ふたりヒミツの恋

小宮 亰

ふたりヒミツの恋

誰もいない廊下を小走りに行く。

朝練をしている野球部員の声とブラスバンドのチューニング音だけが聞こえる校舎は、いつもと雰囲気の違う異空間のよう。

上履きが廊下にくっついては離れる音を響かせながら、ガラリと扉を開けた。


ツンとする画材の匂いが漂った。

朝だというのに美術室はどこか薄暗く、昨日使ったであろう絵の具や鉛筆、粘土なんかの匂いも染み付いて残っている。あくまでも美術部員の身なので、嫌いな匂いではない。

むしろ今となっては、心が躍る。


私の目当ての人物は、いつも通り落下防止用の窓の手すりによりかかるように、隅の方で鎮座していた。気だるそうに瞳を閉じて、深い眠りについているようだ。

そっと近づいてみる。

空気が揺れたが、彼は目を開くことなくそのままそこに。

思わず、ほぅ……と吐息がもれた。


豊かな髪は少し長めでウェーブがかり、端正な顔は白く美しい。まさに、という美術男子像と言っていいだろう。

一目見た時から心奪われ、彼目的に美術部に入ったと言っても過言ではない。周りからすれば不埒な理由にとられるだろうが、それでも構わなかった。

この人を見ることができるなら、それで構わない。


文化系の部活は、体育会系と違って朝の部活動はない。

だが、特別禁止されている訳でもないので、職員室で鍵を借りればいつでも入ることが出来る。

熱心な部員でもない私がほとんど毎日のように美術室に顔を出す理由は、彼を見るために来たと言うのも一つではあるが、文化祭で展示する為の作品が出来上がっていないのが主だった。


元々、絵を描くのが好きというわけでもなかったが、壊滅的に下手というわけでもなく、そこそこ見れる部類に入っていると自負はしている。

さて何を描こうかというところで、私の好きなものといえば彼しか思い浮かばなかったことには頭を悩ませた。

かといって、彼自身を描こうものなら他のみんなに尾ひれのついた噂をされてしまうかもしれない。そうなると彼自身を描くことも躊躇われてしまい、あれこれ試しに描いては止めを繰り返して、結局はこの美術室自体を描くことに。彼と一緒に過ごす空間として、この場所も好きではある。

そう意気込んで始めたはいいものの、これがなかなかに難しく暫く描いた後に諦めたくなったものだった。

しかし、また一からとなると私の労力も想像力も足らず、顧問の先生に頼りながらの制作を続けている。そのお陰もあり、だんだんと形になってきた画面を見るのは楽しい。ここに彼を書き加えられたらどんなに素敵だろうとは、今でも考えたりする。


描きかけの大きなキャンバスを手にして、私は当然のように彼の近くへ椅子やイーゼルを用意する。

二人だけの世界。これぐらい許されてもいいだろう。


さて、鉛筆はどこへいったのかと辺りを見渡す。

画材の置き場所は決めているが、他の人が使用する時もあり結局はバラバラになってしまうことが多々ある。新しいものを出してくるには気が引けるし、自分の分を購入するまでの熱量はまだ私にない。


少しの間視線を巡らせた後、お目当てのものを発見。大きな缶の蓋を切り取った中に絵筆と混ざりあうようにして何本か刺さっていた。

彼を挟んだ、向こう側の棚に。


ドキリと胸が鳴る。

……どうしようか。もしかしたら彼に触れてしまうかもしれない。

そう思えば思うほど緊張で指が震える。

しかし、それでは朝早く来た意味がなくなってしまう。

私は薄らと手にかいた汗をスカートで拭い、静かに静かに彼に近づいた。


彼の正面に周り、壁に沿うように立った四段棚の上から二番目に手を伸ばす。

つま先で立って背を伸ばすと、ちょうどお腹の辺りに彼の頭があるのが見えた。羞恥と混乱が頭の中を競うように駆け巡り、焦りの為か缶の口に指先を引っ掛けて落としてしまった。


ガシャン


大きく派手な音が辺りを包む。

ハッとして彼を見た。

彼は相も変わらず同じ体勢のまま。

危うく、彼の真上に落ちるところだった。直撃は免れ、どこにも傷はついていないようだ。この綺麗な顔に傷でもつけてしまったら私は立ち直れない。


ほぅ……と一息ついて、彼の周りや床に飛んで散乱してしまった道具をかき集める。部屋の隅に転がった缶を手に取った時、さきほどひっかけた人差し指がピリッと痛むのに気がついた。反対の手で缶を抱え、指の腹を見ると薄く皮が裂けて血が滲んでいた。

微量に出血は続いているようだが血の量も多くはなく、じんわりと赤く染まっていく指先を眺めていると、その向こうに彼の顔が浮かんで見えて来る。

というより、彼の顔がそこにある。


小さく、喉が鳴った。


彼の美しい顔がある。

すぐ近くに、手が届く距離に。

誰もいない……私たちしかいない、この美術室で。


頭の中で天使と悪魔が何度もやり取りを交わすのを聞いていた。

こんなこと、許されないのはわかっている。もしも誰かにバレてしまったらどうなってしまうのだろう。いじめられたりするのだろうか。

すきな人がいるというだけで。


私は、あちこちに思考を散らしながら彼に向けて手を伸ばしていた。

血の付いた指が触れないように、そっと彼の真っ白な頬に触れる。

ひたり、と指先に彼の感触が返ってきた瞬間、驚いてすぐに離してしまう。暴発してしまいそうな心臓の音が耳の奥でうるさく、呼吸が浅くなって満足に深呼吸もできない中で死んでしまうのではないかと錯覚した。

けれど、一度触れてしまった指は彼に向けてもう一度ゆっくりと伸ばされていく。

自分の意志とは思えない動きに、少しばかり残っていた良心が傾きながら語り掛けてくるものの、無情にも私の体はそれを却下した。


ふるえる手が彼の頬に添えられる。

冷たく、硬い感触。ビリリと背骨に電流が走った。

つるりとした肌に手を滑らせると高揚感が増していく。もっと彼に触れたい、もっと彼を知りたい。


血が浮き出た指で彼の唇をなぞるように動かすと、薄く色づいて血色が良くなったように見えた。

瞼を閉じたその姿に目を奪われ、思わず顔を近づける。彼と同じように目を閉じていき、唇に届くかという時。

美術室の引き戸が盛大な音を立てて開いた。


私は飛び上がらんばかりに驚いて、顔だけをそちらへ向けた。


「おお、どうした。大丈夫か?」


入って来たのは顧問の先生だった。

背が高く、ぼんやりとした表情をしているが、よく気がつく人で生徒からは人気が高い。だからこそ、私はあまり好きにはなれなさそうなのだが。


この一瞬でも、私が画材を落としてバラまいたことに気がついたのだろう。すぐに状況を把握して、心配の言葉をかけながら近づいてくる。

慌てて彼から手を離して取り繕った笑みを浮かべた。


「大丈夫です。ちょっと指をひっかけて倒しちゃっただけで……」


「さっき職員室に鍵を取りに来た時に言ってくれれば準備も手伝ったのに」


「先生、お忙しそうだったから」


「それでも、一応顧問だからな」


笑い、しゃがみこんで画材を拾い集めてくれる先生に付いて、私も一緒に絵筆や残りの少なくなった絵の具をひとつひとつ手に取って拾う。

ふと、そういえばと先生が口を開く。


「お前、風景画だったよな。さっき何でアレに触ってた? 何かあったのか?」


ぴたり、と数瞬のうち私の動きが止まってしまった。

目ざとく気がつく先生は、何を思い間違ったのか「いや、別に怒ってるわけじゃないんだよ」と集めた画材を缶の中に適当に放り込む。カシャカシャと軽い音をさせて立ち上がり、缶をテーブルの上に置いた。

彼の乗っているテーブルに。


私も両手いっぱいになった画材を持って立ち、缶の中に落としながら何てことのないように彼を見つめる。


「丁度これの上で缶が落ちてしまって。もし傷でもついていたらと思って確かめていたんです」


苦しい言い訳かもしれないが、あれだけ顔を近づけて撫でまわしていたところを見つけられてしまっていたので、他に上手い言い訳がとっさには出てこなかった。

それでも、先生は納得がいったように頷いて「そうだったのか」なんてお礼まで言ってくれる。

そして彼の唇に赤いものが付着しているのに気がついて、今度は慌てだすのだ。生徒に傷がついてしまったとなれば、気の利く先生は動くのが早い。


「怪我したなら早く言え。絆創膏持ってくるから、ちょっとここで待ってるんだぞ」


そう言うなり、入ってきたばかりの扉に足早に近づいて、去り際に傷口を洗い流しておくように言い置いて出て行った。

嵐のように過ぎ去っていった先生に、大きくため息をつく。騒がしいわけでもないのだが、干渉されすぎているようで疲れた。

血の付いた指先は、もう固まってしまって新しい血も流れ出ている感じはない。しかし先生の後を追ってまで制止する気力などなく、むしろあと少しで終わってしまう彼との時間を優先することの方が大事だった。


ちらりと彼に目を向ける。

目を閉じ、両腕は肩より下がなく、瞼を下ろして眠るように自らの肩にもたれかかる姿。均整な体は上半身だけでも非常に美しい。

紛れもなく彼は、瀕死の奴隷石膏像。

私のすきな人。


血の通い始めたかのような唇の赤みに再び胸が跳ねる。

熱い指先で彼の冷たい唇に触れ、思わず微笑んでしまった。


「急にこんなに触れてごめんね。……でも、本当にだいすきなの」


懇願にも似た私の言葉に彼が答えるわけもなく。

でも、私にはわかっている。あなたが優しいことを。

この思いを、柔らかく包み込んでくれることも。


そっと唇が触れるだけのキスを交わす。

周りになんと言われようと、私と彼の時間を奪うことはできない。


顔が離れると、愛おしい彼はまだ目を閉じたまま。なんだか心がくすぐられる思いがして、小さく笑ってしまった。このまま二人だけの時間がずっと続けばいいのに。授業がずっと、美術の時間だけならいいのに。

夏休みも、冬休みも、春休みも、長期の休みの間も彼に毎日会いに来ることができたならいいのに。

私には、それも許されない。


だから、せめてこの少しの時間だけは。どうか二人で。


私は目を閉じ、廊下を歩いてくる音を聞き洩らさぬようにしながら、彼の胸元に頭を預けた。

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