アンコールはいらない
弥生奈々子
アンコールいらない
「人生は椅子取りゲームのようなものだ」
僕に友人と称せる関係性の人間がかろうじて存在していた学生時代。その時の友人の言葉だった。当時中学生だった僕は、何も考えず彼の言葉を痛々しいものだと、一笑に付した。数少ない友達に対してそのような扱いをするから、今まさに一人ぼっちなのだと指摘されると、反論の余地がないが、所詮過去の愚行である。後悔しても詮無きことであろう。後悔など先にも立たないし、後にも絶たない。全くもって役立たずだ――とまあ、社会からドロップアウトした後に気付いたところで、こんな理解は単なるコンプレックスだろうか。
「人生は椅子取りゲームのようなものだ」
大人になってから反駁すると、なるほど若人の戯言と言って斬って捨てるにはもったいない。的を得ている。しかしそれと同時に、やはりどこか人生を甘いものと捉えるミスが存在する。誤っている。人生と椅子取りゲームはやはり異なる。決定的に違う。「的を得る」と「的を射る」くらい。
確かに誰もが自分の椅子を求めていて、たとえ他人を、若しくは友人でさえ、押しのけてでも自らがそこに座ろうとする。居座ろうとする。そこは似ている。なかでも、全員分の椅子が用意されていないという点はそっくりだ。
しかしやはり決定的に違っている。
間違っている。
人生は椅子取りゲームではないし、椅子取りゲームは人生ではない。どこにも座れなくても、ゲームオーバーにはならないのだから。座り損ねたところでゲームは終わらない。立たされたまま。成功への道が断たれたまま。ゲームは続行する。とうの昔に終わったはずなのに終われない絶対的矛盾。負け組に許されるのは、椅子に座った勝者をただ傍観することだけ。眺めるだけ。
どうして僕はあそこに居ないのだろう。
どうして僕はあそこに行けないのだろう。
どうして――
「あっつ……」
僕の口から洩れた声が、セミの声にかき消される。早いものでもう夏だ。というか年々春と秋が少なくなってきてないか。地球という名の運営が、明らかに春と秋の排出率を絞っている。
夏と言えば海に祭りに、青春の季節といっても過言ではないだろう。青春コンプをバチバチに抱えている僕としては、あまり得意な季節ではない。夏ってなんで街も人も活発になるんだろうか……。ついていけなくて気が滅入る。一生梅雨でよかったな。
そんなことを考えながら、僕は首筋を伝う汗を拭う。いくら楽しみにしているゲームの発売日だからって、調子に乗って外に出るんじゃなかった。爬虫類ペットのケージ並に寒暖差がない家で一年を過ごす引きこもりには、真夏の気温は地獄そのものだ。
暑いし汗でベタベタするし、イライラしてきた。目の前でキラキラとした笑顔を浮かべて、遊んでいる小学生が無性に妬ましい。いいなあ。将来に憂いとかないんだろうな。子供の頃は大人になれば世界がどう見えるんだろうと、想いを馳せていたものだけれど、何も変わらなかった。何なら視力が落ちて霞んでみえる。
もう全部嫌になってきた。何か大きな事件とか起こらないかな。そうそう、こんな風にトラックとか突っ込んできて。
強烈な現実によって妄想の世界から引きはがされた。トラックが一台、子供達に向かって猛スピードで突っ込んできていたのだ。ゲームで鍛えられた動体視力は、運転手がハンドルに突っ伏しているのを見逃さなかった。そこからの行動は光すら置いていくほどに、俊敏であった。
自分で自分がわからない。
常日頃、虚無の時間をなんとか生まぬようやっていた、性格診断の積み重ね。それらの結果を総括すると、この状況で自分がどうするかくらい、僕自身が一番わかっていた。痛感していた。
左利きに憧れて、AB型に憧れて、RH-に憧れて、天才に憧れて――主人公に憧れるだけの、小物だったはずだ。
なのに今、こうして子供達の方へ。トラックの方へ、向かって走っている自分が不思議でならない。
いつからこんなにバカな男になったのだろうか。インターネットに蔓延る黙祷や同情に、一線ひいて冷笑していたじゃないか。ヒーローへの憧れなど、小学生の時に妄想の世界でテロリストに負けてから捨てたはずなのに。
『俺は助けに行く』
そんな言葉が脳裏に浮かんだ。いや、これは僕の言葉じゃない。記憶だ。椅子取りゲームでまだ負けていなかったあの時の――小学五年生の時の。右利きで、O型で、RH+で。どこまでも凡庸で――それでも主人公だったあの時の記憶。
僕は子供達の襟首を掴んで後ろに引っ張った。子供達はトラックの進路外へと転がっていく。
怪我をしていないだろうか。そう思った瞬間、目の前にはトラックが迫っていた。
凄まじい衝撃とともに、浮遊感を覚える。跳ね飛ばされたのだろう。しかし、まだ生きている。お父さん、お母さん。丈夫に産んでくれてありがとう。両親への感謝も束の間、己が頭から落下していることを知覚する。
マーフィーの法則だったか。つまり、今僕が頭部から落下しているのは、会ったことすらないマーフィーさんのせいとなる。
おのれマーフィー。
ここで僕の意識は暗転した。
「つまりこれって、そういうことなんだろうな」
僕こと、草薙陽彩は誰に言うでもなく、独り言ちた。自分で言うのもなんだが、特徴のない男である。少し長めの野暮ったい毛髪に、平均的な身長。体格も俗に言う「もやし」をイメージして頂けるとその通りになるだろう。要は群衆に紛れると、一瞬で見失う凡庸な見た目である。
しかし今現在、僕を眺める人々の視線には不可解な色が濃く出ていた。どうしたことだろう。事故のお陰でいい感じにイケメンになったのだろうか。流石にその楽観視は的外れだろう。桁外れに的外れで、間違いなく間違いだ。
そもそも、奇異の目を向けられる現状は、当然と言えば当然なのだ。そんなことで、一々目を剝いていられない。なんせ、僕を眺める彼ら彼女ら、森羅万象の中には、一人として黒髪のものなどいないのだから。なんなら、パーカーを着用している人すらいない。
人々の頭髪は銀髪や緑髪、はたまた赤髪など様々で、格好は鎧やらローブやら、この状況が「それ」であることは明白であった。
「どうやら僕は異世界転生したみたいだな」
僕が得心していると、目の前はドラゴンが滑空していった。
この僕、草薙陽彩は、贔屓目なしで称すると「現代社会が生んだ化物」であった。お米を洗ってと言われて、洗剤で洗っちゃうタイプだ――ただ、思うんだがこの今どきの若者は、と言いたげなあるある話は、そもそも洗ってという振りが卑劣にも思える。そこは研いでだろうに。
閑話休題。
僕は学生の頃、自分が社会で生きていける姿がどうしても思い浮かばなくて。大人になれないんじゃないかと戦々恐々としていた。しかし、僕の思惑に反して、大人になった自分が想像できないのに、想像できないまま大人になることが出来た。否、なってしまった。高度に成長した社会は僕のような愚者に、途轍もなく甘かったのだ。バブみの権化であった。たらちねだ。どれだけ不安でも時間は進んでいくし、社会は守ってくれる。そう理解した僕は、時間と同様止まることが出来なかった。
国民の税金を食い潰し、毎日が日曜日であった。毎日が日曜日。これを聞いて羨望の眼差しを向けるなら、それは短慮であると言わざるを得ない。毎日が日曜日というのはイコールで、月曜日を恐れて床に就き続けることに他ならない。一度でも社会の歯車を経験したものならば、この恐ろしさがわからぬとは口が裂けても言えまい。月曜日が憂鬱だったことはない――そう言えるものだけ僕に石を投げなさい。
それで今は異世界転生か。我ながら無軌道な人生だよな。本当に。改めて状況確認しても、その支離滅裂さに僕はため息をつく。今頃幸せが蜘蛛の子散らして逃げていることだろう。
しかし悪いことばかりではない。人生もそろそろ詰みの状況に陥りかけていたことだし、ここは僥倖と捉えて前を向こう。僕の数少ない知識によると、異世界転生には「俺TUEEEE」が付き物で憑き物だ。それを確認するには……。
「ギルドだな」
折角の異世界転生だ。色々やってみよう。まずは自分の能力確認と仲間探しだ。
波風立てずに目標を立てねば。
どうして僕は、地面にこうして打ち倒されているんだろうか。堅い地べたの感触を身体全体で味わいながら、ぼんやりとそんなことを思う。口の中は砂利と血がマリアージュを起こして気持ち悪い。とうに両手、いや足の指を使っても数えきれないほど殴られた全身は、火だるまにされていると錯覚するほどに熱を持っている。
思考もまとまらず、強烈な痛みはどう足掻いても現実のものなのに、どこか夢現で、晴れ上がった右目は視界を塞いでいた。
満身創痍のボロ雑巾。
僕が何をしたというのだろうか。
「おい変な格好をした兄ちゃん。痛い目にあいたくなければ金を出しな」
路地裏で仮面を被った薄汚い集団に取り囲まれた時、僕の心は高揚していた。強制ミッションが始まった。そう思ったのだ。人生は椅子取りゲームではない、なんて高説宣っておきながら、今の状況をゲームのように考えていたのだ。
「かかって来いよ経験値ども。僕が残す伝説の礎になること、光栄に思うがいい」
チート能力を発揮するチュートリアル。その程度のものだと認識していた僕は、当然荷物を明け渡すことなく、チンピラ共に啖呵を切っていた。今にして思えばバカ丸出しである。
「なんだこいつ? 頭おかしいんじゃねえのか」
「まあ、いいさ。取り敢えず死んどけや!」
リーダー格の男が一歩踏み込み、拳を振りかぶる。
そうして、今に至るというわけだ。
しかしそろそろ体力の限界だ。第二部完。草薙陽彩さんの次回作にご期待ください。
「――――――ッ!」
襲い来る微睡みに抵抗することをやめ、意識を手放そうとしたその刹那、轟音が鳴り響いた。なんとか身を起こし、音の方向に視線をやると、そこには悍ましき「化物」がいた。
「…………」
言葉を失った。そこに居たのは間違いなく人型の何かだったのだが、そのシルエットは明らかに人間のそれではなかったからだ。
全長二メートルほどだろうか。二足歩行をしている。
体表は黒い鱗で覆われており、腕にあたる部位には巨大で強大なかぎ爪が備わっている。顔つきは爬虫類を連想させ、鼻腔は大きく裂けていて、そこからは二本の長い牙が覗いている。また、頭部からは長い角が生えていた。
明らかに人間とは一線を画する存在。
そいつは、僕になんて目もくれず、チンピラへと歩みを進める。
「に、逃げろー!」
「撤収! 撤収!」
チンピラ共は、慌てふためき、蜘蛛の子を散らすように大通りへと逃げ去っていく。ただ一人を除いては。細身の男が壁を背にしてへたり込んでいた。どうやら腰を抜かしているようだ。
あいつには悪いが、僕も逃げることにしよう。這い這いになって僕は化物に背を向ける。
それでいいのだろうか。確かにあいつらは僕をボコボコにした。控えめに言って社会の塵芥と言っても差し支えない奴らだ。しかも眼前に居るのは明らかに、敵うはずがない化物である。ここは奴を囮に逃げるのが最適解のはずなのだ。それはわかっている。理解している。でも僕が生前憧れたあいつらは、ここで逃げないはずだ。良い奴も嫌な奴も、困ってる奴なら十把一絡げに全員助ける。最後に勝つから正義なのだ。正しい奴はそう言うけれど、僕は否定する。最後まで他人を助けることを諦めないからヒーローなのだ。折角思い出したのに、また逃げていいのだろうか。
もう僕の中で答えは決まっていた。
こんな逡巡、全くもって無意味だ。
『俺は――いや、僕は助けに行く』
腕が震える。地面を支えに立ち上がろうにも、身体がいうことを利かない。なんとか転がって、肩を支点に上体を起こす。あとは強引に、路地の柱に縋り付くようにしながら立ち上がった。
実力差は歴然で、勝敗なんて一目瞭然であった。勝ち目など万に一つもなく、一矢報いることすら億に一つもない。
関係ない。そう思った。挑むことをやめて、戦う人を笑う人生はもう沢山だった。過去の傷を大義名分に、ひたすら逃げ続けて、これ以上傷つくと死んでしまうと嘯いて挑戦することを避け続ける過去の自分に戻ることが何よりも辛かった。だから――だから、転がる角材を握力の限り握り込んで構える。見る人によっては武器ではなく杖と見紛うほど、フラフラのその身体で、目線だけは化物を見据える。
「相手はこっちだぞ化物!」
残り少ない体力を振り絞り、こちらに注意を向けさせる。叫ぶだけで、倒れそうになる己の現状に少し笑ってしまう。敵わないなんて自明の理で、叶わないなど火を見るよりも明らか。もとより、他人に劣る自分が根性だけで成功を掴みとれるなどとは、思っていない。驕っていない。
でも逃げる選択肢だけは、もはや残っていなかった。早いとはお世辞にも言えない、そんな速度で、転げるように突貫して、角材を力の限り振り切る。
刹那――角材は光輝き、化物いや、空間もろとも、真っ二つに切り裂いた。
「………………」
時間で言えば須臾。
体感で言えば永遠の静寂が訪れる。
世界がズレたと錯覚する光景の後、世界は音を取り戻し、周りには衝撃波が荒れ狂う。もちろん、その現象を起こした僕が耐え切れるはずもなく、脆弱な足腰の抵抗空しく倒れてしまう。
「大丈夫か?」
チンピラが駆け寄って、声をかけてくる。元はと言えば、お前のリーダーのせいなんだけどな。と、考えつつそちらへ目をやる。
先ほどの衝撃で仮面が飛んだのだろうか。そいつは仮面をつけていない。そこに立っていたのは女性であった。勝手に男性だと決めつけていたので、虚を突かれてしまう。
どの角度から投げめても綺麗、という言葉で表現の幅を限定するのが勿体ないくらいの容姿だ。通った鼻筋や触れると指先が呑まれて音もなく溶けていきそうな、艶のある金髪も勿論魅力的であるが、極めつけは何と言っても、何者をも射殺しそうな三白眼。これに尽きる。
こんな美女に心配されて、やはり異世界は最高だ。
「人生は椅子取りゲームのようなものだ」
やはりこの言葉は間違いだった。あのゲームに敗者復活など存在しないのだから。
こうして僕の最高で最強な人生はリスタートしたのだった。
壁や床、調度に至るまで真っ白な部屋の中心にあるベッド上で、青年は横臥していた。周囲では初老の男性と中年女性が神妙な面持ちで彼を見つめており、室内には連続的な電子音が鳴り響くのみだ。
少しして女は口を開く。
「なんとかなりませんか」
「なんとかなる筈なんですけどね。飛ばされた先が街路樹でラッキーでした。痕は残っていますが、もう完治しているはずです」
「じゃあどうして……」
「本人から生きる意志を感じないんです。あとは気持ちの問題だけ……だと思うんですけれど、何故か……」
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