右手と眼

泡沫の桜

右手と眼 

 ある日の午後、仕事から帰る途中、電車にて、男は右手の人差し指でスマホを操作していた。ふと、人差し指の付け根がズキリと痛んだ。なんのことはない。気のせいだろうと考えた。


 にも関わらず、手はグーパーグーパーと開け閉めを繰り返している。手が拳から開くたびに、小指の関節はゴキゴキ言い、人差し指の付け根はずくりと痛む。変だから、やめようと思っても、手は開け閉めを繰り返す。


 はて、私は今、右手をグーパーしたくないと思っているのに、なぜ、この私の手はグーパーグーパーと繰り返しているのだ。意味もなく、空気を押し返して、関節を鳴らして、、痛みを感じるのだから、この手の神経は私の脳と直結しているはずなのに、なぜ、この手は私の心に反するのだ。この右手は私のものなのに、私のものではないのか、


 ふと、考えてみると、たしかにこの右手は私のものではないのかもしれない。私の右手はもっと有能であったはず。もっと強く握れたはずであるのに。


 そして、この右手の姿も奇妙である。全体的に赤、白、黄が混ざって、まだら模様をしていて、時々緑、青、紫の線が入っている。大きな縫い目が横に2本、縦に1本、そして、その周りにも小さいカッターでスッと入れたような切れ込みが何本もある。私の右手はこんなにも、歪なものだったか?否、私の手は綺麗なはずである。きっと何かおかしいんだ。絶対。医者に見せた方がいいだろう。



 「今日はどのような御用件で」

 目の前の医者が言う。眼鏡をして、白衣を着ている医者は白髪混じりの髪を撫でつけながら、言った。アルコールと薬の匂いがツーンと鼻につく。


「この右手は、私の物なのでしょうか?」

男は言った。右手はいまだにグーパーグーパーと開け閉めをしていた。

「はて?どういうことでしょうか?」

「私も何か妙だなと感じているのです。しかし、先日、人差し指の付け根がズキリと痛んだ時から、私の手は私の命令に従わないのです。そこから思うのです。この右手はたしかに私の体にくっ付いてはいる。痛みも感じるので、神経も通っているはず。なのに、勝手に動く。これはもう私のものでありながら、私のものでないようだ、、一体、私の本当の右手はどこに行ってしまったのでしょうか?」

医者は深くため息をついた。その皺だった、茶色の顔と一般に呼ばれる茶色の場所にある二つの濡れた感じがある茶色の目玉がぐるりんと一周、右上左下と回って、私を正面に据えた。そして、なんだか呆れた感じで言った。

「あのですね、一応、私、医者と言っても、ある意味、科学者の端くれだから言いますけども、」

 男は座っている身を前に傾斜させた。目の前の目を閉じた医者が、何か治療法なり、答えなりを教えてくれのではないかと。


 しかし、医者が開けたのは口ではなく眼だった。手で瞼を押さえ、見開かせ、手を目の中に突っ込んだ。


 ころん。医者の手のひらには黒の円の周りに茶色い太い輪があり、赤く細くギザギザな不規則に分裂したり結合したりした筋が通っている球体があるのみだった。


 男がそれが医者の眼だと理解するには少々時間がかかったようだ。


「それはあなたの眼ですよね」

「少々グロテスクようだったね。そう、これは私の眼だ。目玉だ。と言っても私のではない、、、ふ、どういうことだとあなたの顔にはてなマークが浮かんでるね。なに、私の顔に空いた穴の中を覗き込んでみるといい。」

 男は恐る恐る、身を乗り出して、医者の穴の中を覗き込んだ。途端にヒッと小さく叫べば、後ろに慄いた。


 医者の穴の中には原色の電線が張り巡らされ、大小さまざまな金属の棒や板が組み合わさっていた。


 医者の中身は機械だった。医者はロボット、否、テクノロジーが発展したこの世界ではアンドロイドという物であった。


「さぞ、驚いただろう。」

 医者は言った。急に、医者の声は音声に聞こえ、口の動きは不自然に見えた。手の動きはどこかぎこちなさがあるようにも思えたし、なんなら医者の存在自体が異質のように思えた。否、男は男自身の存在が場違いのように思えた。


「何をそんなに難しい顔をしているのだ。私はいるけど、私の体の全ては、誰の物ではなく、ただそこにあるだけなんだよ。こんなふうにね。」

 そう言って、医者は手のひらの目玉をぐしゃりと潰した。中から、小さなネジがポロリとこぼれ落ちた。医者は潰れた目玉をゴミ箱に放り込んで、新しい目玉を引き出しから取り出した。

「今、目玉はなくなった。だけどまた新しく作られた物がある。これが世界の本質だよ。」


 何を言っているのだろうかと、男は首を傾げた。ふと、自分の右手を見る。この右手の動きは人間的であるはず。であるはずなのに、ロボットのようだ。なぜだろう。なぜなんだ。どこか不自然さが残る。 


 不自然。自然。不自然。自然。


 繰り返しこの2つが頭の中を回る。文字も思い浮かぶが、ぐるぐると回るこの二つの文字が実は「ふしぜん」、「しぜん」と読め、それが何を意味するのかさえ、男には不安に思えた。字の形がぐるぐる変形し、ぐにゃりと折れ曲がり、男の頭の中でこの形はもはや意味を成していなかった。


「おや、どうやら、頭の中でショートを起こしたようだね。まあ、そりゃあ、自分が、実は、アンドロイドだ、なんて知ったら、やはり、頭の中の情報網が処理し切れないのだろう。」


 医者は手のひらの新しい目玉を穴の中に戻して、愉快そうに笑った。


「私も科学者の端くれなのでね、隠された世界の本質は知っているのさ。右手の指の痛みはただ潤滑油が足りなかったのか、ヒビが入ったりしただけだろう。何にしても、この私がすぐ取り替えてあげよう。」


 そして、医者は席を立って、部屋の奥に引っ込んだ。


 

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