56.「赤い花畑」

 扉が開かれて、最初にあなたを襲ったのは悪臭だった。


 それは腐った玉葱、熟れ過ぎた果実のようで、重量感のある甘ったるさにむせ返りそうになる。死臭に近いが、最近嗅いだ中ではグールの腹を掻っ捌いた時、あれをマイルドにしたらこうなるだろうとあなたは感じた。


「あー、無理。これでやる気なくす」

「砦の中はこんなじゃなかったのに……」

「砦では魔術動力の消臭装置を稼働させています。士気に関わるので」


 どうやら、あなた達の士気は勘定に含まれていないらしい。


「極微量ながら瘴気も漂っています。命に別状はありませんが、毎日食後に薬を配布します」

「道理で……息苦しいのは臭いのせいだけじゃないんですね」

「我々が魔術師なら良かったのですが」


 瘴気……懐かしい響きだ。最初に聞き、そして身をもって味わったのはフェンリルを倒しに向かった森の中でだったかとあなたは思い出す。


 あの時は老婆の祈祷を受けていたので無事だったが、森の瘴気は目に見えるほど濃く、黒い靄のようだった。


 事務屋の口振りからすると魔術師は影響を受けないようだが、あなたとカレンは普通の――あなたの中身は置いておいて――人間だ。あなたは特に息苦しさを感じていないが、カレンが心配だった。


 口元を布で覆い、あなたは改めて周囲を見渡した。


 一面に広がる赤い花畑――肉の花だ。葉、茎、花弁、その全てが肉で形成されており、ぬらぬらと不気味に濡れている。注意深く地面を見つめると、花と花の間を肉の蔦が隙間なく幾層にも渡って埋めていると分かった。


 流石のあなたも怯む光景だ。これからどう動いたものかと考えていると、青い顔をしたカレンが鼻声で言った。


「……雪が積もっていませんね」

「花自体が熱を帯びていますから。温かいでしょう?」


 あまりの異様さにそこまで気が回らなかったが、言われてみれば確かにそうだ。上で事務屋に上着は必要ないと言われたので置いてきたが、全く寒さを感じない。むしろ、この世界に来てここが一番温かいまである。


 よく見ると、花畑全体が脈動していると分かった。酷く緩慢ではあるが、確実に砦の方へ蔦を広げているのだ。


「我々はもう長い事この花畑を封じ込めています。これまでに蓄積した経験を踏まえ、あなた方に探索の助言をしたいのですが」


 断る理由が無かった。ここは未知の場所、情報は多ければ多い程良い。


「ここに滞在できるのは日が出ている間だけです。これを見て下さい」


 そう言うと、事務屋は躊躇無くブーツに包まれた右足を花畑に踏み入れた。ぐにゃりと肉の花が拉げ、隙間からゆっくりと肉の蔦が這いよる。それでも事務屋は動かない。


 侵食がくるぶしの位置まで進むと、ようやく動き出した。


「このように、侵食はとても緩やかです。この程度なら簡単に振りほどけます。ただし……」


 素早く足を引き抜くと、見た目より遥かに容易に肉の蔦は解けた。僅かな抵抗を見せたものの、蔦は拠り所を失ってするすると花の陰に戻る。


「夜になると、侵食速度は数十倍にまで増加します。探索は日没までで絶対に切り上げて下さい。私達はあなた方を監視しますので、時間になれば信号弾を撃ち上げます。それが撤収の合図です」

「見てるだけなの? ついでに助けてくれるとありがたいんだけど」

「勿論最大限の支援を致します。行きも帰りも騎兵に送迎させますので、夜までには必ず砦に戻れます」


 必ず、絶対、確実――あなたはこの手の言葉を信用しない。作戦は常に予想外の事が起きると知っているからだ。しかし、騎兵の送迎はありがたい。行き帰りに掛かるはずだった時間を探索に回せそうだ。 


「また、先程も申しましたように監視していますので、こちらで危機的状況と判断した場合は直ちに増援を送ります」

「最初から増援連れて皆で探したいわね。そっちの方が早そう」

「申し訳ありませんが、死傷者は最小限に抑えたいので」


 兵士が死ねば、その遺族に弔慰金を支払ってお悔やみの手紙を書かなければならない。そこで死傷者にカウントされないあなた達の出番という訳だ。


 あなたはどうでもいい。しかし二人は別だ。メイベルに家族がいるか定かではないが――カレンにはベレズニキに残した母親がいる。既に夫を亡くした未亡人に『誠に残念ながら娘さんは亡くなりました』と告げるのは恐らくあなたの仕事になるだろう。それはどう考えても耐えられそうになかった。


 子を失った親は脆い。棺に納める亡骸すら無いだろうに、あなた程度がどう言葉を尽くそうが心を癒せるとはとても思えなかった。


「ここで亡くなった人……私達のような人はいるんですか?」

「これまでに十六人の外部協力者を失いました」

「思ったより少ないわね」

「場所の性質上、闇雲に人員を投入する訳にもいきませんから」


 肉の花畑は生きていて、触れた物質を自らと同じように作り変えてしまう。犯罪者などを大量に動員する事は可能ではあるが、死なれて肉の仲間入りを果たされては堪らない――そもそもここは重要機密に指定されている。用が済んだ犯罪者を“処理”する手間も掛かる。


 求められるのは、簡単には死なない腕利きだ。その点で、あなた達は選ばれし選良である。到底誇りには思えなかったが。


「話を戻しましょう。昼食後、早速仕事に取り掛かって頂きます。お察しかと思いますが、本は地下に埋まっています」

「でしょうね、浅い所にあるなら騎兵が行きゃいいし……カレン、地図貸して」


 メイベルがシロアッフから渡された地図を全員に見えるよう広げ、赤く囲まれた部分を指で刺した。


「この範囲内をひたすら掘り返せって話でしょ、要は」

「ええ、その通りです。しかし、日中は掘り進めても夜になれば傷が塞がってしまいます。なので……」


 事務屋は一度言葉を区切り、一瞬砦の方を見やって言った。


「後で特殊な酸を配布します。それを切り拓いた肉の中に塗布すれば、多少は修復を阻害できるでしょう」

「どんな酸よ?」

「グリフィンの酸と硫酸を配合しました。一応言っておきますが、絶対に素手で触らないように。痛いでは済みませんので」

「そんなバカいないわ」


 事務屋の話はそれで一旦終わり、砦に戻って昼食を食べながら質疑応答という流れになった。


 厨房で大量に作られる料理はやや大味だったが、それでも温かい物を食べると活力が湧く。ここでは他の娯楽も用意されているようだが、高ストレス環境に身を置く兵士にとって日々の食事は非常に重要だ。


 食事を終えたあなた達は手短に準備を済ませ、騎兵の背に相乗りして肉の花畑の中心へと向かった。騎兵たちは、「健闘を祈る」とだけ残し逃げるように帰ってしまった。


 先程まで消臭されていた砦の綺麗な空気を吸っていたからか、改めてここに来ると余計に臭いを酷く感じる。


「……いっそ食べなきゃ良かったです」

「吐くならバンダナ外しなさいよ」


 青ざめているカレンに対し、メイベルはいつもとあまり変わらない印象をあなたは受けた。グールの腹を裂いた時もそうだったが、メイベルは悪環境にそれなりの耐性があるようだ。


 一方、あなたは奇妙にも食欲が湧き立つのを感じていた。あなたの内に潜む高次元暗黒が、肉を喰らえと囁いている。


「じゃ、やるわよ」


 メイベルが短剣を、カレンは長剣を抜いた。これから地面――肉――を切り、血みどろになって掻き分けるのだ。


 あなたも短剣を抜き、積み重ねた毛布のように柔らかな地面に突き刺し、切り開いた。真っ赤な鮮血が溢れてくる。


 ほんの出来心で、あなたは少しだけ指で掬って舐めてみた。

 甘く、香り高い。人間の味がした。

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