18:微睡み
自分でやると決めたことなら最後まできちんとやるべきだ、とネイトは思っています。
何のことかといえば、もちろん先生のことです。
先生は締め切り破りの常習犯ですが、「原稿を書く」と決めたのは先生本人のはずなのです。――もしかすると、そのきっかけすらも忘れてしまっているのかもしれませんが。
とにかく、覚えているか否かは横においても、自分からはじめたことであり、その上で本人が「やめる」とも言い出さない以上、担当編集たるネイトの仕事は先生がしっかり原稿を書き上げるところを見届けることなのです。
あの手この手を使って締め切りから逃れようとする先生をどうにかこうにか机に向かわせて、時にはなだめて、時にはおどして、そんなこんなでぎりぎり締め切りに間に合ったのがつい先ほどのこと。
癖の強い文字で書かれた手書きの原稿を封筒に収めながら、ネイトは先生に向かって声をかけます。
「それで、次のお話ですが――」
そこまで言いかかった言葉が、喉の奥に消えていきます。見れば、先生は机に突っ伏すようにして眠りに落ちていたのでした。
一つ原稿が終わったところで、次の原稿が待っています。先生はまだ、その手で描いている『霧の向こうに』という物語にピリオドを打ってはいないのですから。
ただ――。
ネイトは、小さく溜息をついて、封筒を小脇に抱えます。そして、先生の足元にじゃれついている子猫をひょいと引き剥がすのです。
「かたっぽ、だーめ」
かたっぽの前足だけが白い黒猫は、きょとんとした様子で自分を抱き上げるネイトを見上げました。ネイトはそんなかたっぽに笑いかけるのです。
「今は、そっとしておいてあげましょう」
ネイトは、知っています。
先生が夜ほとんど眠れていないことも。大量の薬に頼りながら、なお、落ち着くことのない心を抱えていることも。
眠りたくないのです、と先生は言います。眠っている間に大切なことを忘れてしまうのではないか、と。先生が大切なことを忘れてしまうのは寝ても覚めても変わらないことで、それは先生自身嫌というほどよくわかっているはずで、それでも、先生は眠ることを恐れているのでした。
もしかすると、先生が眠りたがらない理由はそれだけではないのかもしれませんが。
朝、ひときわ酷い顔をした先生が「嫌な夢を見ました」と言ったのを聞いたことがあります。その内容までは教えてもらえませんでしたが、どうあれ、先生にとって眠りの時間とは決して安らぎの時間ではない、ようなのでした。
……けれど、今、この時は。
白髪交じりの金髪を机の上に流し、額までずれた色眼鏡を直すこともせず。先生は静かな息を立てて眠っています。その表情は、いつになく穏やかでした。
ですから、ネイトはかたっぽを抱いたまま、抜き足差し足忍び足で書斎の扉に向かいます。
「おやすみなさい、先生」
それが、ほんのひとときの微睡みであろうとも。
先生の安らかな眠りを願って、扉を閉じるのでした。
(鈍鱗通りの作家と編集者)
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