第2話 オレ的にはナシかな。
高橋冬彦の本質について考えるきっかけはある日突然訪れた。
九月も半ばになったその日のこと、いつものように部活に励んでいた時だった。
五時半の休憩の時に友人の
「おにぎりだけ?」
同じくチームメイトの
「まだ暑いから弁当腐っちゃうじゃん」
そういえば冬場の練習の時彼は母親に昼用と夜用と弁当を二つ用意してもらっていた。夏場は文明の産物である保存料が使われたコンビニ食に頼っているということか。
そこまで考えて、翔ははっとした。
翔も毎日母親の手作り弁当を持参しているのだが、今日は午前中に空腹を感じて二時間目と三時間目の間に食べてしまったのだった。そのあと自分は弁当箱をどうしただろう。帰りに回収すればいいやとロッカーに突っ込んでそのままにしてはいないか。
通学リュックもスポーツバッグも見てみたが、案の定、弁当の空き箱は見つからなかった。教室前の廊下のロッカーの中に違いない。
このまま放置して明日になると母親に叱られる。
「オレ、教室棟に行ってくるわ」
休憩時間は十五分である。あと残り十分ある。後半の練習に入るまでにはグラウンドに戻ってこれるはずだ。
「行ってらっしゃい」
伊織も陽斗も深く考えずに見送ってくれた。
教室棟の廊下のロッカーに行くと、弁当箱はやはりそこにあった。翔はほっとした。汚れた弁当箱をこの高気温の中一晩放置することにならなくてよかった。
放課後の教室棟は静かだった。東にある特別棟から吹奏楽部の管楽器の音が、南にあるグラウンドからサッカー部の掛け声が聞こえてくる。気温は高くても空は確実に秋に移ろっていて、まだ五時台なのに日光はすでに斜めだった。
教室の中の時計を見る。あと五分くらいゆとりがある。トイレに寄っていくことにするか。
翔は何気なく教室と同じ階にある男子トイレに入った。何も考えていなかった。
男子トイレには先客がいた。
先客が、鏡の前で熱心に顔を見ている。
翔はその男子生徒を不審に思った。男子のトイレは小用なら一分もかからない。チャックをおろし、出し、チャックをあげ、手を洗って終わりだ。それが手を洗っている雰囲気でもないのにしげしげと鏡を眺めているのには違和感があった。
あえて声をかけず、足音を忍ばせて近づいた。
よく見ると、相手はあの高橋冬彦だった。帰宅部だと思っていたが、この時間まで校舎にいたらしい。珍しく眼鏡をはずしている。意外と整った横顔が見えた。
彼が手に持っているものを見た時、翔は目をまん丸にして硬直した。
唇用の何かだ。
ひび割れ防止の薬用リップクリームではなかった。筒状のオレンジの容器は女子が使う口紅のように見えた。ぽぽや翔の姉が使っているようなやつだ。
彼は鏡の前でそれを唇に塗っていた。
キャップを閉め、上下の唇を合わせてみる。小指の先で軽く端を整える。
翔にはそれが大人の女性のする仕草に見えた。
そのうち満足したのか、高橋はリップをポーチにしまった。ポーチ、というものを使うのも翔にとってはびっくりだ。それも女の子が化粧品や生理用品を入れるために使うものだ。黒一色のシンプルなポーチで、百均あたりでも入手できそうな代物だったが、同い年の男が持つものではない。
高橋がこちらを向いた。
目が合ってしまった。
見られているとは思っていなかったのだろう、向こうも硬直した。翔と一歩分距離を置いたところで立ち止まった。
二人は沈黙して見つめ合ってしまった。時間にしたらものの数秒のことだっただろうが、翔にはとても長い時間のように思われた。
「見た?」
高橋が震える声で言った。翔は弾かれたように頷いた。
「見た」
「何してんの?」
「変かな」
翔は少し戸惑った。
ただ、ただ、それは、同い年の男子がすべきことではない。
「オレ的にはナシかな」
これでもそれなりに言葉を選んだつもりだった。
しかし高橋は翔を突き飛ばすと猛烈な勢いで階段を駆け降りていった。
帰宅部の彼の腕力など野球で鍛えた翔の胸板にはなんということもなかった。けれど、翔は、失敗した、と思って自分で自分に傷ついた。こういう反応を示したということは、高橋はショックを受けたのだろう。少しちょっかいを出してやろうとは思っていたが、嫌いなわけではなかった。
翔はとぼとぼとした足取りで階段を降りた。高橋の姿はもうそこにはなかった。
グラウンドに戻ると、休憩時間の終わりから三分過ぎていた。監督にしこたま怒られてしまった。しかし高橋との時間はやはり五分くらいのことだったらしい。翔には数十分にも感じられたが、たったそれだけのことだった。
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