あの言葉を言いたくて

香屋ユウリ

本編

 桜が舞っていた。


 空は青く、どこまでも澄み渡っていた。


 春の暖かい風が優しく部室を包み込む。


 畳は長年の湿気ですっかり古びているし、それは部室の真ん中にぽつんと置かれた木製の古びた1組の机と椅子も同じだ。


 たったそれしかない部室に、今年も春が訪れた。


 僕は机の上に頬杖をつき外を眺める。


 グラウンドからは陸上部の掛け声や吹奏楽部のマーチの練習音が聞こえてくる。


 それがちょうどいいBGMとなり、眠気を誘ってきた。


 いつものように寝る体勢に入る。


 目を閉じて、耳を澄ます。


 先程のBGMがより鮮明に聞こえてくる。


 それに加えて、春の虫が奏でる音色も美しく、眠気をさらに加速させる。


 やがて全ての音が遠ざかって………


 ガラガラガラ!


 いかなかった。


 突如教室のドアが開き、誰かが入ってきた。せっかく寝られそうだったのに、それを妨害されてしまっては気分が悪い。


「ねぇねぇ」


 話しかけられた。声からして、女子だろうか。


 重たい目をゆっくりと開き、声のした方向に顔を向ける。


 そこには綺麗な長い黒髪を春風になびかせる、1人の女子生徒が立っていた。


「なんの用ですか?」


 そもそもここに人が来ることが珍しい。来たとしても、たまたま教室を間違えた新入生か、探検気分で訪れたわんぱくな男子生徒くらいである。大方、この女子は前者な気がするが。


 そう思って、返事を待った。すると、その女子は1枚の紙を取り出して、僕の目の前に広げて見せる。その紙には『入部届』という文字が印刷されていた。


 思わず自分の目を疑った。数回瞬きをしてもう一度紙を見る。やはりそこには『入部届』の文字が並んでいた。


「私、ここの部活に入りたいんだ」


 そう言って女子はニヘラ、と笑みを浮かべる。


「えっと、書き間違いとかしてませんか?」


 僕がそう問うと、「まさか!書き間違えないよ。こんなに大切な書類」とおかしそうな表情になる。


 正直のところ、驚いている。だって、この銀山高校文芸部は僕が入学した時には部員はゼロ。なんでも、僕の代に誰も入部しなければ廃部になる可能性のあった部活だったのだそうだ。


 別に誰が今後この部活に入部しようと、僕にとっては知ったことじゃない。まぁ、1人のゆっくりとした時間が過ごせなくなるのは惜しい気もするが。


「僕は構わないですけど、顧問の先生の許可は貰ったんですか?」


「貰ってきてるよ」


 もう入部してたのか。行動が早いな。


「顧問の許可を得てるなら、わざわざ僕に許可をとる必要なかったでしょう?」


「何となくそうしたかったんだよ。これからよろしくね?私は谷口志希たにぐちしき。高校2年生だよ」


 なんだ、同い年だったのか。敬語を使ってしまった。


 それに、何となく聞き覚えのある名前だなと一瞬感じた。まぁでも谷口なんて名前の人はおそらく沢山いるだろうから、聞いたことくらいはあるだろうと結論づけ、すぐその考えを打ち消した。


夜山千寿よやませんじゅ。2年3組だ」


 そう言うと、彼女──谷口さんは


「夜山くん、か。珍しい名前だね」


 と言う。


「多分、珍しい方だとは思うけど」


「まぁ……そうだよね。うん。じゃあよろしく、夜山くん!」


 そう言って谷口さんは握手を求めてきた。

 挨拶で握手を求める人なんているんだ、と思いつつ、僕はその手を握り返す。


 その手は温かくて不思議な感触だった。




 .*・゚.゚・*.📖.*・゚.゚・*.



 翌日から谷口さんは毎日部室に顔を出すようになった。


 部室に来たとしても彼女は過去の卒業生が書いていった本を読み漁っているのだけなので、そんなに気にすることではなかった。


 いつも本を読んでいるか、寝ているかのどちらかの僕にとっては「そんなに面白いだろうか」というほどの読みふけりだった。


 そんなある日、谷口さんは珍しく俺に話しかけてきた。これが、僕の高校生活の転機となる。


「ねぇねぇ、夜山くん」


 谷口さんは机の前で僕の目線の高さに合うようにしゃがんだ。その表情はなんだかワクワクしているようだった。


 ちょうど暇つぶしに詩を考えようとしていたところだったから、それを途切れさせられて「なに?」と少しぶっきらぼうな返事になってしまった。が、谷口さんはまるで気にしていないように言う。


「夜山くんは小説、書いてるの?」


「……僕は詩くらいしか書けないよ」


 そう答えると、「詩が書けるなら小説も書けるんじゃないかな」と言われる。


「まさか。僕小説書いたことないんだよ?」


「でもさ、チャレンジしてみることも大事だと思うよ?人生はチャレンジしないと。1回で良いから書いてみてほしいな。私がお題出してあげるから」


 正直、気乗りはしなかった。詩は短くて書きやすい。それに比べて小説はどうしても長くなるイメージがある。想像しながら書くのは苦手なので、僕は思ったことを素直に書ける詩の方が好きなのだ。


 でも、こんなに熱心に頼まれると断れないのが人間である。ましてや日本人で断れる人は少数派だろう。


 僕は深くため息をつく。


「やるだけやってみるけど、期待はしないでよ?」


 その言葉を聞いて、谷口さんの表情は一気に明るくなった。


「やった!ありがとう……っ!!」


 今にも飛び跳ねそうな勢いで喜んでいる。

 そんなに喜ぶほどのことでもないだろうにと思ったが、心底嬉しそうな谷口さんの表情を見て僕は少しだけ笑みをこぼした。「なんで僕なんかに頼むんだろう」という疑問もこの時は既に心の奥底に引っ込んでいた。


「それで、お題って何?」


 谷口さんがひとしきり喜んだあと、僕は気になっていたことを尋ねた。

 お題と言っても色々あるだろう。それこそ「恋愛系」とか「現代系」とか。


 そのどれかが来るのだろうか、と思った俺は、谷口さんの予想外の言葉に驚きを隠せなかった。


「お題は……『幼なじみ』!」


 一瞬思考停止。


「……え?」


「だから、『幼なじみ』だよ」


 あっけからんとして言う谷口さん。


 だけど、僕は混乱していた。「幼なじみ」ってなんだ?何を書けば良いんだ?どうやって書き始めれば良いんだ?


「そんなに混乱しなくてもいいのに。詩みたいに思ったこと、思いついたことを書いていけばいいんだよ」


 谷口さんは難しい顔をする僕にそうアドバイスする。


「でも、小説と詩って違うじゃないか。書き方も考えないと……」


「だ、か、ら!思ったことを書けばいいんだよ?」


 色々と言う僕に谷口さんは「もう!」といった表情で見つめてくる。


 というか、なんで僕は頼まれてる側なのにこんなに言われているんだろう?


 と、ここで部室の扉がガラリと開いた。


「お、やっぱりここにいたか」


 扉の方に視線をやると、赤のジャージに所々白のラインが入った、いかにも体育会系と言う風格の男性教師が入ってきていた。髪が少しヤンキーっぽく見えるのは気のせいだろうか。ちなみに、この見た目で文芸部の顧問である。ギャップがすごい。


「もうすぐ戸締りするから、窓とか閉めとけよ。お前時々忘れて帰るからな」


「あ、はい。すいません」


「うん、よろしい」


 先生はそう言ってピシャリとドアを閉めた。


「怒られちゃったね」


「谷口さんは怒られないって、男女差別がすぎる気がする……」


 僕がため息をつくと、彼女は苦笑いをして「あの人は悪くないよ」とボソッと呟いた。


 .*・゚.゚・*.📖.*・゚.゚・*.


 その日から、『幼なじみ』をテーマにした小説を書き始めた。


 調べたところどうやら、小説を書き始める前にまずプロットというものを書くらしい。その作業は物語の骨を作るのと同じらしく、結構重要な工程だそうだ。


「プロットから書いてるの?」


 放課後の部室にて、谷口さんは後ろから覗き込んだ。


「書くからにはちゃんと書かないとって思ったから」


「まぁ、無理して長編書く必要はないよ。1000文字位でもいいんだからさ」


「書けって言ったのは谷口さんなんだけどね……」


「いやぁ……まさかプロットからしっかり作りこんでくるとは思ってなかったからさ」


 そう言ってヘラヘラと明るく笑う谷口さん。

 そのあと、「見せて見せて」と言ってきたのだが、「できてからのお楽しみで」とお預けをしておいた。


 その後、数週間かけて小説を書き上げた。


 部室に行くと、彼女は待ってましたと言わんばかりに俺のそばに寄ってきた。


「遂にできたんだね!?」


「まぁ、原稿用紙1枚分なんだけど……」


 バッグからクリアファイルに入った原稿用紙を取り出して、渡す。谷口さんはそれを大切そうに受け取ると、部室の隅にちょこんと座り、そのたった1枚の原稿用紙を丁寧に読み始める。


「椅子に座ればいいのに」と言おうとしたが、あまりにも真剣な表情で読むものだから結局声に出せなかった。


 2人しかいない部室に、時計の秒針の音だけがカチッ、カチッと響き渡る。無機質な音が少しだけ緊張を呼び起こした。


 やがて、最後の用紙を読み終わったのか、ゆっくりと立ち上がる。


 目を向けると、彼女は原稿用紙だけをじっと見つめ、口を開いた。


「これって……夜山くんが、書いたの?」


「まぁ、そうだけど」


 逆に、僕以外の誰が書くって言うんだ


 そう言おうとしたが。


「え、ちょ……泣くほどの作品だった?」


 彼女は、一筋の涙を流していた。


「えっ……あ!い、嫌だなぁ、私。夜山くんの作品に泣いちゃったや」


 慌てて涙を拭う谷口さん。でも、やっぱり目が赤い。


「急用、思い出しちゃった!小説すごく良かった!じゃあまた明日!ばいばい!」


「え、あ、ちょ……」


 そう言ってそそくさと部室を出ていってしまった。


「なんなんだよ、全く」


 嵐のように去っていってしまった谷口さんに僕は「はぁ」とため息をつく。

 そして原稿用紙をカバンの中にしまって再び本を読み始めた。



 .*・゚.゚・*.📖.*・゚.゚・*.


 信じられない。


 まさか、本当にこんなことがあるなんて。


 どうしよう、思わず泣いちゃったけど、大丈夫かな。変な人って、思われてないかな。


 ……でも、それよりも。


「……良かった」



 .*・゚.゚・*.📖.*・゚.゚・*.



 ある所に、男の子がいました。男の子は少し引っ込み思案なところがありました。ですが、男の子はある女の子と出会います。その女の子は元気に満ち溢れ、男の子と一緒に沢山遊んであげました。最初は鬱陶しく感じていた男の子でしたが、次第に心を開き始め、色んなところに遊びに出かけるようになりました。海辺でたくさんの面白い形をした貝殻を見つけたり、森の中に2人だけの秘密基地を作ったり、電車に乗ってこっそり街から出てみたり。たくさんの楽しい日々を過ごしました。

 ですが、そんな日々は長くは続きませんでした。ある日突然女の子は遠いところに行ってしまったのです。男の子は女の子を探し続けました。ですが無慈悲にも1日、また1日と時は流れていくばかり。男の子は今もどこかで探し続けています。女の子が帰ってくるのを待ちながら。



 .*・゚.゚・*.📖.*・゚.゚・*.


「あの~この間はごめんね?」


 後日、彼女は再び部室に顔を出していた。


「びっくりしたよ、急に泣き出したと思ったらいきなり出ていっちゃったし」


「まぁ……それほど夜山くんの作品が良かったってことだよ」


 そう言ってわざとらしく笑う谷口さん。それは少し無理して笑っているような感じがした。


「まぁ、そう言ってくれると嬉しいけど……つまらなかったらつまらないって言っていいんだぞ?」


「そんなことないよ!すごく良かったもん……」


 そういう割には表情と言葉が噛み合ってない。もちろん「良かった」という気持ちも感じるし、「悪かった」という気持ちも混じっているような気がする。


「まぁ……あんまり無理してプラスな感想を言おうとしなくても良いよ」


「……わかった」


 僕がそう言うと谷口さんはこくりと頷く。


「………」


「………」


 沈黙。


「えっと……次のお題はもう決まっているの?」


 場の空気を変えようと違う話題を持ち出してみる。


「え?あ、ああ!お題、お題だね!うん、お題!」


「もしかして考えてなかったの?」


「かかか考えてたよ考えてた!」


 谷口さんのあまりの慌てっぷりに思わず笑みを浮かべてしまう。少し恥ずかしそうにしていた谷口さんも、僕の笑いにつられて可笑しそうに笑った。

 どうやら重い空気は変えることができたようだ。


 ひとしきり笑うと、彼女はコホン、と咳払いをして「じゃあお題を言うね」と口を開いた。


 .*・゚.゚・*.📖.*・゚.゚・*.


 その後は色々なお題を元にした小説をかきあげていった。「秘密基地」、「海」、「都会」、「春夏秋冬」……ひたすら書いていった。しだいに書ける文量も増えてきて、文章の書き方も掴めていった。学校終わりの放課後は毎日、同じ時間を文芸部で過ごした。それに比例するように、僕らの仲も深まっていてお互い名前呼びをするようになっていた。


 気が付けば8月に入っていた。蝉も沢山鳴いている、蒸し暑い中。やはりいつものように部室で過去に先輩たちが書いた小説を読む志希さんに、僕はついに前から気になっていたことを聴いてしまった。


「志希さんって自分で小説とか書かないの?いつも読んでばっかりだから気になったんだけど」


 その言葉に志希さんはギクリ、という擬音が似合うような表情になる。


「え、えーと……一応書いてるよ?」


「そうなんだ。どんなの?」


「えっと、書いてるは書いてるんだけど……なかなか難しくてさ。実を言うと私の小説の参考にするために先輩達の小説を読んでるんだよね」


 そう言って「あはは……」と気まずそうな笑いを浮かべる。「そんなことないよ」と言ってから、僕は、(もしや……)と思い言葉を続ける。


「もしかして、僕に小説を書いてって言ったのもそれ目的……?」


「それは違うよ!?単純に気になったって言うか、読んで見たかったって言うか……」


 なんとも歯切れの悪い回答である。まぁこの様子からするに深く詮索はしない方がいいのだろう。


「まぁ、別にどっちでもいいよ。仮にそうだとしても怒るわけじゃないからさ」


「すごい、心広いね」


「いや、これで怒る人は多分自分の作品に相当なプライド持ってる人だと思うよ……?まぁでも、せっかく夏休みに入るから志希さんの書いた作品、読んでみたいな」


 そう言うと、彼女は「えっ」と驚いた表情になる。


「夜山くん……読むの?」


「まぁ、ずっと僕の作品を読ませたままなのも悪いじゃない?」


「そ、そうだけど……」


「けど?」


「まさか、千寿くんが読みたいなんて言うと思ってなかったから……びっくりしちゃって……。無茶苦茶ダメだし言ったりとかしないよね?もしそうなったらメンタルダメになっちゃうかも……」


「さすがにそんなことはしないよ。むしろ僕の方が志希さんにたくさん読んでもらってるのに自分だけ読まないなんて申し訳ないよ」


 それからしばらくの沈黙。読んでもらおうか迷っているようだ。やっぱり恥ずかしいのだろうか?けれど数十秒後、志希さんは静かに言った。


「じゃ、じゃあ……読んでもらおうかな。でも人に見せられるようなものじゃないから……他の人には見せないでよ?」


「大丈夫だよ」


 まぁ別に見せようとも思ってないし、そもそも見せる友達も悲しいことにいないし。……いや、悲しいことは考えないようにしよう。


 .*・゚.゚・*.📖.*・゚.゚・*.


 僕がまだ、小さい頃。確か僕には1人だけ友達がいた。その子とは最初あんまり話さなかったのだけれど、あるきっかけで話すようになった。具体的な内容は忘れてしまったけれど、良い内容ものではなかったと思う。

 ある日、その子に連れられ、山の中に遊びに行った。なんでも、「秘密基地」を作っているらしく僕に見せてあげたいらしい。正直なところ山の中には虫がいっぱいいて、乗り気はしなかったのだけれど、その子の勢いに負けてついてきてしまった。

 1時間くらい登っただろうか。と言っても子供の足なのでそんなに距離は登っていないだろう。流石にもう帰りたいと思い始めたとき、黙々と前を歩いていたその子が不意に僕の方を振り向いた。


「見えたよ!」


 その子は僕の手を引っ張りながら、森の中から見える光に向かって走り始める。少しよろけながらも頑張って離されないようしっかり手を握って走った。そして、森を抜けるとそこには草原が広がっていた。思わず息を飲んだ。想像してた秘密基地と全く違ったのである。僕にとっての秘密基地は木材などでできた家みたいなものを想像していたのだが、実際にあったのは広い草原のみ。


「ここが、秘密基地?」


「うん。ここが、私にとっての秘密基地なの」


 彼女にとって、秘密基地は家とかそう言う小さいスケールのものではなく、自分しか知らない秘密の場所だということをあの日僕は知ったのであった。


 .*・゚.゚・*.📖.*・゚.゚・*.


「改めて読み返してみると……なんか恥ずかしいな」


 僕はベッドに寝っ転がりながら、自分の書いた小説を読み返していた。数日おいてから読んでみると、やはり違和感がある。


 物語が一体何を伝えたいのか分からないし、場面描写ばっかりで会話が全然ない。……ハチャメチャだ。


 はぁ、とため息をついて仰向けに寝っ転がる。お盆に入って、部活が休みになってからより一層暑い日が続いているため、外に出かける気力も起きない。これでは本格的に引きこもりになってしまう。


 と、その時スマホにピコンと着信が入る。ベッドに仰向けになりながら机の上に置いてあるスマホを手探りで持ってくる。

 ロックを解除し通知欄を見てみると、知っている名前画面に映し出される。


『小説できた!見せようと思うんだけど、いつ空いてるかな??』


 ああ、谷口さん小説書き終わったのか。思っていたよりも早く出来上がったらしい。


『お疲れ様。明日空いてるけど、どう?』


 すぐに既読が付き、返信が来る。


『分かった!あと、行きたいところもあるからついてきて貰ってもいいかな?』


『大丈夫だよ。どこに行くの?』


『ありがとー!どこに行くかは、お楽しみにね?(笑) 場所が場所だから、長袖できてくれると嬉しいな』


 ええ……一体どこに行くのだろうか。この暑すぎる夏に長袖で行くところなんてあるだろうか。不思議に思いながらも、待ち合わせ場所と時間を決め、スマホの電源を切った。


 .*・゚.゚・*.📖.*・゚.゚・*.


 翌日。最寄りの駅の改札にて僕達は待ち合わせをした。先に着いたのは僕で、壁際に立ち本を読んで志希さんが着くのを待った。


「ごめん、待った?」


 数分後、彼女はハアハアと息を切らして改札を抜け、僕の元に走ってきた。


「そんなに急いで来なくても、待ち合わせの時間よりまだ早いんだから謝る必要ないよ」


 そう言うと、志希さんは複雑そうな表情をする。なにかまずいことを言ったのだろうか?


「こういうのは、『大丈夫、待ってないよ』っていうのがセオリーだよ?千寿くん正論言わないで欲しいな」


「謎の理不尽を感じるけど……。それで、行きたい場所っていうのは?」


「えっとね、私の小説のモチーフになった場所」


 予想外の言葉に僕は思わず「え?」と言ってしまった。


「だから、私の小説の舞台になった場所」


「舞台なんて考えるんだ……僕はそんなの全く考えてなかった」


「まぁ、私文章の表現が苦手だからさ……実際に見てもらいながら読んでくれたらわかりやすいかな、って思って」


「相変わらずすごい行動力だね。じゃあ、志希さんの小説はそこに着いてから読めばいいんだね」


「そういうこと。ほら、行こ?電車がそろそろ来ちゃう」


 志希さんはそう言うと、少し小走りし始める。それと同時に電車がホームに入ってくる音が聞こえた。


「急いで急いで!」


「志希さん……はや…い!」


 志希さんは既に電車のドアの前に立って僕を急かしている。階段降りるスピードが速すぎて、ちょっと置いていかれてしまった。いや、僕が遅いのだろうか?


 何とか電車に乗り込む。5秒後電車のドアが閉まり、ゆっくりと走り始めた。窓の外のビル群の流れるスピードがだんだん速くなっていく。


 しばらくすると、クーラーが夏の熱気で火照った体を冷やしてくれたので、長袖でも少し快適になった。僕達は空いている席のところに詰めて座る。


「何とか間に合ったね……」


 ウェットティッシュで首に浮いた汗を拭き取りながら、志希さんは安心したように笑う。その艶っぽい仕草に思わず視線を窓に向けた。ちょっと、火照るな。冷房弱いんじゃないのかこの電車。


「思ったんだけど、夏なのにどうして長袖なんか着るの?」


 気を紛らわせるため、僕は話題を振った。


「舞台にしたのが、山の中にあるからだよ。大丈夫、山に入れば丁度良くなると思うから」


「なるほどね……山って、どこの山?」


台戊だいぼ山だよ」


「名前しか聞いたことないな……どうしてその山にしたの?もっと有名な山とか色々あるだろうに」


「……思い入れがあるからかな」


 志希さんは小声で何かを言ったが、僕は聞き取れず聞き返してしまった。


「ごめん、なんて言ったの?」


「あっ……ええと、小さい頃に来たことがあってね?それで……何となく、選んでみたって言うか」


 少し慌てたように早口で言う彼女は、少しいつもとは様子が違ったような気がした。まぁ、あまり僕が気にすることでもないだろうと深くは触れなかったが。


 .*・゚.゚・*.📖.*・゚.゚・*.


 1時間くらい電車に揺られただろうか。外の街並みはビル群から豊かな自然に変わっていて、郊外まで来たような感じだった。


 ずっと電車に揺られていて、それが何となく心地よくなってきた僕は、うたた寝をし始めた。その時。


 キキキキィィィ!!


「「!?!?」」


 電車が急突然停車した。急停車した勢いで頭を壁にぶつけ、眠りかけていた意識がはっと覚醒する。


『ただいま、車両に不具合が発生しました。申し訳ありませんが、運転再開までしばらくお待ちください』


「え……」


 その放送が流れた時、志希さんの表情が一気に曇った。


「とりあえず、動くまで待とうか……」


「う、うん……」


 僕はそんな彼女を見てそう言ってみたけれど、いつもの笑顔とは真反対の表情のままである。




「……動かないね」


 1時間半近く待っているものの、なかなか動き出しそうな気配がない電車。


「私……車掌さんに聞いてくる」


 静かなトーンで、そう告げるやないなや志希さんは前方車両に歩いていってしまった。


 しばらくして戻ってきたが、彼女は席には座らなかった。どうしたの、という前に彼女は衝撃の一言を放った。


「電車、降りよう。歩いていこう」


「……え?」


「再開の目処はまだ立ってないって。ここで止まってたら、着く頃には夜になっちゃう」


「だとしても、歩くのは大変じゃない?別の日にしたりとか……」


「それは……できない」


「ど、どうして?……もしかして、予定が合わないの?」


 そう聞くが、彼女は無言で僕を見つめ続ける。目が、「ついてきて」と言わんばかりに訴えかけてくる。彼女にとって譲れない何かが、あるのだろうか。


 少し時間が経ち、互いにじっと目を見つめ続けていたものの先に根負けしてしまったのは僕だった。


「……わかった。行こう」


「ありがとう」


 志希さんはそう言うと、電車のドアの緊急開閉ボタンを押して、外に出た。


 周りにいた数人の客が不愉快そうな目でこちらを見てきた。僕はすいませんという意を込めて少し頭を下げると、電車の外に降り立った。電車の扉が自動で閉まる。


 時間は昼下がり。丁度太陽の熱が地上に全開で届く時間なので、息をするだけで辛い。


「水、飲む?」


 未開封のペットボトルを差し出すも、「大丈夫、ありがとう」と少しだけ笑って断られた。


 僕は歩きながら考える。彼女はどうしてそこまでしてその山に行きたいのだろうか。そして、彼女の様子が少し変わったこと。何か譲れないような思いが含まれたあの目。


 ……ダメだ、何も分からない。


 僕は自分の思考能力の無さに心の中でため息を付き、額の汗を拭った。


 .*・゚.゚・*.📖.*・゚.゚・*.


 もうどのくらい歩いただろう。すっかり足の感覚が無くなってきた。山の入口に着いた時は5時を回っていた。山に着いた時、少しだけ彼女は安心したような表情を見せた。


 けど……もう何時間も水を飲んでいる様子がない。本当に大丈夫なんだろうか?


 そこからは、険しくもなければ楽でもない山道を進んで行った。登山者用に舗装された道があったおかげで多少は楽だったが、それでもきついものはきつい。特に、万年文化部の僕にとってはかなりのものだった。


「あと少しだから、頑張って」


 そう言って時々励ましてくれる彼女に感謝しつつ、頑張って登っていった。


「ここを登りきると、着くよ」


 ついに、登りきった。少し平坦な森が広がっていて、奥の方から光が見える。

 と、ここで不意に既視感を感じた。


(なんだ……?初めて来た場所のはずなのに……見覚えがある?)


 そんな疑問を抱きながら、前を歩く志希さんについて行く。そして、森を抜けて目に飛び込んで来た光景に、思わず息を飲んだ。


「そう……げん」


 一面に広がる腰くらいの高さの草がそよ風に吹かれ、波のようになびいている。


 ここで再び、既視感に襲われる。


(なんだ……これ?)


「ここが、私の小説の舞台。……そして、私の、なんだ」


 ドクン


「急に、どうしたの?」


「初めて君に会った時、びっくりしちゃった。前に会ったときよりずっと、男の子っぽくなっててさ」


 前に会ったって……何を言っているんだ?


 ドクン


「だから、急に何を……」


「でも、やっぱり君は、覚えてなかった。そりゃそうだよね。当然だろうけど、やっぱり悲しかったな」


 ズキン


『ね、ねぇ!目を開けてよ!ねぇ、ねぇってばぁっ!!』


(な、なんだ、これ。頭の中に、流れ込んでくるみたいな……)


『嫌だ……嫌だよ……!もう、1人はやだよ……!しきちゃん、僕を1人にしないでよぉぉっ!』


(しき……ちゃん?なんで彼女志希の名前が?)


「今、千寿くんは記憶を取り戻しつつあるんだよ」


「な、何を言って……」


「本当はこれをやったら……いけないんだけど、でも、やっぱり千寿くんには思い出して欲しいから」


 そう言って僕に歩み寄る志希さん。


「……じっと、しててね?」


 え、と僕が言う前に、唇に温かくて柔らかい感触を感じた。思わず体を離してしまいそうになったが、志希さんの手が僕の顔を捕まえ固定する。次の瞬間。


 ドクン


 記憶が、頭の中に流れ込んでくる。


「………!!」


 ビリビリと、頭の中を何かが駆け巡る。


 ゆっくりと志希さんが僕から離れる。僕はもう一度、彼女の顔を見る。


「……しき、ちゃん?」


 僕の呼び掛けに答えるように、彼女は顔をほころばせた。




 その瞬間、僕の中で失われた記憶が、一斉に目を覚ました。





 .*・゚.゚・*.📖.*・゚.゚・*.


 小さい頃の僕──夜山千寿は引っ込み思案な性格で、友人が出来なかった。それに加え、親が仕事の影響でよく引越しをする人だったため、友達ができる機会がほぼ無かったと言っていい。

 けれどある日、いつものように1人で帰っているときだった。


「あ、危ない!」


「?」


 声のした方向に顔を向けた次の瞬間、顔にドッジボールが勢いよく「スパーン!」と当たった。


「???」


 その場に尻もちをついて、混乱する僕に知らない女の子が駆け寄ってきた。


「ご、ごめんね!怪我とかない?大丈夫?

 って……同じクラスの夜山くんだ」


 そう言われて、女の子を見てみるも全く誰か分からなかった。その頃の僕は「新しい友達ができたとしてもすぐにさよならしなければいけないんだ」と思っていたため、なるべく人との関わりは持たないようにしていた。クラスメイトは特に。


「なんともないよ」


 立ち上がろうとしたが、よろけてしまう。その様子を見た女の子は「なんでもなくないじゃない」と僕の足元を見てそう言った。

 見ると、足首が少し赤くなっていた。


「ねえ、誰か冷やすものない?」


 一緒にドッジボールをやっていた同級生らしき人物たちに女の子は尋ねたがみんな首を横に振った。


「しょうがないなぁ……ちょっと肩貸して?」


 そう言うなり女の子は僕の真隣に来て肩を貸してくれた。


「私の家に……保冷剤あったと思うからそれで冷やそ?」


「え、でも……」


「良い?君は怪我をしてるの。だから私の家でお手当てしてあげるの。わかった?」


「え、あ、うん……」


 この時、その女の子はまるで怪我した子供を心配するお母さんみたいな感じがしたのを覚えている。


「私は谷口志希。「しきちゃん」って呼ばれてるんだ。あなたはお名前なんて言うの?」


「……夜山千寿」


「夜山くん……珍しい名前だね?」


「僕はこの名前……嫌い。変な名前だってみんなにからかわれるから」


「そんなことないよ。私は好きだな、その名前」


 彼女はそう言って、優しく笑いかけてくれた。



 その日から、僕はしきちゃんに声をかけられるようになった。始めは仲良くなりすぎるのが嫌だったから避けることも多かった。


 もしそこで彼女が諦めてくれていたら、いつもの孤独な日常に戻っていたのかもしれない。けど、根気強く彼女は接し続けた。やはり子供というのは心変わりが多いもので、僕も気がついたら彼女と一緒にいるようになっていた。いつの間にか彼女には心を許してしまった。


 休みの日には色んなことをした。海辺でたくさんの面白い形をした貝殻を見つけたり、森の中に2人だけの秘密基地を作ったり、電車に乗って2人で街からちょっぴり都会に出てみたり。とにかく楽しかった。もしかしたら、この時僕は彼女に恋をしていたのかもしれない。


 けど、やはり。運命というのは残酷なもので。僕は再び孤独になってしまうこととなる。


 ある日。山の探検をしている時だった。


 ポツ、ポツ、ザァァァァァ……


「あ、雨だ」


「山は天気が変わりやすいって言うしね。降りようか」


「そうだね、急ご急ご」


 僕たちは急いで山道を降りた。けど、雨のせいで地面はぬかるんで、岩も滑りやすくなっていた中、走るのは危ないことは分かっていたがこの時は雨宿りに意識が向きすぎていた。


 そして、悲劇が起こる。


 ガラガラガラガラッ!!


「きゃあっ!?」


 しきちゃんの足場が、崩れたのだ。


「しきちゃん!?」


 彼女はそばにある太い枝にしがみついていた。その下は、急すぎる崖。ゴツゴツとした岩肌があった。


「だ、大丈夫!?」


 僕は必死に手を伸ばす。が、枝までの距離が遠すぎて子供の腕の長さでは届く気配がない。


「捕まって!」


 そう叫ぶも、しきちゃんは枝に捕まるのがやっとでそんな余裕はない。


 枝のピキバキと言う音がどんどん気持ちを焦らす。


「と、届……けぇ……!」


 ミシミシ……パキパキ……


「もう、いいよ。千寿くん」


「だめだよ!このままじゃ君が……!」


「私の手を掴んだら、君まで巻き込んじゃう!」


 突然の大きな声に、僕はビクッと体を震えさせる。しきちゃんのそんな声は初めて聞いた。


「ねぇ、お願い。手を、伸ばさないで?君は、生きて欲しい。死んで欲しくない。だって、私は……」


 バキィッ!!


 聞きたくない音が、耳に届いた。


 どんどん、姿が小さくなっていく。


 そして……彼女は暗闇に消えた。




 後日。山の麓を流れる川の下流で、女児の遺体が発見された。それを聞いた僕は、全力で彼女の元に向かった。


「ね、ねぇ!目を開けてよ!ねぇ、ねぇってばぁっ!!」


 静かに目を瞑る君にいくら呼びかけても、反応はない。


「嫌だ……嫌だよ……!もう、1人はやだよ……!しきちゃん、僕を1人にしないでよぉぉっ!」


 彼女は。僕が好きになった谷口志希という一人の少女は。



 .*・゚.゚・*.📖.*・゚.゚・*.


「しき……ちゃん、なのか?」


「うん、そう。私が、志希──しきちゃん」


「な、なんで……君は、死んだんじゃ……」


 心臓がうるさい。嬉しい気持ちと混乱する気持ちがぐちゃぐちゃになっている。


「うん、そう。私は死んだの」


 話せば長くなるんだけどね、と彼女は微笑む。


「確かに、私はあの時死んだの。それで、天国に行ったんだ。でも、……私の死は必然的なものだったんだ」


「必然的?」


「私、元々は天国で働いている人だったの。魂の転生先を決定する部署にいた。信じられないって思うかもしれないけど……こればっかりは信じてもらうしかないんだよね……」


「……」


「それで、ある時私禁忌を犯しちゃったみたいで。それで罰としてこの地上に降ろされた。1からやり直してこいってことだろうね。でも……もうその罰の期間が終わったから、私は死んだ。天国に戻らされたって言った方が、正しいのかな。そして、私が地上で接触した人間の記憶から……私という存在が消された。

 でも……私ときたら、現実でやり残したことがあってね?それで、天国にいるお偉いさんに無理を承知で頼み込んだんだ。『お願いします、ちょっとの間だけでいいから現世に私を戻してください。幽霊でもなんでもいいから』って」


「……」


「詳しいことは教えて貰えなかったんだけど、特例で3ヶ月だけ許可されることになったの。びっくりしちゃった」


「………」


「……え、ちょっと。話してる間に相槌とか打ってよ。なんか気まずいよ……?」


「……ご、ごめん。未だに理解が追いつかなくて」


 そう言うと、しきちゃんは申し訳なさそうに笑う。


「……ううん、無理もないよ。だって死んだはずの人がここにいるんだもんね」


 全くだ。しかも、天国のお偉いさんとやらに記憶を消されていただって?理解が追い付かない。


「それで……一応君がしきちゃんなのは理解出来た。まぁ、無理やりそう理解してるって言うのもあるけどさ……。なんで君は、無茶を言って地上に来てまで、僕の記憶を蘇らそうとしたの?」


 彼女は、その言葉を聞くと、肩にかけていたポーチから、封筒を出し僕に渡した。


「これ、私が書いた小説……。読んで、欲しくて」


 それを見て思い出す。確か、今日の目的は彼女が書いた小説を読むことだったけか。でも、それだと今の話の流れからなんで小説の話に……。


 なかなか読まない僕に彼女は「と、とにかく読んで!」と急かした。少しだけ、焦っているように見えたのは気のせいだろうかと思いつつ、「ごめん」と言って封筒のなかから紙を取り出した。一体、どんな小説が書いてあるのか。全くわからないまま僕は静かに読み始めた。



 .*・゚.゚・*.📖.*・゚.゚・*.


 初めて君と出会った時、ひとりぼっちで寂しそうだった君。長い年月を経て再会したのに、君は相変わらずひとりぼっちだった。

 君は重い病気を患っていたせいで、昔みたいに親しげに私のことを呼んでくれなくなって、寂しかった。夕焼けに照らされた帰りの通学路で、つらくて泣いてしまった時もあった。

 昔、君は私に夢を語ってくれたことがあった。重い病気を抱えながらも、君は夢に向かって歩き出そうとしていた。でも、その1歩がなかなか踏み出せないみたいだったから、

 えいってちょっと強引にその背中を押してみた。

 そしたら、その結果。私は君が重い病気を乗り越える糸口を見つけ、そして君は夢に向かって歩き始めた。私はその事が嬉しくて嬉しくてたまらなくて、思わず泣いてしまった。君は混乱していた様子だったけど、私は全然気にしなかった。

 これで私がいなくなっても、君は夢に向かって進めるはずっていう確信を持つことができた。

 多分、私はもう、ここにはいられないと思う。だから、昔、君に伝え損ねたことを言おうかな。上手く言えるかなっていう気持ちが強い。だって、君を前にするとドキドキしてしまうから。上手く喋れなくなっちゃうから。でも、覚悟を固めないといけない。私は言わなくちゃいけない。この気持ちは、この想いは伝えておきたい。


 君のことが、すきです。

 昔からずっと、すきでした。

 これからずっと。何千年先も。何万年先も。

 ずっとずっと君のことを、すきです。



 .*・゚.゚・*.📖.*・゚.゚・*.



「な、なんだよ……これ……。これじゃあ、まるで……」


 手紙、みたいじゃないか。


「なんで、泣いてるの?」


 夕焼けに照らされた彼女は、静かに笑っていた。


「いなくなるって……どういうことだよ」


 頭の片隅では、分かってた。でも、彼女から直接聞かないと理解したくなかった。


「どうしてそんなことが、分かるんだ」


「……言ったでしょ?私はもともとこの世界の人間じゃない。この世界に、いちゃいけないの。元いた場所に、帰らないといけないの」


 その言葉に、思わず歯を食いしばる。


「そ、そんなの……!冗談だよな?」


 彼女は「冗談じゃ、ないよ」と首を横に振る。


「何でだよ、せっかく……君のことを思い出せたのに!またすぐにいなくなっちゃうなんて、そんなのあんまりじゃないか……」


 涙が止まらない。次々にあふれて、あふれて、止まってくれない。

 好きな人を思い出せたのに、またいなくなってしまうなんて。


 僕は彼女を思わず、抱きしめていた。


「小さい頃、君に救われた。人生が、君のおかげで前向きに捉えられるようになった。だから、感謝してもしきれないし……それと同時に好きっていう気持ちが溢れ出て、どうしようもないんだ」


 腕の中にある君は温かくて柔らかくて、ちょっと力を入れたら折れてしまいそうで、それでいてとても愛おしいのだ。たまらなく、好きなのだ。僕は小さい頃からずっと、君に恋をしていたんだ。


「好きで、好きでしょうがないんだ……だから、だから……消えて欲しくない!志希には、ずっと隣に、傍にいて欲しい!……消えるなんて、言わないで欲しい……!」


 涙が溢れて止まらない。せっかく、せっかく君にこの想いを伝えられたのに。こんなの、あんまりじゃないか。


「千寿くんの……バカぁ……そんな嬉しいこと言われたら……消えたく無くなっちゃうじゃない……!」


 胸の中で、志希がついに耐えられずに涙をボロボロこぼす。


「私だって……消えたくないよぉ……!ずっと、ずっと千寿くんと一緒にいたい!一緒に大学に行って、結婚して、子供が出来て……幸せな人生を一緒に過ごしたいよぉ……!」


 彼女の体が、夕日の光に溶けていく。

 だんだん、透明になっていく。


「約束する……!絶対に、志希を迎えに行くから!たとえ君が消えても!天国にいようとも!君の願いは、僕が必ず叶えるから!待ってて欲しい!ずっと、待ってて欲しい!」


 彼女を抱きしめる感覚が小さくなっていく。それでも、彼女の温もりは、そこにある。


「約束、守ってね?私、いつまでも君のことを待ってるから……!」


「ああ、約束する。絶対に、絶対に!」


 そう固く決意を言うと、志希は涙でいっぱいの満面の笑みを浮かべる。


 ばいばい


 そして志希は夕焼けの光とともに、消えていった。



 .*・゚.゚・*.📖.*・゚.゚・*.



「……」


 しばらく、虚空を見つめる。


「必ず……迎えに……行くから」


 もう1度、言葉を紡ぐ。紡ごうとする。


「……あれ?」


 再び声を出そうとした。けれど。何も、出てこない。何もかも、出てこない。何かが、大切な何かが、こぼれ落ちていくような。




「なんで僕……泣いてるんだ?」



 腕の中にあった温もりは、夏の山の涼しい空気に、静かに溶けていった。







 ~fin~







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