ぼくと幼い君のありふれた日常、あるいは終焉に向かうだけのエピローグ

「にぃにー」

「はいはい、よしよし」

 少女がぼくに甘えてきて、ぼくはそれをそっと受け止めた。

 心地の良い朝、毎日の光景。吸い込んだ空気には甘い香りが溶け込んでいた。

「いま、替えてあげるね」

「あぅ?」

 疑問符を頭に浮かべた腕の中の少女を、そっとベッドの上に横たえる。

 そして、中学生くらいの体躯にはいささか幼すぎるようなピンク色のパジャマの下を、そっと脱がせた。

 ピンクのパジャマよりも年不相応な下着が顔を出した。

 ……まだ、治ってないか。

 黄色く膨らんだ女児用の紙おむつ。ぼくはため息を吐いて、悪い思い出を振り払うように顔を横に振った。

 おむつを脱がしてやると、むわっとした湯気と共に何とも言えない……たとえるならばミルクのような、独特の尿臭が広がった。

 枕元に常備してある柔らかい素材のウェットティッシュ――おしりふきというらしいと最近知った――でそっと玉のようなお尻を拭ってやると、彼女は「きゃっきゃ」と赤ん坊のように笑って喜んでいた。

 可愛いな。あの頃から変わらずに。

 微笑みながら、おむつを穿かせてあげた。

「今日は散歩にでも行こうか。今日はいい天気だから」

「うん! みぃ、おさんぽすきー!」

 彼女ことみぃが笑うと、つられて笑った。

 そのみぃが背負った辛い運命すら、思い出さないようにしながら。


 彼女は五年前のある日、成長が止まった。


 幼馴染だった彼女と付き合って、物語は始まった。

 でも、主人公は別にいた。

 小柄で気の強かった「美月」の他にも彼女が欲しかった、ハーレムを作りたかった……なんて、バカみたいな若気の至りで禁断とされる魔術に手を出して。

 親友しゅじんこうにそれを阻止されたことで、美月の精神と身体は壊れてしまった。

 あの日から美月の身体は成長を止め、精神は幼児退行を起こし、自分を「みぃ」と名乗るようになった。

 トイレで用を足すことすらできなくなって、常におむつを穿くようになって、結果的に逆トイレトレーニングみたいなことになってしまったらしい。

 今ではもうおむつなしでは生活できない、文字通り心も体も大きな赤ちゃんみたいな、しかし実年齢はもう成人間近の歪な少女になってしまった。

 ぼくのせいで、一人の少女の未来を奪ってしまった。

「にぃに、だいじょうぶ?」

 終わった物語、エピローグを彩るのが、いまぼくの顔を覗き込むその少女であることの、どれほど皮肉なことか。

 憂鬱な表情を振り払って、僕は微笑んだ。

「大丈夫だよ」

 そんな風に言うと、彼女は僕に抱き着いた。

「なんだよ」

「ぎゅーってしたいから、したの! ぎゅ~っ!」

「そっか」

 すこしだけ暗雲が晴れた、ような気がした。


 十五分くらい歩いただろうか。

 近所の大きめの公園。みぃは滑り台の方へ走っていった。

「はしゃぎすぎんなよー」

「わかってるもん!」

 ……スカートがめくれることを予期してスパッツを穿かせておいたぼくを褒めてほしい。

 カラフルな女児服がなんだか似合って見える彼女を見送ってすぐ、肩を叩かれる。

「久しぶりだな」

「おう。こっちこそ」

 ……高校生の時からの親友。いまでも付き合いがあるし、友人でいられている。

「美月ちゃん、元気か」

 彼の問いに、俺は滑り台にはすぐ飽きたのか今度はブランコで遊んでいるみぃを指さす。

「見ての通りだよ」

「そうだったな。……元気そうで何よりだ」

 彼は可哀そうなものを見たように、目を伏せた。……同級生だったはずの女の子が、幼児のような服で幼稚園児のように遊んでるのを見たら、確かにそうもなるか。

 ぼくは息を吐いて。

「君も、メインヒロインとは元気にヤってるか?」

「ああ。おかげさまで。……相変わらずイヤミったらしい言い方だな。やめてくれよ、主人公とかメインヒロインとか言うの」

 だって、本当にそうとしか思えない配役なのだもの、なんて彼の前で言うことはない。

 彼の周りの人間関係は、おそらく典型的なギャルゲーのそれにたとえられる。

 主人公である彼を中心に、結果的に彼と結ばれることになったメインヒロイン、あと何人かのサブヒロイン。おそらく美月もその一人だったのだろう。ぼくは親友枠で、主人公の恋路を邪魔する悪役だ。

 ……本人には言わないほうがいいだろう。自覚がない方がよりそれっぽい。

「ごめん」

 唐突に、彼は言った。

「なんでだよ」

「美月をあんなふうにしたのは、きっと」

「すべてはぼくの責任だって、何度も言ってんだろ」

 彼の言葉に被せるように、僕は自嘲する。

「今更、君が何を気にする必要もない。もうすべては終わったこと」

「でも……」

「もう物語は終わってんだ。エピローグで、負けヒロインと敵役がくっついてるのを見て、主人公が何を気にする必要があるんだ」

 ポケットからタバコを出して、火をつけた。

 ため息交じりの煙は空に散って。

「これがトゥルーエンドなんだ。気にすんなよ、主人公」

「……」

 沈痛な面持ちの彼を横目に。

「みぃ、行くぞ」

「うん! にぃに!」

 みぃを呼んで、手をつないで公園から去るぼくに、彼は叫んだ。

「お前は、それで幸せなのかよ!」

「……ああ、幸せさ」

 紛れもない本心、そのはずだ。何不自由なく暮らしてるし、みぃは可愛い。幸せな生活。

 そのはずなのに、胸がぎゅっと引き締められるのは、どうしてなんだろう。

 吸殻を踏み潰しながら、後ろに手を振った。親友の姿を見ないようにして。


 夕飯の買い物をして、そろそろ日も沈みだす頃合い。

 みぃと手を繋いで帰り道を行く。

 荷物を持って鼻歌を歌いながら歩くみぃ。ぼくは彼女から目をそらし、ため息をつく。

「にぃに?」

 みぃがぼくの顔を覗き込んでいた。いつの間にか俯いていたことに気付いて、はっと顔を上げる。

「あ、あぁ。なんだい?」

 慌てて微笑みを作り……。

「にぃに、無理してるでしょ」

 その言葉に、目を見開いた。

「あの日から、ずっと。……あたしのために。『みぃ』のために……ずっと、自分を押し殺して」

 信じたくない。その言葉が本当だとしても、否定しなくてはならない。

「あたしをみぃにした、その償いがしたい……どうせそんなことを思ってるんでしょ。……そんな気遣い、いらないのに」

 その本心が、ぼくの心を切りつける。

 否定しないとダメなのに。みぃが、みぃが……。


「もっと自分を大事にしなさいよ! バカ!」


 もうそこにいたのは、「みぃ」ではなく、「美月」だった。

 彼女にそんな想いをさせていたなんて、思いもしなかった。

 自分を押し殺して、ただ彼女の世話をする。それだけが彼女にできる唯一の償いだと、そう思っていた。

「ごめん。ぼくじゃ君のそばにいる資格はなかったかな」

 茶化すつもりはなかった。仮面を破られたぼくの微笑みはぎこちなくて、とても動揺を隠しきれてはいない。

 けど、それでも誤魔化そうとしたのは、きっとぼくのエゴ。彼女に見捨てられたくないというエゴだ。

 ……ぼくは、彼女のそばにいる資格はないはずなのだから。心に強い傷をつけた本人など……いないほうがいい。

 けど、そんなぼくを、みぃは、美月は、そっと抱き締めた。

「誰も、そんなことは言ってないじゃない。……あたしのおむつを替えてくれるあなたは、とても優しい目をしてて、最大限にあたしを想ってくれるその手つきに、あたしは惚れ直してた。……ずっと、だいすきだった」

 それは、どっちの人格の言葉か。そんなのどうでもよかった。

「ぼくも……ずっと、好きだった。いまも、ずっと」

 大好きだ。

 ぎこちない、不格好な告白。

 冬の近い、少し寒い夕方。

 ぼくらは強く抱き合って。

 夕日は僕らを祝福するように、赤く輝いた。


 それから。

 ぼくらはまた、日常に戻った。

 あの後、美月の人格はまた鳴りを潜めて、また甘えん坊のみぃに戻っていた。おもらしもまだ治らないし、おむつが外れる気配もない。

 けど、自分からトイレに行こうとする意志が見え隠れするようになった。

 トイレに行こうとしてできなかったみぃの頭を撫でて。

「……はやく、にぃにのおよめさんになりたいのになー」

「ははは……」

 寝転がっておむつ替えしてもらう体制になった彼女の言葉に、僕は苦笑した。

 結婚……結婚かぁ……。

 それもいいかもしれない、なんて思ったのは心の中にとどめておく。幼いぼくらには、まだ少し早すぎる。


 物語は終わった。そのはずだった。

 けど、何度だって始められる。

 終わりは、次の始まりだ。

 終焉に向かうだけのプロローグ、あるいは新しい僕らの物語は、まだ始まったばかりだ。


 Fin.


   *


 初出:2021/11/26 小説家になろう・pixiv同時掲載

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