8  切り落とされた腕

 眠ろうと思って目を閉じる。つーーーっと涙が頬を伝い、濡らしていく。


 どうせ僕は生きていない。呼吸も鼓動も身体を巡る血液も、しているだけだ。だけど涙は装備したっけ? 吸血鬼なのだから鬼の仲間、血も涙もないはずじゃなかった?


 あぁ、そうか。涙は血液で作られる。体内を循環する血液が勝手に涙を作る。だから僕は泣いているんだ。それならいっそ、呼吸も鼓動も止めてしまおう。きっとそのほうが静かに眠れる。


 巡ることをやめた体内の血液は、やがて凝固するだろう。循環不能になってしまえば、目覚める事もなくなるはずだ。でも、本当にそうなのかな? そうなってもやっぱり僕は目が覚めて、孤独に悩み続けるのかな?


 誰かが僕の部屋に入ってきた気配がする。コンコンとクローゼットをノックする。僕はクローゼットの扉に触れて、木製のクローゼットを石に変えた。


「バンちゃん……」

つぶやきはみちるだった。

「バンちゃん。隼人はやとを許してあげて」


――許す……許す必要が果たしてあるか? 許しとはなんだ? 僕は怒っている訳じゃない。必要とされていない自分に絶望しただけだ。


「隼人はさ、ミチルやさくじゃダメなんだよ――いつか隼人を置いてミチルたち、先にっちゃうから。お願い、隼人のそばにいてあげて」


 僕の記憶の始まりは、抱き締めた細い身体の柔らかさと暖かさ。抱き返してくれる腕に込められた優しさ。包み込まれる安心感。口いっぱいに広がる熱い甘さ。それがやがて胃から臓腑に広がり全身に染み渡っていく、その心地よさ。隼人の血が僕を満たしていく。まさしくそれは『愛』だった。嬰児みどりごが母から貰うあいだ。


 一緒に行こう……頭の中に響く声に、この言葉は知っているものと少し違うと思った。大丈夫、時代が移っていっただけだ、と再び声が響く。言葉なんて、すぐに慣れてしまうものだ――


 延々と続く時の流れを共に過ごそう。人の世の変わり行く様を眺め、繰り返される営みに、命の摂理ほんしつを突き止めてみないか?


 神たるボクはいかない。そして太陽神ボクいのちを分け与えたキミなら、ボクと同じ永久えいえん存在き続けられるはずだ――


 隼人……あれは僕の勘違いか? 隼人の願いだと思ったのは僕の思い過ごしか? 僕は隼人に望まれたんじゃなかったのか?


 目覚めさせられる前の記憶がない僕にとって、隼人だけが世界の全てなのに、隼人にとってはちょっと血を吸った蚊と同じだった。てのひらで叩き潰しても、なんの罪悪感も感じて貰えない存在、僕はその程度。どうせその程度。絶望すること自体、身の程知らずだ――


 クローゼットの前にいた満の気配が遠ざかり、代わりに別の気配が近づく。そいつがクローゼットの扉に触れた。


「隼人!」

瞬時に外界がシャットアウトされ、僕は闇と静寂に包まれる。ドアを開けようとするがしない。こんなことができるのは隼人しかいない。


「隼人!」

大声で呼ぶが応える声はない。


 隼人が僕をクローゼットの中に封印した。もう、僕なんか要らないと、そう思ったんだ。


「隼人! 隼人! 隼人!」


 焦りが僕を責め立てる。自業自得だと責めている。必死になってクローゼットの扉を叩き、僕は隼人の名を叫ぶ。クローゼットは音を立てることもなく、揺るぐこともない。隼人の心もこの石のように、冷たく硬くなったのか?


 なんでこんなところにこもってしまったんだろう。たとえ隼人が僕を必要としてなくても僕には隼人が必要なのに、それを忘れて生意気にねたりしたから見限られた。後悔で胸がいっぱいになる。もう、ここから出して貰えない?


 いやだっ! 隼人、一緒に行こうって言ったじゃないか! 僕が悪かったから、隼人にもう逆らったりしないから! お願い隼人、ここを開けて……


 どれくらい経ったのだろう。気が付くと、リビングで騒いでいる気配がする。僕が石に変えたクローゼットは木に戻っているけれど、僕はまだクローゼットの中だ。泣き疲れていつの間にか眠ってしまったらしい。半乾きの頬っぺたがヒリヒリと張りつめている。


「バンちゃん! バンちゃん、起きて!」

クローゼットを叩いているのは満だ。そうか、封印は解かれたんだ。


「バンちゃん、大変なの、大怪我したの! 隼人が……」

満の言葉の途中で、反射的に僕は瞬間移動した。隼人の気配のあるリビングへ! 隼人が? 大怪我?


「おう、起きたか、バン」

僕を見てそう言ったのは奏さんだった。リビングはむせるような血のにおい、隼人はソファーに寝かせた朔の腕を掴みながら、青ざめた顔で僕を見上げた。


「バンちゃん、手伝って、やっと繋がった。早くしないと朔の体力が持たない」


 大怪我は朔だった。左の肘の少し下でばっさり切り落とされている。慌てて僕は隼人の対面に座り、朔の腕を撫で始めた。


 朔の手当てで忙しかった隼人はクローゼットの封印を解き、石を元の木に戻し、起こすのは満に任せたんだ。早くバンちゃんを! 満に命じる隼人の声が聞こえてきそうだ。ボクの力だけじゃ足りない、バンちゃんを呼んで!


「バンちゃん、なかなか起きてくれないんだもん」

僕の部屋から戻った満が恨みがましくそう言った。そんな言い方をしなければ、泣いてしまいそうだったんだ。


「神経も筋肉も繋げられた。骨はこれから。傷がまだ塞がらない、出血も止まらない。そろそろ血が足りなくなる」

「判った、僕は傷を塞ぐ。とりあえず表面を塞げば出血は止まる――隼人は中を何とかして」

「うん、判った――やっぱりバンちゃんは頼りになるね!」

嬉しそうに隼人が言った。


 やっと傷が完全に塞がり、骨も神経も筋も修復されたころ、奏さんが帰ってくる。僕と隼人が必死で朔の手当てをしている間に出かけ、たくさんのレバーを美都みつめんから持ってきた。夜が明けたばかりのこんな時間にやっている肉屋もスーパーもこのあたりにはない。立ち入り禁止のはずなのに、どうやって入ったんだろう? でも、今、そんなことを聞いても意味がない。


 レバーを一口大に切って、満が朔の口元に運ぶ。失血の補充がすぐにできるわけじゃないけれど、少しは役に立つはずだ。多少は僕も造血できるが、とてもじゃないが足りなかった。つまるところ、ここから先は自然治癒力に頼るほかはない。


 隼人が真っ先に神経や筋を繋いだお陰で、朔の左腕の機能は失われずに済みそうだった。僕が掛けた催眠術で痛みは感じないが、さすがに全快とはいかない。しばらく思うようには動かせないだろう。が、すっぱり切り落とされたのだ。ここまで治すのが、さすがの隼人も精いっぱいだった。時間とともに元通りになると、僕も隼人も見込んでいる。


「本来なら狼の姿に戻ったほうが治りは早いが、あの怪我じゃ、しばらく化身けしんは無理だな」

「うん、朔ちゃんは暫くうちで預かる。バンちゃんに看病して貰う」


 やっぱり僕ですか……ま、いつものことだ。


「それで? それでなんで、朔はこんな怪我をしたの?」

僕の質問に、隼人と奏さんが目を見かわした――


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