第17話
ミーナは、アタッシュケース一つを持って新しい部屋に来た。
無事就労ビザも下り、日本に長期滞在することができるようになった。対局でも勝ち進み、収入を得ることができた。彼女は浅草に新居を借りた。
東京の町はかつてとは大きく変化し、渋谷や新宿は下町となってさびれつつあった。中心は浅草周辺となり、商業施設や娯楽施設が次々と建設されている。つくばエクスプレスは水戸まで延伸され、TMエクスプレスと改称された。茨城のベッドタウン化が進み、多くの人々が毎朝浅草までやってくる。
会館に通うにも、浅草は便利だった。それだけではない。ミーナは、スカイツリーが気に入ったのである。
部屋からは、高くそびえたつ塔がよく見えた。かっこいい、と思った。
もはや、スカイツリーは日本一ではない。シブヤミラクルタワー、通称スペースタワーができたからだ。ただ、そちらはあまりミーナの好みではなかった。ただ高さだけを目指した、不格好なものに見えた。
怒りに任せて突き進んできたが、ふと気が付くと、彼女は初めて仕事をして、一人で暮らして、すべてを自分で決めていたのだった。
大人になっていく。
将棋を壊した後は、何をすればいいのだろうか。インドに帰って、プログラマーになろうか。新しい、ずっと壊されないゲームを作ろうか。
体が震えていた。ミーナはその事実に気が付いて、驚いた。
スマホが鳴る。知らない人から、メールが届いた。名前の欄には「京」と書かれていた。
「え……」
文面を見て、ミーナは絶句した。そしてしばらくしてから、拳で床を殴りつけた。
「ふざけんじゃ……ない!」
ミーナは、頭も床に付けた。歯ぎしりの音が、ミシミシと響き渡った。
「エラー……」
ミーナは、その姿を直視していた。目はうつろで、何を見ているのかわからない。声も震えていて、精気がない。しかし、命はしっかりとこの世にあると感じた。
「ずっと、そんな調子なの」
ベッドの傍らに座っているのは、鼻筋の通った若い美人だった。名前は京。
「将棋は、指せるんですか」
「どうなんだろ。頭の中は、わかんない」
「セイフ……」
不思議なつぶやきを繰り返しているのは、乙川洋、名人だった。実際には病欠により名人返上はほぼ決まっており、「元名人」と呼ぶにふさわしい存在だった。
「この人が何をしたか……知っていますか?」
「頭の中に機械を入れたこと?」
「ソフトも入れているはずです」
「そういうのは、よくわかんない。でも、変わっちゃったね。私の愛した人」
乙川には長年連れ添った妻がいるはずだったが、京という名前ではない。ただ、驚くようなことではなかった。この男に倫理観などというものは期待できないのだ、とミーナは心の中で吐き捨てた。
「なんで私を呼んだんですか」
「あきらめてほしいから」
「あきらめる?」
「あなたのお父さんと何かがあったらしいことは、聞いてた。わざわざ日本まで来たのは、復讐のためでしょ? でも、この人はもう、将棋を指せない。あなたが何をしても、たぶん響かない」
「……」
ミーナは、不思議と怒り以外の感情も抱き始めていた。確かに、この男はもう、将棋を指すことなどできないだろう。自業自得だ。だが、強くなろうという気持ちは理解できた。勝負の世界に足を踏み入れて、「強くなるためなら何でもする」という思いは、理解できるようになったのである。
許せるわけではない。そして、ミーナの目的は、乙川を困らせることなどではない。
「どう、あきらめてくれた?」
「私は、将棋を壊しに来ました。だから、あきらめはしない」
「……そう。ざんねん」
京は、うっすらと笑った。まるで、最初から予想していました、と言わんばかりに。
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