31.「Marche au supplice」

 森には何かが潜むと聞く。それが実在する存在なのか、超常的な形而上学的存在なのかは分からない。あなたとしても、何かが潜んでいるという説は支持できる。


 先程から何かに見られている気がして仕方がない。大勢で全方向に気を張っているのでそう易々と奇襲を受けることはないだろうが、一度覚えた不安は中々消えてくれない。怒り、緊張、不安が複雑に絡み合い、心の奥で渦を巻いている。


 あなたが森での戦い方に明るくないのも一因だった。野生動物や魔物との戦いならともかく、相手は手練れの人間。悪意を最後の一滴まで振り絞って罠を張り巡らせるだろう。


 一歩先には落とし穴があって、底には尖った棒が敷き詰められているかもしれない。一歩踏み出せば、仕掛けてあったロープが切れて、丸太や矢が飛んでくるかもしれない。


 そんな風に思っていると、何だか無性にイライラした。あなたは生態系の頂点に立つ存在、淘汰の担い手ではないのか。なぜ、ウサギのようにびくびくと怯えなければならない? 間違っているのは世界の方だろう。


 ――いけない、傲慢な考えだ。驕り高ぶれば足元を掬われる。フラットな心で戦場に臨む、それがあなたの流儀だったはずだ。


 あなたは唇を強く噛み、滲み出る自分の血液を舐めつつ、フィンチに貰った煙草に手を伸ばす。オイルライターで火を付けて一口吸うと、重厚な煙が気管に流れ込んで来た。この世界の煙草も悪くない、懐かしい味わいだ。ついでに血を舐めると、たちまち心が凪だ。これ以上の鎮静剤もないだろう。


「なあ、一本くれよ」


 ひそひそと小声で話す声の主は、あなたの隣を歩くレフだった。

 ……一本ぐらいなら良かろう、まだ沢山あるし。


「ありがとよ。断られると思ってたぜ」


 そこまでケチではない。煙草一本で背中を守ってもらえるなら安い出費だ。


 レフが無精髭に黄燐マッチを擦りつけるのを横目に、あなたも煙草を楽しむ。フィルターのない両切りの煙草は、ゆっくりと吸わないと根元が熱くなりすぎてしまう。喫味は鉛のように重く、チェーンスモークする気にはとてもなれない。ある種健康には良いかもしれないが。


「その煙で位置がばれたら君たちのせいだからな」


 ユーリが小声で刺々しく言った。ここは敵地、声は小さくするべきだ。


「安心しろ、俺がレニーの頭をブチ抜いてやるよ」

「……分かってるとは思うが、賞金稼ぎの本懐は生け捕りだ。王国法の賞金稼ぎに関する部分に記載があるように、可能な限り裁きは王国が執行する。それを忘れるなよ」

「でもよ、昔から言うだろ……何だっけ。“復讐するは我にあり”だったか」

「その後に続く文を知ってるか?」


 あなたも考えたが、分からなかった。レフも同じようだ。

 ため息一つ、ユーリが続ける。


「“我これに報いん”だ。分かるか? 復讐するは我にあり、の我とは神のことだ。つまり、復讐は神が行うから、貴方は手や心を汚すなという意味になる」

「お前いつから説教者になったんだ」

「君が無知なだけだ。これは一般教養だろう」


 はたして神は存在するのだろうか。あなたは自前のコンパクトな脳を駆動してその問題に取り組み、一つの結論に至った。


 どちらでもよい。これに尽きる。


 信仰があろうと無宗教であろうと大いに結構。信仰は時に大きな力を人に与えるが、無宗教だからといってそれが原因で死んだという人間は聞いたことがない。


 もし仮に決定論的に全てが決まっているとしても、あなたはあなただ。もしかすると、未来か過去かでその考えに至ることも織り込み済みなのかもしれない。自由意識すら迷妄だったとしても、その軛から逃れられない以上あなたはあなたを続けるしかないのだ。


「んなこと言われても分かんねぇよ。俺は無学なんだ」

「善悪と賢愚には一切の関係がない。だから善く生きるんだ……そう、善く生きるんだ」


 ユーリはどこか噛みしめるように繰り返した。


 善く生きる……何にとって? 神か、他の何か――社会的秩序に対しての善だろうか。名前も知らない隣人の為に?


 分からない。何だか今日は疑問が湧いてくる日だ。


「でもよ、それだと復讐は悪いことになるのか?」


 レフが煙草を口から外し、指で弾いて灰を飛ばした。風に揺られて、木々の間に消える。


「それはそうだろう。死者はそんなこと望まないし、復讐は復讐を生むだけだ」

「死者に口はねぇよ。望むもクソもあるか」


 そりゃそうだ。死者が喋るなんてことは――亡霊と対峙した経験はあるけど――ありえない。死人は何も考えないし、望んだりしないのだ。死体など単に冷えた肉塊に過ぎない。


 よく復讐は悪であると語られるが、あなたはそう思わない。


 確かに復讐が復讐を招くこともあるかもしれないし、家族を殺した誰かは、別の誰かの家族かもしれない。だが、世の中とはそういう物ではないだろうか。殺す可能性と殺される可能性を同じだけ持つ、それが平等というものだろう。


 結局、自分で自分の尻が拭けるなら何をしようと構うまい。善悪は別として。


 らしくないことを考えているなぁ――と煙草を吹かしつつ歩いていると、帽子に衝撃を感じた。軽い、小石でも投げられたような。


「……雨だ」


 ぱらぱらと降っていた雨は、瞬く間に勢いを増す。運悪くあなたの咥えていた煙草に雨粒が直撃し、半分ほどを残して役立たずとなってしまった。


 あなたは煙草を捨てようと腕を上げたが、この自然を汚すのも悪い気がしたのでポケットに押し込んだ。傍らではレフがラッパ銃を庇い悪態をついている。


「クソ、頼むぜ……!」

「火薬を濡らすなよ」

「分かってる!」


 焦りからか思わず声を荒げるレフを、エゴールが視線だけで制した。


 レフは煙草を捨て、ラッパ銃の火皿を左手で覆った。この雨では効果の程が疑わしいが、何もしないよりはマシなはずだ。


 雨は様々な物を隠してしまう。音や臭い、視界に足跡。

 先頭でレニーの足跡を追うカレンにとっては痛手だろう。


 ……嫌な感じだ。可能なら撤退したいし、そうすべきだとあなたは思う。こうしている間にも雨は激しくなっているのだから。


「カレン、どうだ?」

「まだ追えます……追ってみせます」


 エゴールの問いに、カレンはやる気を見せる。いざコトが始まったら、彼女だけでも守らなければ。


「……止まって」


 不意にカレンは立ち止まると、“止まれ”に“しゃがめ”のハンドサインを続けて送った。目を細めて木々の切れ目を睨み、何かを指差す。あなたはその先を探すが、ここからでは川しか見えない。メル川の支流の一つだ。


 あなたは姿勢を低くしてカレンの元へ向かい、彼女の背後を警戒する。

 肩越しに眼を凝らすと、彼女の指差す先、川のほとりには一人の人間がうつ伏せに倒れていた。


「ジェミヤン一味のガキだ」


 エゴールが呟く。


「ええ、ですがここからでは生死が分かりません」

「何故こんな所で倒れてる? レニーが殺ったにしてはえらく綺麗だな」

「……生死を確かめないと」


 危険はあなたの担当だ。確認役に立候補しようとした所、いつの間にかレフが隣に来ていた。


「荒事は俺の担当だ。そうだな、エゴール」

「今日は何かがおかしい。あまりにも危険すぎる」

「誰かがやらねぇと。援護を頼むぜ」

「待ってください」


 カレンが弓に矢を番え、引き留める。


「説明の為に死体と仮定しますが、あの死体には罠が仕掛けられている可能性があります。それと、川を挟んで向こう側からの待ち伏せも」

「罠と言うと?」

「私なら爆弾を仕掛けます。死体を動かせば作動する類の」


 ありがちな手口だ。手榴弾以外でそれをする方法が分からないが、何かしらがあるのだろう。


「何か異変を感じたらすぐに戻ってください。皆で見張ってはいますが、限界があります」

「分かった。頼むぜ、お前ら」


 各自武器を用意し、ゆっくりと死体に向かうレフを見守る。あなたは背後を他人に任せ、ブラスターガンの銃口を川の向こうの森に向ける。何物かが狙うなら、あそこに隠れるはずだ。


 レフは慎重に死体へ向かいぐるりと一周確認し、死体の下に何も隠されていなさそうだとジェスチャーを送った。そのまま脈をとり、残念そうな演技で首を振ったところから本当に死んでいるのだと確認できた。


 そのままラッパ銃で警戒を続けるが、何も起きない。ただ、川の音と降りしきる雨音が響くのみ。 


「――大丈夫そうだぜ!」


 レフが叫び、にわかに全体の緊張が緩む。

 彼は唾を吐き捨てると、足先で死体を仰向けにした。


 死体の胸元に赤い魔法陣が現れる。活性化し、輝いてくるくると廻る。

 どちゅん、と水っぽい音を上げて、死体は爆発した。

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