フラグメント
日比 樹
フラグメント
白い石の床は冷え冷えとして、まるで凍てつく湖のよう。
瑠璃色の夜空に散らばる無数の星は、誰かの壊れた心の破片。
青白く光る三日月は、誰かの心臓を突き刺すナイフになる。
血の雨がとげとげの緑の葉っぱに落ちて、クリスマスを彩るヒイラギの赤い実の出来上がり。
うわべけだけ綺麗に取り繕った、吐瀉物みたいにぐちゃぐちゃの世界。
けれど、キミと同じ箱の中から見詰める世界はいつだって綺麗だ。
その全てを見渡せる大きなガラス窓から視線を外し、部屋のほうを振り返る。
だだっ広い部屋の中心に敷かれた円形の、雪のように真白い絨毯。
その上に横たわる私の可愛いお人形。
傍まで歩いていって、そっと隣に腰を下ろす。
「可愛い……」
艶のある黒髪は、雨に濡れたカラスの羽みたい。ずっと眺めていても飽きない神秘的な色だ。
規則的な寝息を立てて無防備に眠っている姿を見下ろして、少し青白い滑らかな頬をそうっと撫でると「んん……」という気だるげな声と共に、瞼がぱちりと開いた。
まだ半分夢の中にいるようなとろんとした表情。居場所を確認するように瞳が揺らめいている様を、口元に笑みを浮かべてじっと見守る。
「——ルナさん?」
やがて、視線が定まった。
こちらを見つめ返すのは、私と同じ琥珀色。私があげた瑠璃色。
「僕、どのくらい寝ちゃってた……?」
可愛い、大好き、愛してるから、ずっとずっと傍にいて。
愛の言葉を口にするのは簡単だけど。
この感情にどれだけ深みがあったとしても、言葉にした瞬間に陳腐で俗世的なものへと成り下がる。
馬鹿の一つ覚えみたいに街中で繰り返し流れている、耳を穢す安っぽい流行曲のワンフレーズみたいだ。
私だけを見て、どこにもいかないで、ずっとずっと傍にいて、だなんて。
私は黙ったまま両手を広げ、体を起こしたキミを抱きしめた。
「……くすぐったいよ」
淡い抵抗の声を無視して細くてしなやかな髪に頬を埋める。
薄っぺらい制服の布越しに感じる肌のぬくもり。
どくんどくんと脈打つ心臓の音は、キミが生きていることを教えてくれる。
「可愛い……」
可愛い可愛い私のお人形。
私の——私の愛したお人形は、こんなにも柔らかくて壊れやすいものだったっけ。
突如押し寄せる不安感を振り払うように、抱きしめる腕に力を込めた。
「ルナさん、まるであの人みたいなこと言うんだね。あの人も、僕にいつもそうやって言った」
少し憂いを含んだキミの声が好きだ。
『あの人』のことを口にする時、キミは少し切ない色を滲ませる。
キミの言う『あの人』が誰かなんて知らないし知る気もない。嫉妬とか独占欲とか、それを自分が持ってるかどうかもよく分からないけど。ただ、綺麗なキミの顔に影がさす様を見る度、胸の高鳴りを覚えることだけは確かだった。
華やかで美しいだけのものに価値なんてない。
ひびの入ったガラス玉を眺めて亀裂の歪さをじっくりと観察し、次に誰かが触れたら壊れてしまうのではないかという危うさを指先を通して感じるとき。
いつかその失敗を冒すのは自分かもしれないと思うとゾクゾクする。——ううん、いつかなんて言わずにいっそ今すぐに。
この硬い石の床に叩きつけてみたら、飛び散る破片はどれくらい綺麗に踊るだろうか。
かき集めてあの瑠璃色の空にばら撒いてみたら、真っ暗な夜をもっともっともっと美しく飾ることができるだろうか。
「ねぇ、ルナさん」
耳元で聞こえる君の呼びかけに「なあに?」と優しく答えた。
「……そろそろ離して」
「どうして?」
「苦しいよ」
言われて、パッと体を離す。「ごめんね」と謝りながら、でもやはり名残惜しくてキミの姿をまじまじと見ていたら、キミは私の視線から逃げるように目を逸らした。
「——あ、雪だ」
ふいに君がそう言って窓のほうを指さした。
つられて窓の外へと視線を移すと、ふわふわと雪が舞っていた。
「そういえば、もうすぐクリスマスだね……」
部屋の片隅に置かれたティーテーブル。
その上には金のリボンがかけられた小さな箱がある。
「ねぇ、ルナさんは、サンタクロースに何かプレゼント貰えるなら何がいい?」
その問い掛けに、私は口元をふっと緩ませる。
傍に置きたいのはただ一つ。私が欲しいものはただ一つ。
「キミ」
「……え?」
一瞬、キミの表情が強張った。それを確認して、私は続きの言葉を紡いだ。
「……みたいに綺麗なお人形かな」
キミは数度目を瞬かせ、心の底から安心した様子でほっと息を吐いた。
「そっかぁ、ルナさんはお人形が好きなんだね」
「うん。昔からね、綺麗なお人形が大好きなの」
大好きだったお人形。
木漏れ日にとける琥珀色。星空を映した瑠璃色。冷たくて小さな手を握って、いつも一緒に遊んだよね。
「キミも綺麗。だから好き」
キミは何か言おうとして——しかし躊躇うように目を泳がせる。
おずおずと、私の反応を窺う双貌。左右色違いのそれは、一体どんな世界を見ているのだろう。私の姿はどんな風に映っているのだろう。
暫くの間、沈黙が空間を満たし、やがて決心したようにキミは口を開いた。
「……ルナさんは、そうやっていっつも僕のことを綺麗って言ってくれるけど……でも僕なんかより、ルナさんのほうがもっともっと綺麗だよ」
もうとっくに聞き飽きたはずの言葉。
だけど、どんな陳腐な言葉でも、キミが紡げば途端に価値あるものに変わる。
心地よく耳に流れ込んでくる蜜のような甘美な響きをゆっくりと味わい、幸福感に酔いしれる。
出来損ないの私でも、キミは『綺麗』だと言ってくれる。私の瞳は蒼くないけれど、キミは『お人形みたい』だと言ってくれる。
でも本当は私も欲しい。キミと同じものが欲しい。
「こんなこと言ったら笑われるかもしれないけど……ルナさんに初めて声かけられたとき、お人形さんが動いてるのかと思って、僕、すごくびっくりしたんだよ」
「全然知らない女に、突然自分の名前を呼ばれたからじゃなくて?」
「え? ああ、うん。それもそうだったけど……でもそんなの気にならないくらい驚きの方が大きかったかな……」
そう、あの日。ごみ溜めみたいな雑踏の中で、私はキミを見つけた。
私たちの絡繰糸はぐしゃぐしゃに絡んで、いくつもの結び目に阻まれて、だけど切れることなくずっとずっと繋がっていたのだ。
「僕はね、ルナさんといるとね、すごく幸せなんだ」
「私もだよ」
私がそう言って微笑んで見せると、キミは少し頬を赤らめて何かを思い出すように視線を宙へ向ける。
「ルナさんは、いつも僕だけを見てくれるでしょ? 僕はそれが、すごく嬉しい。だって他の
少し頬を紅潮させたキミは、血の通った人間みたい。
「……って、ごめんね。他の
「いいよ、もっと聞かせて」
私といる時に他の
だってその話をしている時のキミは、世界で一番可哀想で、世界で一番綺麗だから。
「ルナさんは本当に優しいね」
キミの言葉を頭の中で反芻する。
本当に私が優しい人に見えるのなら、その目は節穴だから——もう要らないかもしれないね?
なんて言ったら、キミはどんな顔をするんだろう。
思わず口元が緩んだ私を、色違いの瞳がじぃっと見つめる。
「……そうやって少し笑ったとき、本当にアンティークのお人形さんみたい」
キミが真に言いたいことは何なのか、手に取るように分かる。
でも私はあえて続く言葉を待った。
危ないって分かっていても、棘には触れたくなるものでしょう——ほら、待っててあげるから。その唇で、その声で、言ってみて。
キミはごくりと息を呑んで、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「ルナさん……本当に生きてるんだよね?」
棘に触れた、キミの震える指先。柔らかい皮膚を切り裂いて、キミの体に亀裂が入る。だけどキミは気付かない。たくさんたくさん傷つけられて、痛みすら分からなくった可哀想なお人形。あとどのくらいで壊れるのか、その身を以て試してくれるの。
「……どうしてかな。ルナさんといたら、僕、すごく安心するんだ。僕とルナさんはずっと昔から、一緒だったんじゃないかって……」
変なこと言ってごめんね、とキミは困ったように笑って、再び視線を窓の外へと戻した。
しんしんと降り続く純白の雪。綺麗だ、と言う人々の口にいっぱいいっぱい詰め込んであげたい。
不純物をたくさん含んだ汚い雪。地面で踏まれて溶けてぐちゃぐちゃの泥水になる。一緒にそのお水を飲み干してみようか。キミとならきっとどんな新鮮なジュースよりも美味しいはずだ。
「雪、きっと積もるね。ホワイトクリスマス、すごく楽しみ。ルナさんがサンタクロースにお人形貰えるように、僕もお願いしておくね」
「ううん、要らない」
「——え?」
クリスマスが近づくと、決まって思い出す光景がある。
大きなもみの木。どこまでも続く一面の雪景色。真っ赤な炎が全てを焼き尽くす。溶けて形無くなるまで、何時間も眺めていた。
「キミがいれば、他には何も要らない」
眼球が焼ける様な感覚がして、ぎゅっと目を閉じた。
「……ど、どうしたの? ご……ごめんねっ、もしかして僕、なにかルナさんの気に障るようなこと言っちゃった……?」
慌てた声が聞こえて再び目を開けると、眉尻を下げて心配そうに私の顔を覗き込むキミの姿。その色違いの瞳には当たり前のように私の姿が映っている。ひどくほっとして「ごめんね、何でもないよ」と呟いた。
「本当……? それならいいんだけど……」
キミは人の顔色に敏感で、自分が人を傷つけてしまうことを極端に恐れている。
もう痛みすら感じない程に、一番傷付いているのはキミ自身のくせに。
「そうだ。ルナさん手、出して?」
言われた通りに手の平を差し出すと、飴玉が一つ載せられた。
「これ、僕のお気に入りの飴玉。ルナさんも気に入ってくれたら良んだけど……」
目だけを動かして見上げると、キミのオッドアイが優しく弧を描いた。
——右は琥珀。左は瑠璃。うん、すごく可愛い。私とずっと一緒だよ。
頭の中に響くのは、あの日の自分の声だ。込み上げてきた感情に震える指先で透明の包を開く。艶やかな琥珀色の球体。口の中へ入れると甘ったるさが舌に広がって、途端に吐き気が込み上げてくる。こんな色も、甘いものも、反吐が出るほど大嫌いだ。
「これ食べる時はね、いつもルナさんのこと思い出すんだよ。ルナさんの瞳みたいに綺麗な色してるでしょ?」
キミは大好きな飴玉を、私の瞳と同じ色だと言う。それはとても残酷なことだとキミは知らない。
私がばら撒いた破片の星屑は、もうすぐキミの瞳の中に、鋭く尖って落ちてくるのに。
「今日は一個しか持ってないんだけど、今度はたくさんあげる」
へにゃっとした笑顔は淡い月明かりのように滲んで、じんわりと私の心に染み込んでくる。可愛い可愛い私のお人形。
「いいよ、要らない。何も要らない」
キミ以外のものは、何も要らない。
私がずっと大事にしてあげるから、キミはどこにも行かなくていい。
私はもう一度両手を広げてキミを包み込む。
ぴたりとくっつけた体が温かい。ゆっくり打つ鼓動は、どうやらキミの中から聞こえてきているようだ。
「大好き」
笑えるほどにくだらない、愛の言葉を口にする。
琥珀色の黄昏を、瑠璃色の夜空を二人で眺める永い時間が欲しい。
箱の中に一緒にしまって、ずっとずっと大切に。今度こそ、汚れないように傷付かないように。
だけど——ねぇ、キミを思い切り壊したら、砕け散る破片はどれほど綺麗だろうって思うんだ。
「私だけを見て。どこにも行かないで。ずっとずっと傍にいてね」
抱きしめたキミの肩越し。
瑠璃色の夜空を眺めながら、舌の上で踊らせていた飴玉を粉々に噛み砕いた。
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