狂いゆく道程 15

 アルバイト先である清掃会社が正社員を募集しているという話を聞き、わたしは正社員として採用してもらうことにした。こちらからその旨を伝えると会社は二つ返事で了承してくれた。

 自分のことは自分がよくわかっている。わたしのような人間には複雑な仕事や人間関係が大切な仕事は向いてない。単純作業こそが天職なのだ。


 やらなければいけないことのほとんどが片付いて私生活にある程度の余裕が出てきたころわたしは一念発起した。これまでに溜め込んだ経験値はノート約四冊分にもなった。そろそろこれらをまとめてもいい頃合いだろう。四冊のノートにはわたしが実経験したエピソードやふとした瞬間に思いついたショートストーリーなどが詰まっている。それらをうまい具合につなぎ合わせて一つの物語にするのだ。


 わたしは作業に没頭した。


 必要最低限やらなくちゃいけないこと以外の時間はすべて創作の時間にあてた。他のことなどどうでもよかった。世間で何が流行ってるだとか、大きな事件が起きただとか、そのすべてがどうでもよかった。ただただ文章を書くことに心血を注ぐ。思うように言葉にできなかったり、どうしてもうまくつながらないことに頭を悩ませ、時に過去のトラウマと向き合い、何度も推敲して矛盾を潰し整合性を取る。詰め込みすぎず、取捨選択はしっかりやる。経験したすべてを一つの物語に落とし込む必要はない。使わなかったネタ、使えなかったネタはまた別の機会に活かせばいい。わたしは生みの苦しみを味わいながら、同時にそれを楽しみながらノートに鉛筆を走らせる。


 数ヶ月後、ついに一遍の小説が完成した。会心の出来だった。書き上げたら次は誰かに見せたい、読ませたいという欲に駆られる。けど残念なことに今のわたしにはこれを見せられるようなちかしい人間がいない。となればネットだ。検索をかけて一番最初に見つけた小説投稿サイトにわたしはノートに書いた小説を書き写していった。

 キーボードを叩きながら、もしかしたらこれで有名人になれるかもしれない。世にわたしの本が出版されるかもしれない。何かの賞を受賞してしまうかもしれない、映画化、ドラマ化、アニメ化、マンガ化――、翻訳され人気は海外に飛び火し、最終的にはノーベル文学賞だ。


 妄想が夢が膨らんでいく。


 最後の一文字が入力し終わる。キーボードを叩く指についつい力が入る。


「終わった……」


 そこでわたしはこの作品にタイトルを付けていなかったことに気づく。奇をてらう必要はない。その場で浮かんだ言葉をそのままタイトルにすることにした。



 タイトルは、『タナトスと踊れ』――



 しかし、現実とは無情である。


 小説を投稿してから二週間、毎日サイトをチェックした。その間、閲覧者の数を示す数字は『0』のままだった。『0』ということは誰にも読まれていないということ。虚しくなった。あれだけの時間と労力を使って書き上げた小説が誰にも見向きもされないという現実を目の当たりにして、わたしの心を無が支配する。

 さらに一週間、毎日欠かさずチェックを続けたが閲覧数は相変わらず『0』のままだった。この頃にはもうわたしは自分の作品に対する興味が薄れていた。一つの作品に固執したって意味はない。大切なのは気持ちを切り替えて次の作品に取り掛かることだ。


 そう……


 きっとまだ足りていないのだ。だから誰にも興味を持ってもらえない。ならばわたしがやることは、ただひたすらにを積むことだけ――


 …………


 翌年の二月。卒論を終えて卒業を控えるだけの身となったタイミングでバイトの勤務先が一部変更になった。新しく担当することになったのは私立の高校。勤務場所が変更になることはこれまでも何度もあったのでそう珍しいことでもないが、学校施設というのは初めてだった。なんでも前任者の二人のうち一人が突然辞めてしまったのでその代わりにということだった。


 そこはわたしでも名前を知っているくらいF市では有名な進学校だった。実際に現場に行ってみると結構な広さの学校だった。清掃範囲はかつて四人で担当したことのあるサナトリウムと比べても引けをとらないほどだ。こんな広い場所を二人だけで担当するなんて、そりゃ前任者も嫌になって当然だと思った。

 でもわたしに拒否権はないし、意見できる立場でもない。今年の春から正社員になることが確定しているので、下手なことを言えば内定取り消しにもなりかねない。足元を見られている感は否めなかったがそれはそれで構わない。


 作業時間は放課後。大半の生徒たちが帰宅したあとから始まるので必然的に夕方から夜にかけて行われる。わたしが高校生だった頃は学校の清掃は自分たちで行ったものだが、ここはシステムが違うようだ。

 生徒たちに清掃させてもどうせ真面目にやらないのだから時間の無駄。だったら最初から清掃は業者に任せて、浮いたその時間を勉強に充てたほうが良いだろう、という考えなのだろうか。たしかにそのほうが効率的だと思う。そのおかげでわたしは仕事にありつけているのだからウィンウィンの関係と言える。


 初出勤の折、最初にもう一人の清掃員に挨拶する。梶浦かじうらさんという名前の温厚そうな年配の男性だった。わたしの担当区分を確認して彼の指示に従いここでの必要最低限のルールを教わり作業に取り掛る。


 このバイトを始めてからもう三年以上が経つ。ベテランにはまだ遠いが、どの場所へ行っても基礎は同じなので手慣れたものだ。しかしながら今回は一人で担当する範囲が広い。作業開始からおよそ一時間でようやく一息つく。水分補給でもしようかと思ったそのタイミングでどこかから怒声が響いてきた。何事かと思い声の正体を知るべくわたしは廊下を歩いた。二度目の怒声はすぐ傍の部屋から聞こえてきた。表示プレートには職員室とあった。廊下側のくもりガラスの窓にほんの少しの隙間が開いていて、そこから中を覗き込むと二人の女性がいるのが見えた。

 一人はわたしのちょっと上くらいの歳の化粧っ気のない女性。もう一人は厚化粧でフォックスメガネのキツイ印象の壮年の女性。その女性が若い女性を叱咤する声がまだ続いていた。さっきの声はここから聞こえたもので間違いない。


 わたしは声の発生源に興味があっただけで叱られている内容はどうでもよかった。それに他人が怒られている姿を見るのはあまり気分のいいものではない。早々に退散し休憩の続きに戻ろうとしたところでメガネの女性がこちらに気づいた。わたしが覗いていることに気づいたその女性はこちらに歩いてきて窓を閉める。僅かな隙間を閉めるのにも目いっぱいの力でピシャリとやった。眼の前で激しい音を立てて締まる窓におののいていると出入り口の戸が開いた。


「なんですかあなたは!」


 メガネの女性が身を乗り出しながら棘のある声で訊いてきた。わたしは自分が何者かを訊ねられたときの対応をマニュアル通りに返した。


「そう。でも覗きは感心しないわね。この事はあなたの会社に報告させてもらいます」


 メガネの女性はわたしにゴミを見るような視線を向け、存分に値踏みしたあと部屋の中に戻っていった。戸がバンと音を立て閉まる瞬間、女性が軽い舌打ちをしたのをわたしは聞き逃さなかった。


 そりゃあ教師様から見れば清掃員の仕事などド底辺に見えるだろう。しかしそう思っていたとしてもそれを表に出すのはいかがなものか。とんだ災難だ。くもりガラスの窓の向こうにはぼやけたシルエットが見える。お説教の続きが始まったようだ。前任者が辞めた本当の理由はこれかもしれないと思った。


 ――――


 メガネの教師の叱責は恒常化しているようだった。職員室の横の廊下を通るたびに高確率で怒声が飛んでくる。しかも決まって槍玉に挙げられているのは最初に怒られているところを発見したあの若い女先生だった。

 その時々で別の人間に対して憤るならわからないでもないが、毎度毎度よくもまあ同じ人間に対してそんなに怒ることがあるものだと思う。なるべく職員室の方を意識しないようにして清掃を続ける。それでも聞こえてくる女性特有の高い声が嫌でもわたしの耳朶を刺激する。これではおちおち妄想にふけることもできない。


 ――ほんと、よく飽きないものだ。


 職員室から男性教員が出てきた。彼はわたしに気づくと小さく会釈してどこかへ行ってしまった。わたしは彼の居心地の悪そうな表情を見逃さなかった。周囲の人間もほとほと困り果てているようだ。でもそれを直接本人に指摘することもできずに、ただただ現場から逃げるに徹する。わたしだってたとえそれが赤の他人であっても誰かが誰かに怒られている場面に居合わせれば気分はよくない。そんな環境に置かれ続けていれば、わたしがストレスを感じるのも必然だった。

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