青嵐に氷菓

@ihcikuYoK

青嵐に氷菓

***


 猫がソワソワしだすと、あぁそろそろ来る時間かと思う。

 数匹の猫が、素知らぬ顔をして玄関で待機していた。熱烈なファンよろしく側を離れない癖に、待っていないかのような素振りをするのだからなんだか笑ってしまう。


「おはようございますー、お邪魔しまーす」

たまに現れていたその人は、夏になり明らかに顔を出す頻度が上がった。

 手持ちのタオルで汗をぬぐいつつ、いつも通り入ってきた。変わらずインターフォンは鳴らすものの、慣れたもので最近はこちらが玄関を開く前に入ってくるようになった。というのも、先生も俺も手が離せないときの方が多いので、そうしてもらった方がラクだと伝えたのだ。

 俺は一向に退く気配のない何匹かの眠りこけた子猫を膝に抱えたまま、いらっしゃいと手を上げた。

「あれ、先生は?」

「朝から買い出し行った」

珍しいねと声が戻り、それに同意する。


 先生は『極力、人と関わりたくない』という理由でこんな山奥に建物を建て、野良や捨て猫の保護をし世話をして暮らしている(猫専門のつもりはないらしいが、猫が猫を呼び増えてしまったそうだ)。

 その天下の人嫌いが朝から出て、なんと街に下りているのだ。俺たちからすれば大ニュースである。

 普段なら「ダイチくん。このために君を雇ったんだ」「ちょっと、そのためだけとかないでしょ嘘ですよね」のやり取りを経てだいたい俺が行くことになるのだが、今日は『買い出し。午前中に帰宅予定』という書き置きが1枚あるきりで、起きた頃にはすでにその姿はなかった(律儀なもので『朝の餌はちゃんとやってあるから、もらってないアピールをされても信じないように』との追記があった)。


「外、すっごい暑いよー。風があるだけマシだけど」

言いながら、サツキは窓から差し込む光に目を細め、冷蔵庫へとまっすぐ歩いていった。

「でもまた登るんだろ? 元気だなぁ」

「滝を見に行くの、綺麗だし涼しいよ! ダイチくんも行く?」

「行かな~い」

「言うと思った~」

アハハ、と笑い合った。

 実際問題、もし俺が迂闊に行くなどと返事をしたら「まず装備は最低限これとこれとこれが必要だから、買ってからね」と登山者のマジ顔で言われるのは目に見えていた。

 一時の”綺麗”と”涼しい”を味わうためだけに色んなものを買って長時間汗だくになるなんて、とてもじゃないが割に合わないと俺などは思うものだが、サツキにとってはそれを差し引きしてもお釣りが来るくらい楽しいことらしかった。


「熱中症とか気ィ付けてね、なんかあっても俺じゃあんまり役に立たないしさ」

あてにしないようにしてるー、と軽く返ってきて笑う。そりゃそうだ。

 住んではいるものの、俺はこの山にまったく詳しくない。下山はまだマシだが、登ると何故かいつも迷子になり、心配して後をついてきた猫に案内されて帰ってくるのだ。こんな方向音痴を頼りにしだしたら終わりだ。

「塩飴も飲みものも持ったし」

「GPSアプリは?」

バッとポーズをとって見せた。手首に見慣れぬものがつけられていた。

「買っちゃった、ちょっといい登山時計!」

「おー、ついに! 欲しがってたもんなー」

「これで遭難しても安心」

縁起悪いこと言うなよ、の一言を飲み込む。その想定のおかげで、いつも無事に下山してこれるのだから。

「雨具とツェルトも持ったし」

「重そう」

ケロリとして言った。


「重いよ。でも命よりは軽いから」


重すぎるのもよくないから難しいところなんだけどさ、と続き、震えた。

「か、かっこよすぎだろサツキパイセン……!」

「ダイチパイセン同い年でしょ」

 すでに慣れた山でもサツキは準備に手を抜かず、気も抜かない。「というより慣れた山の方が危ないんだよ」とサツキは言う。

 せっかく登り始めても「残念、雷が来そう」と引き返してくることもあるし、せっかくここまで登ってきても「なんか嫌な感じがする」と適当に雑用を手伝って帰ったり、「体調がイマイチだから」と猫と昼寝をして帰ることもある。

『死んだら二度とどこにも登れないけど、生きていればどこの山にもいつでも登りに行けるから』

とは彼女の言である。

 なにかに魅せられた人間は、どうかしている発言を当たり前のような顔で言う。なんで生きるか死ぬかの基準が登山なんだ。


 山ガールな恰好をしている今の彼女からは想像もつかないが、普段は外回りの営業職だそうで、スーツをバシッとキメてコンクリートジャングルをパンプスで走り回っているらしい。健脚なわけである。

 山にしか強い関心を寄せぬこのサツキを、あの人嫌いの先生も気に入っている。俺も仲は良く、気安い友達という感じである。

 あんまり頻繁に訪れるので「僕らふたりじゃ持て余してるし、要り用なら使ってくれていいよ。水とか入れておいたら?」と先生が許可を出し、「いいんですか? じゃあお言葉に甘えて」と冷蔵庫を使いだした。

 さすがに借りるだけというのは気が引けたのか、それ以来たまに「人里の物だよ」などと笑いつつ、俺たちにお裾分けしてくれるようになった。

 実際問題、ありがたい話であった。サツキはいつもあの山道を平気で登ってくるが、買いに行って戻るだけで先生と俺はゼェゼェと肩で息をする有様になるのだ。


 よっこいしょとしゃがみこみ、冷凍室の戸を開いてサツキは固まった。首をひねりゴソゴソと手を突っ込む。

 その体に猫が懸命に身を擦り寄せていた。撫でてほしいのだろうが、まだ涼んでもいないサツキには暑かろう。子猫に膝をホッカホカに暖められている俺が抱く感想ではないが。

「……ない」

「? なにが?」

猛然と振り返った。


「……~~っダイチくん! 私、名前書いてたでしょ!?」


「はい!? ! イッデデ!」

驚いて飛び起きた子猫たちが、起こされた腹いせに俺の手に噛みつき、颯爽と水を飲みに去って行った。

 怒り心頭の顔がこちらを睨みつけており、痛む手を押さえつつ慌てた。サツキが怒ったところなど見たことがなかった。営業職も納得の、平素は常に笑顔を湛えた人なのである。

「待って俺なんかしたっけ?」

「だってダイチくん以外いないでしょ! 私のアイス!!」

「!? そんないいもんあったの!?」

「食べ物の恨みは恐ろしいんだからね……」

いや知らないって、といいかけて口を噤む。してない証明は難しいのだ。

 サツキの顔は真っ赤になっており、見るからに怒っていた。夏の暑さもあるだろう。……そういえば、人間は暑いと怒りっぽくなるんだっけ、などとどうでもいいことを思い出した。


「いやいや、落ち着いてよ。なんかしてたんならサッちゃんが来た時点で謝ってるよ。しらばっくれたりしないよ俺」

人間のしでかす悪さは2つある。1つは悪事を働くこと、そしてもう1つはその悪事を隠そうとすること、である。

 俺の言葉に、彼女は一瞬黙り込んだ。

「……それは、そうかも。ダイチくん、嘘つけないもんね。ぜんぶ顔に出るし」

「『つかないもんね』って言ってよそこは」

アイスがあって? なくなったの? と俺が問うと、力なく頷いて目に見えてしおたれた。

「……でも先生じゃないだろうし、そしたらダイチくんしかいないし」

「なんかそれひどいなー、落ち込むなー」


 真面目な顔をして俺を見据えた。

「でもさダイチくん、考えてもみてよ。先生とダイチくんしかいなかったら、どっちが食べると思うの」

「俺」

ほらぁっ、と言われ慌てて首を振った。冤罪である。

「、審議審議! いまのは誘導尋問だろ! ……それにほら、……猫の可能性も」

冷凍室は開けられないでしょ、と続き頭を掻くしかない。

「でも俺じゃないって、アイスあるのも知らなかったし」

思い出して落ち込んだのか、サツキは項垂れた。

「最後の1つ、すっごい暑い日に食べようと思っておいてたの。これは今日だなと思って、楽しみに来て……」

密閉袋に名前まで書いたのに、と続く。

 そういえば、前に小さなクーラーボックスを担いで来たことがあった。「たまにはいいでしょ、こういうのも」と、俺たちもそのとき1つずつご相伴にあずかったのだ。


 落ち込むサツキには悪いが、そんないいものは勝手に食べない自信があった。寝ぼけて間違えて食べたとしても覚えていると思う。

 なにせここは山の中。

 アイスなんてものは贅沢品どころではない。もはや夢幻の存在である。

 先生と俺は猫たちに関してはマメでも、自分たちに関してはたいがい適当である。普段はレモン水を凍らせたり、余ったジュースやコーヒーを凍らせたものを口に含んで満足している。

 もちろんアイスは大変魅力的だが、そのためにわざわざ山を下りるなんて、とてもじゃないが面倒くさくてやってられない。サツキが来て冷凍室を開けたときに、1粒どうぞと言われたらありがたくもらうきりで、勝手に食べたりなど誓ってしていない。


 ここでは幻の品なのだから。食べたくなっても、なんだかもったいなくて手が伸びないと思う。


 俺たちと違いサツキは活動的な魂そのものが人間の皮を着ているような人なので、夏にもかかわらずこんな山へ登りに幾度も来るような超人(先生いわく、もはや変じ……いや、修行僧だよね)である。

 サツキだからこそ、クーラーボックスを担いで山の登り下りなんてどうかしていることでも平気な顔でできるわけで、俺や先生にとってのそれは(人質に猫でも取られてるの?)(厳しい修行中の僧侶なの?)としか考えられない、それは大変な所業である。

 そんな考えられない労力を払って持参したものを勝手に食べるだなんて、非人道極まりないことであった。


「冷やしタオルあるよ、ほら」

冷蔵庫前でへたり込んだその横にしゃがみ、手を伸ばす。はいよ、と中から1つ手渡すと、サツキは俯いてその首の後ろへとあてがった。

「……最高のやつ……、家で真似しよ……」

冷蔵の戸を閉め、冷凍の戸に手を掛けると、俺は熊の形をした製氷皿に手を伸ばした。

「ついでに、ジュースとか凍らせたのあるけど食べる?」

この製氷皿はサツキが持ってきてくれた物だ。「なんかちょっと先生に似てない?」と楽しげに見せてくれたのだが、髭のないときの先生はただのイケメンなのでそうでもないと思う。

「レモン? リンゴ? コーヒー?」

「……。被疑者からの施しなんて受けるもんか……っ」

冷やせば落ち着くかと思ったが、やはり食べ物の恨みは深いようだ。

「タオルは受け取ったじゃん、それに冤罪だしさ。1個ずつあげるから」

ハイ、と取り出しやすくした製氷皿と、密閉袋に入れておいたぶんを差し出すと、素直に手に取り口に含んだので安心する。

「……。……、おいしい……」

「よかったなぁ!」

うぅぅ、誤魔化されてる……! と呻かれた。


***


 扉が開く音とともに、先生のファン(主に俺)は小走りで向かう。玄関から弱々しい独り言が漏れ聞こえた。

「……。……あつい」

「あれ、髭剃ったんですか? 荷物もちますよ、ッうわ重っ!」

なに入ってんですかコレ? と問うと、保冷材だよ……と先生は暑さにゲンナリした顔で述べながら、冷蔵庫に直行し、突っ込んでいた冷やしタオルを掴むと額に押し当てた。

「先生、お邪魔してまーす」

タオルから顔を上げたその人に、サツキは僅かに首を傾げた。

「初めまして……?」

「じゃないよ、先生だよ」

「新しい先生?」

「髭ないだけでいつもの先生だよ。今日暑いですもんね」

「……職質されるから街に下りるときは剃ることにしてる」

髭面だとどうも怪しくみえるらしい、と続き、俺は黙った。なにその悲しい理由。

 へぇびっくりしたー、と和やかに述べたサツキの顔を見て、先生は蚊の鳴くような声で、申し訳ない……と言った。


「……。……残ってた1粒……」

うっかり食べてしまって……と、謝罪会見ばりに深々と頭を下げた。

「! ほら! ほら俺じゃないって言ったろサッちゃん!」

「ほんとだとんだ誤解だった、ごめんね! でもまさか先生だなんて」

「昨日の夜、あんまり暑かったから氷齧ろうと思って、寝ぼけたみたいで」

コーヒー氷を食べたつもりがチョコの味がしてびっくりした、と申し訳なさそうに頭を掻いた。

「まさかそれで買い出しに?」

「よりによって最後の1つだったものだから」

楽しみに取っておいたんだろうと思って、と続き、その言葉にサツキは強く頷いた。

「眠気も吹き飛んだよ。買い直さないとと思って」

なのに起きたらこんなに快晴で絶望した、と続いたので俺たちは吹いてしまった。


「でも、久々に行き来して思ったけど。いつもこんな大変な思いをしてサツキさんは持ってきてくれてたんだな」

余計申し訳なかった、と言いながら先生は斜めに傾いだ。

 サツキは目を丸くした。

「? 私、登るのも下りるのも大変だと思ったことないですけど」

唖然とした先生と俺を見て、サツキはケロッとしていた。

「あっ、もちろん体力的にはたくさんあるよ、疲れたなぁって。でも、体を動かすのって楽しいでしょう?」

「汗かくじゃん」

「拭けばいいでしょ」

当然のように出てきたその言葉に、それはそうだけど、が喉につっかえて出ていかない。

「疲れるけど、山だと達成感があって苦にならないっていうか。クーラーボックスは荷物になるから、そのときは気になったけど」

それだけの話でしょ、と続き、先生と俺は顔を見合わせた。


 こうも分かり合えない人間がいるだろうか。いや、いない。


「……。ぜんぜんわからないやつだ」

「……まぁ、サツキさんは前向きな修行僧みたいなものだから……」

「こんなに綺麗なところにいるのに、散策しないほうがよっぽど変わってると思うけど」

最初から諦めずにすり寄っていた猫にサツキはようやく気が付き、優しく丁寧にその耳を揉み解すと、よいしょと抱き上げた。

「ほら、こんな近くに猫がいて撫ぜない人がいる?」

と問われ「いない」と首を振る。

「山も同じ。あるから登って好きだから登る」

山と猫はまったくの別物だろうと思う。

 それに、いまさら気づいたサツキが言っても説得力がない。当の猫は気にしていないのか、抱き上げられたまま目を瞑りすっかりご機嫌な顔をしていた。


 先生は今日買ったと思しき、まだ値札の貼られたクーラーボックスを引っ張ってきて、サツキに向けて開きやった。

「好みがわからなかったから同じものと、他のはお詫び。ダイチくんも」

「! 俺もいいんですか」

むしろどうぞ、と改めて首を垂れた。


「冤罪を被ったろうと思ったから、そのお詫び」

 名探偵かよ、先生。


fin.

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