いつか澄みゆく、蒼天
なきうさぎ
序章
第1話 ハジマリ
どこを見渡しても、銀世界だった。
空気は澄み渡り、白い衣を纏った枯れ木が、まばらに立つ辺りからは生命の呼吸は感じられず、まるでこの世に私とこの子だけが取り残されてしまったかのようだ。
昨夜振り始めた雪は、止む気配もなくしんしんと降り積り、ギュッギュッと雪を踏みしめる音が辺りに響き渡った。
とうに足先の感覚は無く、気力も体力も限界だった。歩き続ける事が出来たのは、ひとえに、愛する我が子への想いが、私の足を、全身を突き動かすのだ。
思えばこれほど歩いたのは遠い昔に、そう、まだ嫁入りする前だっただろう。貧村に生まれ、身体も弱かった私を娶ってくれた旦那には、感謝と恩義しかない。そんな旦那が、私にこの子を託したのだ――
―――――――――――――
山の麓から、大きな爆発音がやや離れたここまで届き、家が震えた。
旦那はその音を聞き、とても険しい表情を浮かべる。
「間もなくここは戦場になる。私の立場では、お前と我が子を連れて逃れる事も出来ぬし、逃れさせるだけの時間を作る事しか出来ぬのだ。どうか赦してほしい」
背を向けた旦那は、震えながらそう言った。
「ええ、命に変えてでも守るわ。あなたは…死なないわよね…?」
私は、愛する我が子を抱き抱え、縋るように旦那の背を見た。
「私が潰えれば、この国は奴の手に落ちる。そのようなことは絶対にさせてはならぬ。故に、私は負ける事も死ぬ事も出来ぬのだ」
旦那は振り返り、私に近づいて私達を強く抱きしめた。
抱きしめる手が震えている事に気がついたが、気づかぬふりをして、静かに旦那の無事を祈った。
旦那は首から、その瞳と同じ、炎の如く真紅に染まった石が吊るされた首紐を外すと、そっと私の首に付けてくれた。
「この石が、お前と我が子を苦難から遠ざけて迷った時に、進むべき道を示してくれるだろう」
爆発音が先程よりも近くから聞こえた。
「さあ、行くんだ。そして、いつの日か平穏な世を取り戻す事が出来れば、私はきっとお前達二人を迎えに行く」
旦那はそう言うと、家を飛び出して行った。
―――それが、旦那との最後の会話になった。
――――――――――
共に出国した側近達は、追っ手の追跡を緩める為に、一人また一人と、決して生きて帰る事の無い理不尽な役を快く引き受けて散って逝った。途中、二度ほど追跡者に追いつかれ、私含め数人が手負いとなったが、ここ二日は追っ手に会わない。巻いたのだろうか。
散って逝った彼等にも家族はいただろう。私はそんな者達の想いも背負い、ひたすらに北へ歩を進めた。
痩せた土地を進む私は、数日間満足に食事を摂る事も出来ず、昨夜降った雪を口にして乾きを癒す事しか出来なかった。我が子には、なんとかお乳をやる事が出来たが、もう限界であろう。
意識が遠のいてきた。もう、歩いているのか、立ち止まっているのか、倒れているのかすら分からない。
我が子は微笑ましい顔で、すやすやと眠り全身がとても暖かい。まるで春の陽だまりのような暖かさを持ち、この極寒でも生きている我が子に安堵した。
「ごめんね。あなたの事守ってあげられなかった…」
いつしか、親子を責めるように降り続いていた雪は止み、曇天に日が差し込めた。
――――
今年も冬が来た。
昨夜から降りはじめた雪は、人々の願いとは反して降り積り、望まない急な冬支度をする羽目になったのだ。
薪拾いと仕掛けた罠の確認をしにやってきた男は、ふいに雪が一部溶けている箇所を見つけた。
「なんであそこだけ雪が無いんだ?陽が当たってたわけじゃあるまいし」
恐る恐る男は近づくと、膝から崩れ落ちて手を合わせ祈った。
獣人のおそらく娘だろう。背と地面を朱に染めて両肩を抱き抱えるように横向きに倒れていたのだった。
「可哀想になあ。斬られて血を流しながら、ここまで必死に歩いてきたんだろうな」
男は立ち上がり、娘に近づく。
すると、
「おんぎゃああああ、おんぎゃあああああああ」
地を揺らすような、けたたましい鳴き声が娘からするのだ。男は大層驚いた。
それもそのはずだ。おそらく昨夜降った大雪の中、ここまで来て倒れた娘と一緒に倒れていたであろう赤子がここまで元気に泣けるはずなど無かった。
男は急いで声のする辺りの服を剥がすと、獣人のなんとも可愛らしい子が元気な声で泣きながら、懸命に何かを訴えようとしていた。
「あの極寒の中生き延びたのか。可哀想になあ。母ちゃん死んじまって、ここで一緒に野垂れ死ぬ所だったんだなぁ。俺んとこで、もう少し生きてみるか?」
男は赤子を抱き抱えると、赤子は安心したのか満足そうに眠りについた。それにしてもこの赤子、なんだかとても暖かい。
「すまねえな。おめえの母ちゃんを運んでやれねえから、ここで埋めてやるしかねえんだ」
男は銀世界の中にポツンと出来ている、春の陽だまりの中に、穴を掘って娘を土葬した。気づくと辺りは薄暗くなり始めていた。
赤子はすやすやと眠り続けている。この子の人生を思うと不憫でならないが、村で育ててあげれば、人並みには暮らしていけるだろう。
男は、背負える量の薪と赤子を抱き抱えて村へと戻っていくのだった。
獣人の娘を弔った場所は、陽が沈みかけても明るいまま、まるで天への階段が掛かっているようだった―――
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