同棲彼女と晩ご飯を

もりくぼの小隊

彼女と晩ご飯を


「ねぇ、食べないんですかぁ。ごはあん、食べないんですかあぁぃ?」


 突然に、独特な甘ったるい蜂蜜のような声音ハニーボイスがリズミカルに耳の奥へと囁かれる。耳奥を小指でくすぐるような息と、うなじから背中に向かって撫でられてゆくような感覚がゾクリゾクリとこそばゆく走る。思わず背筋を伸ばして身動みじろぐと長い黒髪を一つ束に結わえた女の子がひとり、吊りがちな瞳を子猫のように細め、口を大きく開けてはしゃぐ子どものように白い歯を見せて笑っている。


「もう、そんなオーバーにビクッてならなくてもぅ。ダメ、ちょっと可笑し、ふ、フフフッ、ごめ、笑い、待ってまって待ってぇ、すぐ止まるからぁ」


 まるで家族のような近い距離で砕けて笑う彼女は同棲中の僕の恋人である。あるのだが、なぜそんなにツボに入った笑いをしているのか僕にはよくわからない。寝起きな僕は彼女にとってそんなにも面白いものなのだろうか。しかし、それはそれとしてこの特徴的な柔らかな笑いは妙な和みを心の奥に温かみを与えてくれる。ジンワリと心に幸せを運んでくれた目の前の愛しい彼女の笑いが収まるのを眺める自分の顔も恐らく和やかに笑っているのかもしれない。一頻りに笑った彼女は細めていた猫目をジトリと変えて急に僕を睨む。迫力は無い。これは、可愛いだけだと口端くちはがついついとあがる笑いが抑えられない。


「あ〜ッ、笑ってるよなぁ、人の顔を見てぇ〜、いけないんだよな〜ってもう〜」


 それは、お互いさまでしょと言うと


「それはそうだそうだぁ、それもそうだねぇ〜ェへ。ン〜フフフ――はははッ――ぁ――またダメだぁ〜ッ」


 またなにかが彼女の笑いのツボに入ったらしい、笑いは再び幸せなループを開始する。いつの間にか仕事疲れの眠気なんてものは僕の身体からは吹き飛んでいくのは当然といえるだろう。彼女の笑いは僕にとって、幸せな栄養補給だ。


「さあてっとぅ、それでは遅くなりましたがぁ、晩ご飯ですよぅ、いただきましょうよねぇ〜」


 笑いを今度こそ収めて幸せ無限ループを終える。彼女は両手をパチパチと僕の耳元で鳴らすと軽やかな足取りでキッチンスペースに向かってゆき、いそいそパタパタとした小動物のような動きで食事の準備を始めてくれる。仕事疲れて眠っている間に、彼女は料理を作ってくれていたようだ。今は最後の仕上げらしい、これは何もしないわけにはいかないなと僕も彼女の後に続いた。


「あれれぇ〜、まだまだ眠たいて顔してるよぅ? いいよぅ、眠たいんならもっとゆっくりしててよぅ。お仕事大変だったんでしょう?」


 彼女は優しく言ってくれるが、一緒にご飯の準備をした方が元気になると言うと彼女の口元は嬉しそうに綻んできた。


「もうキミはしょうのないやつなんだよなぁ〜、よしよし、許可いたそうぞッ。んふふ、ではこれを任した任したぁ」


 可愛らしい命令調で彼女は炊飯器ジャーを指差した。どうやらご飯をよそう簡単な任務を伝えてくれたようだ。自分の命令調が可笑しかったのか口がまた笑っている。僕が「了解ラジャー」と言うと


「ラジャーって、あー、炊飯器ジャー了解ラジャーのダジャレかぁ〜ッ」


 と、こちらの予期せぬ事で「やられてしまったぁ」となぜだか胸を押さえて震えていた。僕はそこは気にせずにしゃもじを洗う。


「コォラきさま〜、いま無視をしたなぁ」


 背後からジットリとした視線と息が耳に掛かってきた。




「よしよしできましたなぁと、さあさあ、遠慮せずにお食べなさいとなぁ」


 得意満面と胸を張る彼女の作ってくれた晩ご飯は「和風ハンバーグ」に「レンコンの煮物」「ワカメと豆腐の味噌汁」だ。どれも美味しそうで、グーと鳴るペコペコお腹にはたまらない。たまらないのだけど……。


「おんや〜、どうしましたかぁ?」


 彼女はどこかわざとらしくニンマァリと笑うが、疑問に思うのは当然だろう。ご飯を食べるというのに、彼女は僕の身体をソファー代わりにするかのように腰深く身体を滑り込ませているのだから、ご飯もきれいに同じ方向に二つずつ配膳されている。彼女はリラックスと僕の足の間に身体をきれいに潜り込ませ、頭が胸のあたりにくるように調整すると僕の顔を見上げてまたイタズラ小悪魔に笑った。


「なんで、こんな体勢でご飯を食べようというのかって顔してますねぇ? んふ〜、高度なギャグの返しを無視したバツと言えば、イイかしらぁ?」


 全く、妙な理由だなと思ったが、恐らく何も考えついた事なのだろうと理解する。伊達に彼氏はやっていない。それに、まぁ悪い気はせず寧ろ嬉しいので別にこのままでもいいかと、僕は缶ビールのプルトップを片手で開けようとする。が、彼女に素早く奪い取られた。


「ほれ、わかってなぃ〜、こういうのはぁ」


 彼女は奪い取った缶ビールを両手でカシュッと開けるとグラスと缶ビールを僕の顔の前まで持ち上げて、器用に注ぎいれてくれた。シュワリとした麦の炭酸が弾け、泡だらけに並々と一瞬で注がれるビールに慌てて口をつけながら頭からビール濡れな大惨事を察知して、彼女の手から奪い取った。


「あらら、うまくいかないもんですなぁ〜」


 彼女は手持ち無沙汰になった両手を空中で掻きながら僕の顎を触ってきた。


「んァ〜キサマ〜、ジョリジョリしておるなぁ?」


 それは、風呂はいらずに寝ちゃったから髭をまだ剃ってはいないんだよ。ちょっと仕事の汚れもあるから触らないほうがいいと思うんだけどと伝えると。


「いやぁ〜、そう言われると触りたくなるぅ、お頼み申すもうちょびっとだけジョリジョリを〜」


 というのでもう少しこのまま触らせることにした。何がそんなに楽しいのやら。あ、所でこのまだ缶の中に余ってるビールは


「飲むからここにもう一杯のグラスがあるのでしてぇ、ティヘヘへ」


 彼女は器用にジョリジョリ作業を続けながら、片手にしたグラスを上へと向ける。了解と僕が残りのビールを注ぐと


「ん〜、幸せシュワシュワが頭の上で響いてくるねぇ〜、ほいではこのままお仕事ご苦労さまのカンパ〜イといきましょうッ」


 うん、お疲れさま。僕らはカチンとグラスを小気味良く合わせると、ビールを一口、二口、ググッと喉を鳴らして呑む。


「ぷぃッはあぁ〜ッ、美味しいが身体を駆け巡っておるぞぅぃぃ〜ッ」


 確かに疲れた身体にビールの美味しさは、異論無しだけど、本当の「美味しい」はこれからでしょう。


「それはそう、はいっ、それでは一緒にご唱和ください晩ご飯を。はい、いただきますッ」


 いただきます。僕らは同時に両手を合わせると、彼女が下から差し出してくれた箸を手に取った。さぁ、待ちに待った美味しい彼女の晩ご飯だ。







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