君の好きなものを、僕は知らない

松本タケル

第1話 僕の好きなもの

 僕は迷っていた。

 目の前にいる彼女――僕の心を奪った彼女が、からだ。

 確認する方法はある。親友のササガワから聞いた方法だ。

 しかし、その方法を試すには相応のリスクを覚悟する必要がある。

 二人の関係に決定的な亀裂が出来る可能性があるから。

 いっそ、確認しないという選択肢もある。

 それなら、このままの関係を続けられる……。


*  *  *


 プルルル……電話の着信音が室内に響いた。薄灯りに照らされたその部屋は、白を基調にしたシンプルで落ち着きのある寝室。

「うーん」

 若い男性がベッドの上で眠たそうな声を上げた。着信音は男性の腕時計から鳴っている。

「通話開始」

 目を擦りながら男性がつぶやくと、腕時計から甲高い女性の声がした。

「コウキ、起きなさい。朝よ」

「何だよ、母さんか。まだ寝ていても大丈夫だから」

 電話は離れて暮らす母親からだ。二十歳半ばを過ぎた息子に時々こうしてモーニングコールを掛けるのだ。

「仕事は昼から。もう少し寝る」

 コウキはそう言いつつ、腕時計を確認する。朝八時、そろそろ起きるつもりの時間だった。「じゃあ、切るよ」

 ベッドから降りたコウキは、面倒くさげに腕時計に話しかけた。

「食事はちゃんと、とってる? 好きだからって、いつもステーキばっかり食べてちゃダメなんですからね」

 何歳になっても、母親は息子を小学生だと思っているらしい。健康、生活に関わることは特に気になるようだ。

「ステーキばっかりだけど、大丈夫。母さんも知ってるだろ。食物生成機がちゃんと必要な栄養素を調整して作ってくれるってことを」

「それは、そうかもしれないけど。好みが偏り過ぎるのは良くないわ。だから、お母さんだって嫌いなキュウリを食べるようにしているんだから」

「忠告は聞いておく」

 コウキはため息交じりで返事をした。

「で、仕事の方は順調?」

 母親は話題を変えて電話を長引かせようとする。親子仲は悪くないので電話で話すことは多い。しかし、コウキには朝の日課があった。

「仕事は順調、また連絡する。切るよ」

「仕事、午後からなんでしょ」

 暇なのか、息子が好きなのか母は、何とか話をつなげようとする。目が覚めてきたコウキは仕方なくもう少し付き合うことにした。

「母さんこそどうなの? 父さんは元気?」

「やっぱり沖縄は天候が良くていいわね。父さんも気に入っているわ」

 コウキが住む東京を離れ、両親は沖縄で隠居生活を送っていた。仕事を辞めたあと、気候が良い地域でのんびり暮らす。良くあるケースだ。立体画像を使った通信もできるので、家族が離れて暮らしても身近に感じることができた。


 10分間ほど話をした。さすがのコウキもそろそろ、区切りをつけることにした。

「俺、朝の筋トレがあるから切るよ。ジョギングしてから、腹筋して、背筋をして――」

「それこそ、自分ですることじゃないわよ。筋肉刺激機を使えばわざわざトレーニングなんてしなくたっていいんだから。母さんなんて、欠かさず使っているので驚くほど引き締まっているわよ」

 コウキの話を遮ってまで母親が話したことは正しい。千年後のこの時代では技術が進んでおり、家にある機械で筋肉に刺激を与えるだけで理想の体形が手に入れられる。自力でトレーニングすること自体、不思議がられる行為だ。

「じゃあ、その引き締まった体形、写真に撮って送っておいて。じゃあ」

 まだ話したりないといった感じの母の電話を強引に切り上げたコウキは、寝室からリビングに移動した。

「ブラインド、開けて」

 宙に語り掛けると自動でブラインドが上がった。高層階からの景色。窓の外にはビル街と、ずっと先には海が見えた。この地上三十階からの景色が気に入って住んでいる。

 コウキのように二十代半ばで、このような高層マンションに住むのは珍しくない。希望すれば誰でも入れるからだ。科学技術が発展し、欲しい物は何でも作り出せるようになった千年後の日本。あくせく働かなくても、望めば大抵の物を手に入れることができた。

「少し食べてから、トレーニングにするか。じゃあ、サーロインステーキ、お願い」

 コウキは腕を持ち上げて時計に話し掛けた。

「了解しました。生成します」

 腕時計から女性の音声が流れた。わざわざ口を近づけなくても腕時計は指示の声をひろってくれる。しかし、コウキはつい癖で腕時計を口に近づけてしまう。


 窓に近づき、朝日で明るく照らし出された街並みを見渡していると、台所の方から「チン」とベルの音がした。食物生成機から発せられた完成の合図。

 電子レンジを二回りほど大きくしたその装置は指示した食べ物を何でも作りだしてしまう。後ろの着いている太いホースから原料が供給され、装置が何やら難しい技術で食べ物に仕立てるのだ。

 コウキは以前に原料を見たことがあった。緑色をしたヨーグルトのようなドロッとした液体。決して食欲をそそらないその原料には様々な成分が含まれている。ここから、よくもまあステーキもどきや、野菜もどきが作れるものだと感心した記憶がある。

 「もどき」と言ったのには理由がある。味と栄養素は別ものなのだ。何を食べても人間に必要な栄養素を必ず含むように生成されるのだ。毎日ステーキを食べても、生きていくのに支障はない。

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