第9話 人はそれを不意打ちと呼ぶ
「歓迎会、大袈裟なものになっちゃってごめんね?」
申し訳なさそうに和花のグラスにオレンジジュースを注ぎながら暮羽が言った。
宴会場と化した二間続きの和室を見渡して和花が苦笑いする。
「とんでもないです、ありがたいです」
「うちの課長と、営業部と国際部のメンバーが仲良いから、飲み会ってなるとしょっちゅう合同になっちゃうのよ。今回は、営業の急な異動もあったところだったから、尚更盛り上がっちゃったみたいで・・・販売の飲み会とは毛色違うからびっくりしたんじゃない?」
「あ、それは・・・確かに」
販売部は男性4割女性6割の比率なので、飲み会も比較的女性好みの店が多い。
こういった居酒屋で、7割男性の飲み会というのは和花にとって初めての経験だった。
ビールの消費量が半端無く多い。
乾杯以降、オレンジジュースでやり過ごしていた和花の前には空になったビール瓶が散乱している。
もう少しお上品な飲み会をイメージしていたが、変に絡まれることは無かったので良しとする。
最初の飲み会から酔っぱらって失態を晒すわけにはいかないので、本日は大人しくオレンジジュースでお付き合いだ。
もともと慣れた人間と以外は外でもそう飲まないので苦痛では無かった。
「でも・・・暮羽さん、ご主人が国際部にお勤めだったんなんて、知りませんでした」
しかも、慧の上司だとは夢にも思いませんでした。
と心の中で付け加える。
「志堂の・・・分家の方なんですね」
「あー、有村さんって志堂の親族に詳しいの?」
「え、いえ・・・ちょっと、皆が話してるのを聞いて・・・」
暮羽からの突っ込みに慌てて言い訳をする。
数年前まで、その柵の中に片足突っ込んでましたから。
そりゃあもう志堂の分家の名前は嫌って言うほど聞いてきました、とは言えない。
家に親戚が来る前には、必ず父親が母親に、どの分家筋の人間か説明をしていたせいで、いつの間にか和花も覚えてしまった。
他人事のように両親のやり取りを聞きながら、面倒くさいなと思っていたけれど。
実際に、全然違う所から分家に嫁いだ人が目の前にいる、それが物凄く不思議で仕方ない。
「あの・・・暮羽さん」
「はーい?」
「分家の方と結婚される事に・・・志堂の親族になる事に抵抗は無かったんですか?あの、色々・・・大変だと思うので」
「抵抗っていうか、好きになった相手が、たまたま、志堂の親族だったってだけだから」
あっけらかんと答えて見せた暮羽の言葉に拍子抜けしてしまう。
「たまたま・・・」
「だって、お見合いでも無いし、あたし志堂一族についての予備知識なんて全く持って無かったから。結婚間際に、分家筋に当たるって言われた時もふーんっていう程度だったし」
「だ、大丈夫なんですか?」
思わず自分の母親の苦労していた姿が目に浮かんで他人事には思えなくなってしまった。
志堂分家である事にこの上ない誇りと自負を持つ人たち。
和花の母親にとっては敵でしかなかった人たちでもある。
彼らからの和花たち母娘に向けられる眼差しが、優しかった事なんて一度も無い。
「大丈夫って?」
「あの・・・親戚付き合いとか・・・」
「年末年始の挨拶位のもんだよー?昔はもっとややこしかったみたいだけど、一鷹さんの代になってから随分やり易くなったみたい。分家間の風通しも良くなったって主人が言ってたし・・・浅海さん、あ、分家筆頭ね。あの人が結婚する時にひと悶着あったらしいから、その時に面倒な人たちは文字通り一掃されたって話しよ」
「へー・・・そうなんですか・・・」
「東雲くんも、分家筋だけど、普通に働いてるでしょう?」
「あ・・・はい・・・」
どうやら、自分達親子が抜けた後で色々とあったらしい。
ひとまず、目の前の先輩が分家間抗争に巻き込まれる心配はないようでホッとする。
和花の安心した様子に微笑んで、暮羽が自分のグラスにもオレンジジュースを注いだ。
気付いた和花が慌てて酌をする。
「暮羽さんも、あんまり飲まないんですか?」
「うん、控えめにしてるの。外で飲む時は特にね、今日は主人は最後まで付き合いがあるから帰りも別だし。家で飲むのは好きなだけ飲んでイイって言われてるけど、会社で羽目外すのもねェ。ありがとー」
注がれたオレンジジュースを口に運びながら暮羽が答える。
歳は同じ歳の筈なのに、彼女は人妻で、自分だけの家族がある人。
志堂一族である事も、分家の人間である事も飛び越えて、全く問題でないと思える位、好きになった人を家族にした人。
自分とは真逆を生きている暮羽の言葉は、今の和花には完全には理解出来ない。
けれど、昔覚えた分家に対する強い嫌悪感は感じられなかった。
自分が幼かったから、そう感じただけなのだろうか?
今、慧とお父さんが居る場所が安全なら何でもいいけれど・・・
暮羽に注いで貰ったオレンジジュースで喉を潤していると、離れた座敷から声がかかった。
「こっちのフルーツ持って行って女子で食べとけー」
飾り切りを施されたオレンジやパインの皿を手に北村が手招きしている。
「はい!」
返事をして立ち上がる和花に暮羽が声をかけた。
「あ、今日は歓迎会だからあたしやるよー」
暮羽からの申し出は有難いけれど、後輩としていくら今日の主役と言えど、先輩を使うわけにはいかない。
受け取ったフルーツの皿を持って、和花は座敷を出て直ぐにある簡易キッチンに向かった。
皆で食べられるようにもう少しフルーツを切り分けて貰おうと思ったのだ、が生憎店員を捕まえられなかった。
仕方なくキッチンに置いてあった小さなナイフでオレンジを切り分ける事にする。
座敷の熱気を抜けだして、廊下の涼しい空気を吸うと火照った体が一気に冷えて行く。
「もーちょっと小さい方が食べやすいかなぁ?」
綺麗に飾り切りされたオレンジの皮を勿体無いが剥いてしまう。
女子で分けるとなると、出来るだけ一口サイズにカットする方が食べやすい。
まな板もないので、手に持ったオレンジを小さくに切るのも苦心する。
手元に夢中になっていると、急に真後ろから声がかかった。
「あっぶなっかしい手つきだな、おい」
覗きこむように現れたのは慧だ。
「何!?ぎゃっ!」
驚いた拍子にオレンジを握っていた左手の人差し指をナイフの先が掠めた。
「いったっ!」
「切った!?」
左手から零れたオレンジを目で追う和花の隣りで、慧がすかさず和花の左手を掴んだ。
血がぷっくりと浮かび上がった人差し指を迷うことなく口に含んだ。
仰天したのは和花だ。
「な、何!?」
真っ赤になって慌てる和花の素振りに見向きもせず、舐めた人差し指を確かめて慧が顔を顰める。
「すぐ止まるかな?」
「だ、大丈夫!っていうか、何で来たのよ!」
「何でって、和花の姿が見えなかったから」
さも当然のように言われて、和花はぽかんとなった。
これじゃあまるで本当にお姉ちゃんが側にいないと落ち着かない弟みたいじゃないか。
一緒に暮らしていた頃は一度だってそんな可愛げ見せなかったくせに。
慧が帰国して間もなく歓迎会が行われたらしいが、その時は相良を含め数人のこじんまりとしたものだったらしく、今日はその時の分も盛大に飲もうと営業達は勇んでいるようなのに、こんな場所で元姉の世話を焼いている場合では無い筈だ。
「あたしの事気にしてる暇あるなら、上司にお酒注いできなさい」
「余計なお世話、貸して」
そう言って和花の手からナイフを取り上げると、慧は残りのオレンジとパインを手際良くカットしていく。
見事な手捌きに和花が思わず目を丸くする。
「あんた料理出来たの?」
「これ料理?向こうに居た時は自分で簡単なものは作ってたよ。お前よりはナイフ握ってる」
「・・・・・」
それを言われるとぐうの音も出ない。
有村家の食事は基本、香澄の店の残り物がメインだ。
小腹が空いても一階に下りれば何でもあるので、和花は進んでキッチンには立たない。
「血、止まった?」
握り込んだ左手に視線を向けられて、和歌は咄嗟に左手を右手で包み込んだ。
「へ、平気」
「何でそんな動揺してんの?」
訝しげな慧に向かって和花が目くじらを立てる。
「あ、あんた、女の子皆にさ、さっきみたいな事してんじゃないでしょうね!」
元姉弟の自分ですら心臓に悪いのだから、普通の女の子がされたら卒倒物に違いない。
真っ赤になった和花の顔を見返して、慧が軽く肩を竦めた。
「さーどうだろね?」
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