11  今夜は土砂降り

 炊きあがったごはんの匂いが僕の胃をくすぐる。ごちそうの匂いだと身体が知っている。は消えたのではなく、どこか奥底に潜んでいるだけだ。僕が思い出せないだけだ。死の恐怖を思い出す必要なんかない、隼人はやとはそう決めつけた。


 その記憶のもっと先、死の以前、そこには僕の家族がいた。恋人もいたらしい。つまりがいて、僕がなんたるかがそこにある。


『でもさ、それを思い出してもさ、バンちゃん、取り戻せるわけではないんだよ。むしろ辛いだけだよ』


 隼人はそう言うけれど、思い出せれば僕の不安が少しは軽減される気がした。もとは人だと言われてもまったく僕には自覚がなく、今は吸血鬼だと言われても隼人以外の血の味を僕は知らない。僕はいったい自分が何者か、揺れて定まることがない。


 肉が焼かれる匂いがし、甘いあぶらが火にあぶられる匂いの後は、甘辛いタレがかすかに焦げる匂いが続く。料理は見た目も大事だが、一番食欲をそそるのはきっと匂いだ。


 陶器のぶつかり合う音が聞こえ、そうさんが白飯をドンブリによそい始める。するとモゴモゴと隼人が動いた。ピヨッと頭を持ち上げる。


「奏ちゃん、ボク、刻み海苔、たっぷりね。焼き鳥もタレもたっぷりね」

判っているよ、と奏さんが笑う。


「焼き鳥丼、こっちに持ってきてね。テレビを見る時間になっちゃった」


 隼人が奏さんに甘える。食事の時はテレビを見るなと言う奏さんが『判ったよ』と答えている。ふと僕は不思議に思う。なんで今日の奏さんは、こんなに隼人に甘いのだろう。コーヒーに砂糖五杯を許し、テレビを見ながらの食事も許した。まだ僕に話していない、そう思えて仕方ない。


 よいしょ、と隼人が座り直し、テレビをつける。テレビの時間と隼人は言ったけれど、そんなのうちでは決まっていない。時刻は正午だ。そうか、隼人はニュースが見たいんだ。


『警察は今朝未明に八王子の国道を通り抜けた何者かの正体を、全力を挙げて捜査中です』


アナウンサーが早口でまくし立てた。奏さんのことだ。画面は誰かがスマホで撮ったものか、あるいはカーナビに残されたものか。アナウンサーはさらに続ける。


『ごらんの通り、巨大ながほかの車を避け、八王子方面に向かっています、高さ四メートルほどでしょうか。かなりスピードが出ています。器用なもんですね、ちゃんと電線を回避しています――あっ、ここですね、八王子駅まであと千五百メートルといった地点です。急に霧が立ち込めて見えなくなりました。この時刻、このあたり一帯が突然の濃霧に閉ざされた模様です』


 濃霧は隼人が出した目晦めくらまし、『ハヤブサの目』に入るところを人目から守った。ただの霧じゃないから、隠したものを人間に見られる心配はない。


 そこから先、事務所に向かうには国道をれた道を通る。あんな時間ならその道は人通りも車の通りもパッタリ途絶える。人家ばかりのこのあたり、万が一誰かが窓の外を見ていてもいいように事務所前まで濃霧に隠れ、到着したらすぐに奏さんもひとなりに戻った。そして事務所に全員が入ってから目晦ましを霧散させ、一番隠したかった場所がどこか、人間には判らないようにした……きっとそうだ。


 動画が切り替わる。こちらは明らかにスマホで撮影したと判る。車と車の間を走り抜けるオオカミの姿だった。みちるだ。


『さらに視聴者からの投稿です。巨大な人のようなものを大きな犬が追いかけていたようです。併せて警察が捜査しています』

いったん言葉を切ってアナウンサーが笑顔に変わる。話題がほかに移るのだろう。


 奏さんがドンブリを二つ、盆に乗せて運んできた。テーブルに置くと奏さんはキッチンに戻った。満と朔にも同じものを運ぶためだ。


 隼人が自分の前に置かれたドンブリを僕のドンブリと見比べた。

「奏ちゃん! ボクとバンちゃん、おんなじじゃん!」


 例によって隼人が苦情を言い始める。なんで僕と一緒じゃ嫌なんだよ? 奏さんは満たちへ運ぶのが忙しいのか返事がない。仕方なく、僕は自分のドンブリから焼き鳥を一切れ、隼人のドンブリに移した。奏さん、僕には箸、隼人にはスプーンをつけて寄越している。


「ピヨッ! バンちゃん、大好き!」

ちょっとだけ僕に抱き着いてから、隼人がスプーンで食べ始めた。これくらいで機嫌が直るのだから安いものか、と僕は思う。そう、いつも思う。いつも……


『次も八王子の話題です』

つけっぱなしのテレビでアナウンサーが話し続けている。幾つめかの話題だ。


『八王子駅周辺では、一昨日、道に赤黒い液体が撒かれるという騒ぎがあったばかりですが、今度は鳥の羽根が大量に放棄されるという騒ぎがありました』


 画面がどことなく偉そうなおじさんを映し出す。テロップには『鳥類学者』と出た。大学の教授らしい。その人とライブで繋げている。


『ハヤブサの羽根に間違いないですね』

思わず隼人を見ると、食べるのに夢中でテレビには関心がないようだ。


『先生、この羽根、昨夜の濃霧と同じ範囲にばら撒かれている状態で発見されているんですが、濃霧との関係は考えられますか?』

『霧とハヤブサが関係するはずもない、無関係ですな』


『それにしても、これほど大量のハヤブサの羽根、どこから来たのでしょう?』

『大量と言っても切り刻まれている……もとが何羽分か、どこの部位なのかは、もはや判らないでしょう』


 隼人? 隼人? おまえ、何をした? 八王子でハヤブサの羽根、隼人、おまえの羽根なんじゃないのか?


「バン、どうした? さっさと食っちゃえ」

奏さんがお茶を持ってきて隼人と僕の前に置いた。


「どうせ隼人はまた眠る――そしたら話してやるよ」

奏さんはダイニングに戻っていった。隼人はそんな奏さんをチラリと見たが何も言わずにお茶をすすって、満足そうに笑んだ。


 そしてテレビは天気予報に変わる。

「わぁーい、今日のお姉さん、とっても美人」

隼人が嬉しそうな顔をする。つまり予報は当たるということか。


『この後、天気は急速に崩れ夕刻には雨が降り出すでしょう。雨は大降りとなり、明日昼頃までは降り続く見込みです』


うん、うん、と隼人がうなずく。

「雨が降るとトプトプちゃんは出てこられないから今夜はボクたちもお休み――で、ボク、もう眠い。起こさないでね。奥羽おくうちゃんが来ても起こさないでね」


「奥羽さんが来るの?」

「うーーん、来るような気がする。すぐそこを、人形ひとなりで歩いてる奥羽ちゃんを感じるよ。多分ここに来るつもり――じゃあね、バンちゃん、オヤスミ。もう背中、要らないから。ボク、一人で眠りたいんだ」


 あくびを噛み殺しながら隼人は自室に戻っていく。


 隼人、もう僕は、お役御免やくごめんってことなんだね――

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