第2話 ネイピアの初登庁
下ろしたての隊服は窮屈で歩きづらい。
ルーニー・ネイピアは詰襟を緩め、第一ボタンを開けた。
真っ赤な上着に金色のボタン、飾りもたくさんついている。
貴族の流行を取り入れた最新のファッションで、評判も上々らしいが……
──まるで道化だ。
少し迷ったが、第二ボタンも開けた。
ボロボロの煤けた軍服が懐かしい。ネイピアはボミラールル王国の軍人だ。
隣国リューベルとの戦争は五年が経つというのに、終わりが見えない。
ネイピアは開戦当初から中隊長として戦地に赴いていたが、昨日、最前線を離れて首都ベルメルンに帰還し、巡察隊への配属となった。巡察隊とは国王の意向で作られた国内初の警察組織だが、まだ産声を上げたばかりで、軍隊の中の一部署に過ぎなかった。
長い坂を登りきると、ベルメルン城がどっしりと構えていた。増築を繰り返して肥大化した姿は、まるで山腹に横たわる異形の獣のようだ。城門前の展望デッキには子連れの若い母親やデート中の男女、そして物売りの姿がある。
笑い声が聞こえた。見ると巡察隊服を着た者たちが数人、坂の下を指差している。その方向に目をやると、こちらも巡察隊服の若者が倒れている。どうやら転倒したようだ。
その若者は生まれたての小鹿のように震えながら、なんとか立ち上がり、おぼつかない足取りで坂道を走り始めた。笑っていた連中が口々に叫ぶ。
「もっと速く走れよ! そんなんじゃ、犯人に逃げられちまうな」
「お前みたいな出来損ないの巡察隊員はいらねえんだよ」
「市民の皆さんからも愛想をつかされてるさ」
もう少しで坂を登り切るところで、若者は近寄ってきた隊員たちに足を掛けられて再び転倒した。
「クズが。もうあと十往復だ。死ぬまで走ってこい」
隊員たちは倒れたままの若者に唾を浴びせかけて、城へと戻って行く。
ネイピアは門のところで彼らに追いつき、話しかけた。
「こんちは」
リーダーと思しきチビの隊員はネイピアの服装を見て、戸惑っている様子だった。
「あなたは?」
「ルーニー・ネイピア大尉だ。今日から巡察隊の班長を拝命した」
「ああ、ネイピア大尉でしたかあ〜。それはそれは、フフ」
リーダーは値踏みするようにネイピアの全身を見回して嫌味ったらしく言った。
甲高い声が耳にまとわりつく。
「隊服がよくお似合いで」
「君は?」
「メイレレス・ブローリン中尉。巡察隊ではあなたと同じ班長ですよぉ」
「よろしくな、ブローリン中尉。ところで、今のは何の罰だ?」
「罰? ああ、巡察隊のバッジを失くしたんですよぉ」
と言って、メイレレスは詰襟に付いている双頭の竜の紋章を指差した。
いちいち芝居がかっていて気持ち悪い。
「バッジを失くしたら、いつもああするのか?」
「さあどうでしょうねぇ。そんなバカは滅多にいませんからねぇ〜」
後ろにいた隊員たちが笑った。その声に背中を押されたようにメイレレスは挑発的に言い放った。
「大尉も失くさないように気をつけてくださいねぇ〜。その年齢では、坂道もしんどいでしょうからぁ」
「俺は鍛え方が違うから大丈夫だよ。匍匐前進で往復してやるよ。それに俺はまだ三十二。老け込む年齢じゃない」ネイピアはメイレレスを見下ろして言った。
「確かに鍛え抜かれた肉体ですねぇ〜。でもね、戦場では英雄かもしれませんが、大都会ベルメルンで大事なのは筋肉じゃなくてココですよぉ、ウフフ」
メイレレスは自分の頭を指差して言った。「頭の悪い田舎者は淘汰されるんですよねぇ。必ずぅ」
メイレレスとその子分たちは、大手を振って去って行った。
ネイピアは思わず笑ってしまった。
「楽しくなりそうだな」
✳︎
巡察隊の詰所は城の二階にあった。
積み重なった書類の山の中で隊長のビールズ・グライジャーは書き物をしていたが、ネイピアが「失礼します」と声をかけると黙って顔を上げた。真っ青な瞳で射抜くような視線が印象的だった。
「本日よりベルメルン巡察隊班長を拝命しました、ルーニー・ネイピア大尉です」
「ああ、君がネイピア君か。長旅で疲れただろう」
ビールズは立ち上がって握手を求めてきた。その手には薬指と中指がなかった。戦場で辛酸を舐めた経験があるらしい。
ネイピアは、がっちりと握り返して言った。
「確かに疲れはしましたが、ベルメルンの街に癒されました。初めて来ましたが美しい街です」
「当代きっての画家連中がこぞって、そこの展望台からの風景を題材に絵を描く。我々が守っているベルメルンとはそういう街だ」
「なるほど。私は芸術的感性を全くと言っていいほど持ち合わせておりませんが、我が祖国ボミラールルの誇りでしょう」
ビールズはネイピアの言葉に満足げに頷いた。
「知っての通り、国王は近年、治安改善に努めている。それはなぜか? 我々が犯罪のない心穏やかに暮らせる街を作れば、多くの民がこのベルメルンに、そしてボミラールル王国に移住するに違いない。国力は人口に比例する。すなわち我々の働きがこの戦争に勝てるかどうかの命運を握っていると言っても過言ではないのだ。その自覚を持って任務にあたってくれ。よいか、ネイピア。お前も戦場を知っているだろう? 巡察隊の任務をなめてかかるな。ここも戦場なんだよ。我が祖国ボミラールルのために死力を尽くせ」
「もちろん、そのつもりで来ました」ネイピアは直立不動のまま答えた。
すると──
バシッ!
乾いた音が響いた。
ビールズはいきなりネイピアを殴りつけたのだ。顔面に二発と腹に一発。
ネイピアは堪えきれず、床に突っ伏した。
「お前が問題児なのは、よーく知っている」
ビールズは咳き込むネイピアの胸ぐらを掴み、第二ボタン、第一ボタン、詰襟と一つずつ閉めていった。
「くれぐれも市民の皆さんに嫌われないようにな。まずは身だしなみから気をつけろ」
「はい」怒りを押し殺してネイピアは絞り出した。
「ところで相談なんだが、今は人手が足りていない。お前に付けられる部下は一人だけなんだが。承知してもらえないだろうか?」
通常、巡察隊の班は七人から八人から成る。要は嫌がらせだ。軍の上層部から押し付けられた厄介者の自分を飼い殺すつもりに違いない。しかし、ネイピアはこうした状況には慣れっこだった。
「十分ですよ。一人でもいてくれれば」ネイピアはわざとにっこりして答えた。
「そうか、それは助かる。なあに、ずっと二人でやれと言うわけじゃあないんだ。これから新しい者が入れば補充することもやぶさかではない。しかし……」一旦、言葉を切ってビールズはネイピアの耳元で囁いた。「部下をあまり死なせないようにな」
「ハハハ、どういうことです?」ネイピアはわざと笑いながら言ったつもりだったが、言葉には怒りが滲んでいた。
「俺が知らないとでも?」
ビールズは不適な笑みを浮かべていた。
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