得する。
マス・ドライバーは、長いレールの上で物体を物凄いスピードで推し、いきなりその速度を獲得しようとするものだ。要するにジェットコースターを思い浮かべてくれればいい。ただし、すごく大きくて、めちゃくちゃ速いジェットコースターだ。
「この地下にあるマス・ドライバーは、レールの長さが全長1km。最大で50トンの貨物を第三宇宙速度まで加速させることができる」
「えっ!? 1km? 住宅街の下に、そんなものを作ったの!? いつの間に?」
ハカセはまたもや、わざとらしく肩をすくめた。
「この家を買った時かな。でも時間はかかったよ? 作業は全部ロボットがやってくれたけど」
「50トンを? 第三宇宙速度? そんな……無茶苦茶な!」
「何が無茶苦茶なもんだ。キミね、ボクがどうやって、あのときキミを助けに行ったと思っているのかね」
呆れたように言うハカセに怒りを感じたが、とりあえず今はそれどころではない。
「上の庭には、ここに直通するシャフトがある。当然、クレーンの性能もそれに耐える。20トンの今なら運び込める。早速作業を開始しよう」
「待て、待てまてマテ。1kmって、ドライバーの先端はどこだ? どこから貨物を射出するんだ? 第三宇宙速度? それって秒速……何キロだ? 15km以上?」
「秒速16.7キロメートルだ」
「それって時速だと6万……」
「6万飛んで百キロ。地表ではね」
「そんなものを? 地上から打ち出す? 正気か?」
ハカセはまたもや肩をすくめた。
「全部キミに説明してもいいが、時間足りるかな?」
僕は首を横に振った。
「さっさと捨てよう」
巨大イチゴをカタパルトに乗せ、後は射出するだけとなるのに一時間ほどしかかからなかった。
「最後にひとつ、問題がある」
「ひとつでいいのか?」
僕の皮肉を理解したのかしないのか、ハカセは変わらぬ様子で続けた。
「このカタパルトは電磁誘導を利用した電磁投射砲、いわゆるレールガンというヤツなんだが、動かすのにめちゃくちゃな電力が必要になる。当然、普通の家庭用電源では無理だ。だからここには、電力会社の地下ケーブルから直接、電源を引っ張っている。本来は街全体に供給されている、その大本、変電前の15万4千ボルトだ」
僕は本日立て続けに出てくる天文学的数字に、すでに正気を失っていた。
「ああ。それで?」
「20トンのペイロードを秒速16.7kmにまで加速させて撃ちだすと、この電力の大部分を使ってしまう。つまり、このあたり一帯はすべて停電する。電力会社の設備に絶大な負荷がかかるらしくて、この停電の復旧がいつになるかはわからないし、停電の影響範囲も正直予想がつかない」
「前に使った時は? はじめてじゃないんだろ?」
「前に使った時は、ボクが乗って行っちゃったから」
「ああ、そうか……」
「下手すると、電力会社の管区内すべてが停電する。関東一円ってことだ」
僕が肩をすくめたのはハカセの真似。
「あのイチゴを地上に置いておくよりいいだろ。やれ」
「了解」
ハカセは制御コンピューターに物凄い勢いでコマンドを入力し、それが終わったのだろう、勢い良く実行キーを叩くと、
「よし、行こう」
と席を立ち上がった。
「どこに?」
尋ねた僕に、ハカセはいい笑顔を見せて言った。
「最高のショーの見物にね」
ハカセの車を僕が運転して、近くの小高い丘へと向かう。
「空気抵抗をできるだけ小さくするため、ワンテンポ速いタイミングで、プラズマを投射するんだ。進行方向の大気を焼いて、一瞬真空状態になる、そこを投射物が通過するというわけ。まあプラズマバリアって感じかな。その時、大気が燃える様子は、ものすごく綺麗に見えるはずだよ」
興奮気味に言うハカセは、今日、なぜマス・ドライバーを打つ羽目になったのか、もう忘れてしまっているようだった。イチゴはこの瞬間にも重量を増しているはずで、計算上は大丈夫のはずだったけど、僕はそれがマス・ドライバーの性能を上回るサイズにうっかりなってしまうんじゃないかと、心配していた。
「よし、そこ、そこのスペースに停めてくれ」
指示に従って車を停めたのは、見晴らしの良い待機所だった。車を降りる。
陽は沈みかけていて、赤く染まっていた空は紫に変わろうとしていた。暗くなり始めた眼下の街には、あちこちに明かりが灯り、夜の時間がはじまろうとしていた。
「射出口は向こう、あの山の反対側にある。昔の砕石場跡なんだけど、権利関係がゴチャゴチャしているせいで開発が進まなくて、放置されてるって、おあつらえ向きの物件」
「大丈夫なのか? 誰か侵入してたりとか」
「険しい崖になってて、地上からは十数メートル上だよ。そろそろ時間だ」
その言葉を待っていたかのように。
街の中心、ちょうどハカセの家のあるあたりから順番に、明かりが消え始めた。停電だ。まるで円が広がるかのように停電の範囲が広がり、あっという間に街は闇に沈む。
次の瞬間、前方の発射口のある山から、まっすぐ海へ向かって、一直線に光が飛び出した。プラズマだ。大気を焦がすまばゆい光で、肝心のイチゴの姿は確認できないが、あれに続いて飛び出したはずだった。それはほんの一瞬だった。光はまっすぐに物凄いスピードで飛び去り、空の彼方へ消えた。
飛び去ってワンテンポ遅れて、物凄い爆音が轟いた。すさまじい衝撃波が大気を揺らし、暴風が僕達を吹き飛ばそうとして、思わず踏ん張るほどだった。発射口周辺は、もっとすごい衝撃があっただろう。
激しい暴風がようやく収まり、ハカセは言った。
「素晴らしいショーだったね」
そうして続けた言葉に、僕は自分の耳を疑った。
「今日は久しぶりに、楽しい一日だった」
思わず見てしまったハカセの顔はとてもいい笑顔で、そういえばこいつ、こういうやつだったな、と思い出す。
「あのイチゴ、どうなるのかな」
「大きくなり続けるんでしょ。太陽系を脱出する前に、もしかしたら軌道要素に影響を受ける惑星が出るかも」
「いや、そうじゃなくてさ、もっともっと大きくなるんだろ? 最後は、宇宙を全部埋め尽くしてしまうのかな?」
僕の言葉に、ハカセは首を横に振る。
「それはない。宇宙の膨張速度の方が、イチゴが大きくなる速度よりずっとずっと高い。我々人類があのイチゴに出会うことは、もう未来永劫、ないだろう」
「そうか、ならいい」
「むしろ問題なのは」
ハカセは恐ろしいことをさらりと口にした。
「膨張し続ければ、いずれ自分の重力で潰れる日が来る。つまり重力崩壊だな。そうなればあれだ、ブラックホールになるかも」
「ハカセ」
「うん?」
「残ってるあの薬、全部捨てろ」
おわり
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